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蛤御門の変
弐
しおりを挟むだが、公卿から退去勧告を提示され、戦意が萎えていた福原率いる長州軍と、『一橋 慶喜』から直々に最重要拠点の守護を任された大垣藩兵とでは、数云々ではなく、気概の面で勝負は見えていた。
「我らの敵は会津であろう! 我らの目的は同胞の仇討ちではなかったのか!?」
「否──! 我らの目的は、帝を長州へお移しすることである──!」
挙げ句、仲間内でも意見が割れ──
「撤退だ! ひとまず兵を退く!」
『福原 越後』の軍は、早々に大坂方面への撤退を余儀なくされた。
それは、九条河原に屯集していた新撰組が駆けつけた頃合いとほぼ同時の出来事だった。
「背を向ける敵は追うな! 我らは御所へ向かう!」
近藤の大音声と共に、旗役の『尾関 雅次郎』が力強く隊旗を掲げる。
決意の“赤”に、忠義の“白”で染め抜かれた“誠”の一文字が、京の空に翻った。
嵯峨の天龍寺から進軍して来た『来島 又兵衛』率いる長州軍は、御所西側の蛤御門を目指した。
途中、待ち構えていた会津第一陣と衝突──
来島の軍は見事撃破し、禁裏まであと一歩というところまで兵を進めるも、乾御門を守護していた薩摩軍に横槍を入れられ、形勢は一気に逆転。
そして、そこへ蛤御門を守護していた桑名軍と会津軍、新撰組が加勢し、呆気なく勝負はついた。
来島が負傷すると、率いていた軍は右往左往の挙げ句敗走。
山崎の天王山から遅れて入洛した『久坂 玄瑞』の軍勢が御所を望めるところまで進軍した時にはもう、巻き返せぬ戦況となっていた。
「──我らの敵は…… 朝廷ではない…… 我らの…… 我らの目的は…… 我らは逆賊ではない──!」
久坂の叫声が、哀しく響いた。
何をどう、間違えてしまったのだろうか──
どこでどう、目的を見失ってしまったのだろうか……
もはや、考えてもどうにもならぬ過失を必死に巡らせる久坂。
『久坂! 結局おまえは、どこに喧嘩を売るつもりだ!? 相手を間違えると、おまえの命だけでは済まぬことになるぞ!?』
混乱する思考が辿り着いたのは、高杉のその言葉だった。
「──お逢い…… せねばならぬ────……」
抜くのが遅すぎた大刀を震える手で鞘に収め、久坂はつぶやいた。
「──帝に…… お逢いせねばならぬ──……」
自らを鼓舞するように呼吸を荒らげ、久坂は右手で空を煽いだ。
「兵を退く! 各々、天王山へ戻るのだ!」
もはや、手遅れであるかもしれない。
それでも久坂は、“闘う意思”を脱ぎ捨て、『寺島 忠三郎』とわずかな側近だけを連れ、『鷹司 輔熙』の屋敷へ足を運んだ。
鷹司は長州寄りの公卿である。
久坂が帝に直接目通りを願い出るには、彼を頼るよりほかに術はなかった。
だが──
「お主、生きておったのか!」
それが、悪行であるかの如き剣幕で、対話の口火が切られた。
「鷹司様! どうか、どうか帝にお取り次ぎを!」
久坂とて、なりふりかまっている暇はない。
もはや、恥も外聞もなく、縁側に立つ鷹司に額ずいた。
「……なにを血迷うておいでじゃ。 屋敷にお主ら逆賊がおることさえ、ほんに怖ろしいと云うのに…… 早よう立ち去るのじゃ。 わしは今後一切、長州とは関わり合いにならぬ!」
けんもほろろ──
鷹司は短い足で地団駄を踏みながら喚き散らす。
口から飛び出した泡沫が、小雨のように久坂の頬を不快に濡らした。
「我らは── 逆賊ではありません!」
「今更…… 天子様の御座しゃる御所に弓引いて、どの口が申しまするのか」
久坂の熱弁を遮るように、鷹司は胸許から取り出した雅な扇子を勢いよく開いた。
「我らは──」
『──万にひとつでも流れ弾が御所の門扉を掠めたらどうする!? “間違えました、相済まぬ”では通らぬぞ!』
今度は、脳裏に甦る高杉の言葉が、再び振るわんとする久坂の弁を遮った。
おまえの命だけでは済まぬ──
今になって、高杉の言葉の真意を痛感する久坂。
自分は、大海に沈む一滴の雫にすぎない。
そんな自分が何をどう主張しても、どこにも影響を与えられぬのだ。
「──お願いです…… 帝に…… 帝にお取り次ぎを──……」
「ほっほっほっほっ── これは異なことを…… 長州を逆賊と思うておらしゃるのは天子様じゃ。 皆まで申さずとも、賢きお主ならお判りであろう?」
額に血が滲むほど平伏しても、どうにもならぬ事は久坂にも判っていた。
「──もはや…… これまでか────……」
桂には散々噛みついて来たが、本当は、彼や高杉の論拠の方が正しいのだと、久坂は知っていた。
そう、知っていたのだ──……
負けたくなかった──ただ、それだけの事だったのかもしれない……
すべてを悟る時が、遅すぎただけの事──
「久坂っ! 桂さんを探そう。 あの方の知恵を──」
「無駄だ……」
寺島の意見を、久坂は弱々しい声で却下する。
「心ならずも、我らは殿を朝敵にしてしまった…… 桂さんなら…… どうするであろうな……」
刹那──
久坂の細い声を掻き消すには余りあるほどの大砲の音が、舐めるように轟いた。
かすかに揺らいだ地面が、砲撃の近さを物語る。
そして、主の消えた鷹司邸は、やがて皓々たる焔に包まれた。
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