ー 殉情の紲 ー

MICA

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冥鬼の最期

拾弐

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二階にある平間と平山の部屋へ続く簡素な階段を、音を立てず慎重に踏み重ねてゆく左之助と山南。

障子戸からは行灯の燈がこぼれ、中からは愉快げな声が聞こえた。

どうやら、ふたりはまだ起きているらしい。

だが、相当量の酒を飲んでいる事は確かだ。

不意を衝けば、こちらに有利に事は進む──

そう睨んだ左之助は、後方の山南に片手で“突撃”の合図を送り、勢いよく障子戸を開け放した。

驚く間も与えず、左之助は障子戸に背を向ける格好で座っていた隻眼の男、平山の急所に躊躇なく鋭いほこさきを見舞った。


「────ぐはっ……」


断末魔の叫びは、呆気ない響きだった。

背後から心臓を貫かれた平山は、口から迸る鮮血を吐き流し、大きく痙攣しながらその生涯を終えた。

平間は持っていた盃を山南に投げつけ、同志に槍を突き立てる左之助の横を這うように部屋から飛び出した。

酔っておぼつかぬ足取りで、半ば転げ落ちるように階下へ逃げる平間。

その背中を義務的に追う山南。

裸足のまま泥海と化した裏庭へ走り出た平間は、自らの足に躓き、雨曝しの地面につんのめった。


「たっ…… たた助け…… 助けてくれっ……!」


泥と雨の中でもがくように懇願する平間の姿は、憐れそのものだった。

山南は大刀の柄を握る右手に力を籠めたが、とうとう抜き払う事はできなかった。


「──行きなさい……」


こんな風に怯える男を斬る必要も意味も、山南の中には存在しなかった。


「早くっ!」


山南は静かに吼えた。

平間は恐怖で引き攣った顔を山南に向け、小刻みに頷き了解を告げる。

水田で跳ねる蛙のように、平間は裏門からその姿を消し去った。


「──判んねぇな」


憐れな男を見送る山南の背後から、低い声が聞こえた。

振り返る山南の目に、降り注ぐ雨で返り血を流す左之助の姿が映る。


「あんたみたいな人がなんで、剣の道を選んだのか……」


平間を憐れむ山南を、左之助は更に憐れんでいるような口ぶりだった。


「原田君──」
   
「平間はってことにしといてやるよ。 だが…… これが、最初で最後だ。 芹沢は必ず仕留める。 ──“必ず”だ」


左之助は平山の命を吸い上げた槍をぐるりと器用に回し、踵を返した。


「──あんたの甘さ、いつかあだにならねぇことを祈ってるよ」


背中越しにひとつ言葉を残し、左之助は芹沢の部屋へと足を向けた。

山南は再び、その後を追う。

今度こそ抜かねばならぬ大刀に左手を添えて──……




空は、唸りを上げていた。

最初は、猫が鳴らす喉の音のように小さく……

だが、黒雲が吐き出すその音は徐々に本来の威厳を湛える。


「────っ………」


その“唸り”に敏感になっていた美琴は跳ねるように上体を起こした。


(……寝てたんだ………… あたし──……)


美琴は、さらしをきつく巻いた胸許を軽くさすりながら、重い瞼を抑えた。

相変わらず唸る空。

激しい雨と競い合うように轟く雷鳴が躰の芯に響く。

『おまえのいるところに雷が落ちる── そうじゃねぇのか!?』

辛辣な土方の言葉が、立体的に思い出される。

美琴は怯えながら箪笥たんすに駆け寄り、一番下の引き出しを開けた。

セーラー服の下に隠した携帯は、死んだように眠っている。


「────……」


長いため息を吐き、美琴は引き出しを閉めようとした。

刹那、その弾みで何かが転がる音がした。


「──あ……」


不思議な光景だった。

お梅に渡された優美な懐刀と、芹沢にもらった可憐な紅入れが、まるで互いを慈しみ合うように寄り添っている──

少なくとも、美琴にはそう見えた。


「……芹沢サンに、直接お礼云わなきゃな……」


何となく、寄り添う懐刀と紅入れを引き離す事が憚られた美琴は、独り言と共にそっと引き出しを閉めた。

それが二度と叶わぬ事だとも知らずに──……




天そのものが、こちらの味方となり得ている──

篠突く雨に雷鳴が伴い、足音を消すにはこの上ない好機──

そんな中、土方と総司は慎重に芹沢の部屋を目指した。


「──芹沢さん…… 強いんでしょうね」


雷雨に紛れ、総司がそんな言葉を吐き出した。


仕合しあい── したかったな……」


夜陰に乗じたこんなやり方ではなく、武芸者同士の方法で彼に引導を渡したかった──

美琴の独り言とは逆に、自分の本音がまさか現実に叶うとも知らず……

総司はそっと息を飲む。

そして、物云わぬ土方の背中を追った。




灯りを消した部屋の真ん中──

“鬼”は待っていた。

“修羅”の夜襲を……

その腹の内が読めぬほど浅知恵ではない。

なればこそ、お梅を帰したのに。

彼女は戻って来てしまった。

自分を助けるために……


「──新見……」


酒壷から盃へと酒を注ぎながら、芹沢は稲光で時折蒼白く光る虚空にぼんやりとつぶやいた。


「もしも…… 生きて再びお梅を抱けたら──」


なみなみと酒波を揺らす盃を頭上にかざす芹沢。


「この組を捨てて…… あいつと一緒になってもいいか?」


閉め切った部屋に、ふわりと暖かい風が舞い込んだ気がした。

耳許をくすぐるように掠めた感触はきっと、新見の“返事”なのだろう。

『先生の、お心のままに』

──そんな新見の声が、芹沢には聞こえた。


「おまえを死なせておいて…… そりゃねぇわな」


芹沢は降ろした盃の酒を、勢いよく喉に流し込んだ。

都合のよい独り言を、

叶わぬ夢を、

飲み込むかのように──……




“修羅”は、この瞬間を待っていた。

自らの手で、“鬼”を仕留める瞬間を……

受けた数多の屈辱を忘れた訳ではないし、それらが今夜の闇斫への引き金となった事は否定しない。

だが、土方は自分の中に明確な答えを見出していた。

これは“私怨”ではない。

近藤に、会津公に対する忠義による粛清だ。

無論、今宵の惨劇は別の形で表れる。

芹沢を殺ったのは

『琴次郎』──

後世にはそう残る、残すつもりだった。

山南の憂慮通りに……




部屋の灯りは消えていた。

計画通り、酔わせた“鬼”は眠っている──

土方は、芹沢の部屋の少し手前で右手を水平に伸ばし、総司の行く手を遮った。


「一気にカタをつける──」


極限まで潜めた声で指示を出す土方に、ただ頷いてみせる総司。

ふと、芹沢を斬った後の事が脳裏に浮かんだ。

あの女性ひと──

お梅はどうなるのだろう……

芹沢がいなくなっても、生きてゆけるだろうか……

叶うなら、自分が──

そう考え、総司は下種な己の心を閉ざした。

土方の計画通りなら、自分の所業が外部に漏れる事はない。

当然、お梅にも……

だが、芹沢の血で染めたこの手で、お梅を抱けはしない──

総司は、どろどろとした邪念を心から追い出し、続く指示を待った。
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