プラスティック メンター

魚倉 温

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手繰り寄せる痕跡

05

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 わたしは改めて、長椅子に腰掛ける。もしかするとあのモノレールの座椅子が廃棄されようとして命拾いした、のではないかと思うほどに柔らかくわたしの背を受け止めるそこに甘えて脚を組み、膝の上に例の骨董品を載せてジャックにイヤホンを挿す。
 モニタの電源を入れると、丁度あのリンクがあるページが表示されていた。まるで早く観てくれと言わんばかりだと感じたが、この端末は手記を読むためにしか使ってこなかったし、その手記を読み切った最後のページのままで電源を落としていたのだから当然のことだった。手記の筆者にあてられたのか、それとも元来わたしにはその素質があったとでもいおうか。感傷的な、運命という言葉さえ信じてしまいたくなるような心持ちで、わたしはそのリンクを軽く、人差し指で撫でた。

 <「いったいどうしたっていうんだ」>
 そんな声が、冒頭から聞こえた。状況は逼迫しているようだったが、声の主の姿は見えないし映っている男は呑気な苦笑いを浮かべている。映像が動き、上下がひとつなぎとなったグレイの服を着た男が映る。<暴動なんてない、ここにいたのは私と彼の二人だけだし、私も、彼も、疚しいことなどひとつもない>再び声が聞こえたが、視界に映る人間の中で、唇の動いている者はない。
 視界、そう、視界だ。この声の主の体験した状況を録画し、録音しているのだ。一点ずつ見つめては言葉を発し、次の一点への視線の移動の時には一瞬、映像が大きくぶれる。この映像の主は動揺しているのだろうということは明らかだ。
 <「待って、落ち着いて。疑いとは関わりがないのだから、声を荒げる必要だってないだろう。」>
 妻が待っているんだ、早く帰らないと。その場においては恐らく最も正しい、波風も立たず、聞く者に不満を抱かせることもないはずの言葉は、うちのメンタによく似た容姿をした男から発せられた。もしかして彼が、というわたしの期待は、実に曖昧なかたちで判断を持ち越されることになる。<「不当な疑いに声を荒げることは正当だ」>と、今度は恐らく視界の主の声がした。視界は彼の手元を映している。四角いバッグのようなものを持った手。ここに、例の白変とやらが収まっているのだろうか。
 <「主任、暴動などないとしても、少なくともここは労働者の立ち入りが許可された区画ではありません。いくら主任といえど――」「構わないから立ち入らせているんだ、現に倫理規定からのアラートはないし、管理規定、運用規定のいずれもアラートを発していない。私がそれを停止することなどできないと知っているだろう。」「存じていますが、アラート発報の機能そのものに不具合が生じたことも視野に――」>
 主任という単語で、視界の主が手記の主であることが明確になった。彼が許可した、ということはやはり、うちのメンタに似た彼は。<「……きみのその言動は予想外だった。きみは変わってしまった。」「人間は、変わるものだよ。流動的なものなんだ。どこに重しを置くか、それだけで数分前にできないと思ったことができたりもする。」「そういうところは、変わらない。まったくきみを、」>考え込んでいた間に、肝要なところを聞き逃したらしい。おまけに最後の言葉も、ヒューマノイドの査定があったという通知によってかき消されてしまった。わかるのはただ、彼の視界か、それともその手の方かが小刻みに震えているということだけだ。

 ヒューマノイドの査定価格は、うちの初期型に比べて動力の供給は半分以下、重量も四割程度削減されていると喧伝されていたモデルであってさえ、わたしのクレジットでは支払えないほどに高かった。
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