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執務室のふたり
リラの口角
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リラが座席に座るとクライヴはリラの隣ではなく正面に腰掛けた。
いつになく、ふたりの間には沈黙が続いた。
クライヴはリラを見つめるわけでもなく、車窓を眺めていた。
明かりが灯りキラキラと輝く皇城を眺めているのだろうか。
リラはクライヴと出逢って初めてだと思えた。
口説かれるわけでもなく、他愛ない話をするわけでもなく、見つめられるわけでもなく、ただただお互い黙って座っていた。
クライヴの不自然な行動が、車中の薄暗さと相まってリラの心を一層に不安で埋め尽くしていった。
リラは俯き、膝の上に置いた拳を固く握った。
「リラ、ドレスを着替えた後くらいから表情が暗いが、何か侍女から言われたのか。」
リラの様子を察したのか、クライヴはリラに向き直り静かに尋ねた。
「よ、よく似合っていると褒めていただきました。」
リラは差し障りのない事実を答えた。
もしかしたら、クライヴの意中の相手は自分ではないかもしれない。
これは未だリラの妄想に過ぎず、本当にクライヴはリラと出逢っているのかもしれない。
しかし、こんなにもクライヴに傾倒している今、もし万が一、本当に人違いだったらと思うと恐くてクライヴに訊くことはできなかった。
「それなら、よかった。あの侍女は、俺の乳母でもあるんだ。昔から何かと心配をかけていてね。もし、何か悪いことを言われたとしても、親心から来るものなのだろう。あまり気に病まないでほしい。」
「そんな、悪いことなど特には…。ただ、まだ婚約していないのに、婚約されているように勘違いされているようで、申し訳なくなったのと…。」
リラはそこで言葉を継ぐんだ。
「それと?」
クライヴは甘く優しくリラに尋ねるも、リラは不安に押しつぶされそうで涙ぐんだ。
『本当に以前、私はクライヴ様とお逢いしたことがあるのでしょうか。』
『本当は、私と誰かを勘違いされているのでないでしょうか。』
そう尋ねてしまい気持ちもあるものの、リラにはとても答えが恐くて訊くことなどできなかった。
「リラが不安に思うことは何一つないよ。」
そんなリラの気持ちを察するように、クライヴはリラの両手を包み込んで尋ねた。
クライヴの優しさが身に沁みてリラは俯きながら静かにポタポタと涙を溢すも言葉など出なかった。。
ただ質問することも、その答え聞くことも、こんなにも恐く感じたことは今まであっただろうか。
本当に、クライヴはリラの思いもよらないところでで見かけていたのかもしれないが、もし、本当に人違いだったら、クライヴはその事実を知った後に一体どんな顔をするのだろうか。
とても恐ろしくて想像したくもなかった。
(きっと今までの態度が一変して、突然、私に見向きもしなくなるのだろう。)
そう思うと、リラはまた涙が溢れた。
クライヴはリラのそんな姿を見て困ったように眉を顰めながらも優しく微笑み静かに話し始めた。
「まだ、俺が皇子として公務を初めたばかりの頃。ある公務の関係で、ある領地を訪れた時、その領地で、とても愛らしくて心優しいひとりの少女を見かけたんだ。」
リラは思わず耳を覆いたくなった。
(聞きたくない…。)
今からクライヴが話すのは、意中の女性と出逢った話である。
リラはそう直感した。
もしかしたらクライヴは、本当にクライヴはリラと出逢ったのかもしれない。
けれど、未だ人違いの可能性も捨てきれなかった。
普段は勝気なリラでも、今は尻込みして肩を震わせていた。
けれどクライヴは、リラの手を優しく握りながら言葉を続けるのだった。
「その少女はハンナさんという奥さんが体調を崩したとかで、まだ乳飲み子のマルクとわんぱくなエドガーという坊主の面倒を見る手伝いをしていたらしいんだ。マルクをゆりかごで揺らしながら、エドガーに絵本を読んであげていたんだ。」
その言葉にリラは驚き、首を上げた。
(それは…。)
それにしても、クライヴは、どうして見かけることになったのか未だにわからないが、その少女は紛れもなくリラであることは確かであった。
何年前だろう。
領地でのリラは領民のほんの小さな困りごとは何でも快く手伝っていた。
それは、羊の毛刈りでも、荷物運びでも、子供も世話でも、何でもリラは時間があれば率先して手伝っていたのだった。
まだ幼いリラが、亡き母が愛したアリエス領民を守るためにできることを考えた結果が、領民の困りごとを引き受ける取り組みだったのだろう。
そんな取り組みのひとつで、リラは育児と仕事の過労で度々体調を崩すハンナの元に子守の手伝いをしていた。
産まれたばかりのマルクと四つ上のエドガーは、まだまだ甘え盛りで、リラにもベッタリ甘えていた。
リラはそんなエドガーがとても可愛らしく、絵本を読んだり、サンドイッチを作ったり、駆けっこをしたりとたくさん遊んでいた。
「その少女は夕陽に照らされキラキラ輝き、まるで天使のように見えたんだ。こんな優しい子を見たことがないって。」
クライヴはやっと顔をあげたリラに優しい笑みを浮かべ、額をそっとくっつけた。
「そのときから、ずっとリラに恋しているよ。」
クライヴはリラの両頬を包み込むと、リラの口角にそっと口付けた。
リラは何が起こったか、わからなかった。
唇に感触はなかった気がした。
リラは、初めての口付けとはこんなものなのだろうかと思い、確かめるように自分の唇を指でなぞった。
けれども、先ほどの口付けは、やはり触れた感覚はないような気がした。
(口付けではなかったのかしら…?)
リラはただ呆然と青緑色の大きな瞳を潤ませてクライヴを見つめていた。
すると、リラのその反応を見てクライヴは意地悪く笑った。
「物足りなかった?」
リラはその言葉に一瞬にして頬を染め上げ、唇に口付けされていない事実に気づいた。
「いえ、そんな…。」
リラは慌てて手をぶんぶんと振った。
クライヴは、そんなリラを見てただクスクスッと笑っていると、馬車は屋敷に到着した。
リラはクライヴに別れを告げ、玄関ホールに入ると階段の上の手すりで全ての余韻を根こそぎ忘れさせる男ことルーカスがニヤニヤと笑いながらリラの様子を見ていた。
「楽しかったか?」
「ええ、とても充実した一日でした。」
リラは顔を背けた。
ルーカスは全てを察しているようで、何やら腹立たしく、恥ずかしく、よもやこの男の掌の上で転がされているようで、どうにも居心地が悪かった。
「それは良かった。明日からは泊まってきていいからな。」
リラはそれに返事することなく、階段を上がると急いそと自室に向かった。
ルーカスには、すべて筒抜けのようだった。
いや、クライヴと繋がっている時点で筒抜けどころか、このシナリオを書いたのはルーカスかもしれない。
(それにしても、このお兄様は心から応援しているのかしら、それともただの玩具だと思っているのかしら…。)
リラは自室の扉の前で、盛大に溜息を吐いた。
(うーん。たぶん後者な気がしてしまう…。)
しかし、冷やかしにしても、未婚の妹をひとりで男性の家に泊まることを許可する兄などタチが悪いにもほどがある。
リラは、腹立たしいような、恥ずかしいような気持ちだった。
(やっぱり昨夜は、馬小屋にでも繋いでおけばよかったわ。)
リラは昨夜からルーカスに事の次第を問いただしたいと悶々としていたが、この状況では何一つルーカスに立ち向かうことはできないだろう。
ルーカスがリラの質問を軽々交わし、リラに執拗に質問攻めにし、揶揄われるのが容易に目に浮かんだ。
それでもなんとかしてリラはルーカスに必要なことだけを聞き出す方法はないかと模索した。
(いつお兄様はクライヴ様と出逢ったのか。)
(何をクライヴ様にお話ししたか。)
(変なことをクライヴ様に吹き込んでいないか。)
(お兄様がこのタイミングでタウンハウスに帰宅することは予定されていたのか。)
(どうして、今までクライヴ様を紹介してくださらなかったのか。)
知りたいことはキリがなかった。
けれど、あの様子では、リラが不利なことは目に見えていた。
おそらく、昨日のダンスのことや今日の仕事のことを揶揄いながら執拗に訊いてくるだろう。
もしかしたら、成人の宴でリラとクライヴがダンスをしたことやクライヴがアベリア学園を見学に訪れたことも把握済みかもしれない。
そう思うとリラは顔が蒼くなり、身震いした。
(お兄様の弱みになるものはないかしら…。)
リラはそう思うものの、アベリア学園に通うために、現在はひとりでタウンハウスの生活をしている。
長期休暇となれば帰省はするが、ルーカスとは話ことは仕事のことくらいだ。
また、ルーカスはとにかく優秀でリラが付け入る隙などないのだった。
こうなったら、上物のワインでも仕入れて酔った隙に吐かすしかないのだろうか。
とはいうものの、リラはワインに詳しくなく、ルーカスの好みなど全くわからなかった。
翌朝。
着替えを終え、食堂に向かうとルーカスの姿はなかった。
ルーカスは朝が弱いわけではない、大抵は決まった時間に起きてきていた。
(まさか、お帰りに?)
リラは途端に嫌な予感がしたが、近くの侍女に確認した。
「お兄様は、まだお眠りなられてますの?」
リラの言葉に侍女は、キョトンッとした表情を浮かべた。
「あら?早朝、お帰りになりましたよ。ご存知ありませんでしたか?」
いつになく、ふたりの間には沈黙が続いた。
クライヴはリラを見つめるわけでもなく、車窓を眺めていた。
明かりが灯りキラキラと輝く皇城を眺めているのだろうか。
リラはクライヴと出逢って初めてだと思えた。
口説かれるわけでもなく、他愛ない話をするわけでもなく、見つめられるわけでもなく、ただただお互い黙って座っていた。
クライヴの不自然な行動が、車中の薄暗さと相まってリラの心を一層に不安で埋め尽くしていった。
リラは俯き、膝の上に置いた拳を固く握った。
「リラ、ドレスを着替えた後くらいから表情が暗いが、何か侍女から言われたのか。」
リラの様子を察したのか、クライヴはリラに向き直り静かに尋ねた。
「よ、よく似合っていると褒めていただきました。」
リラは差し障りのない事実を答えた。
もしかしたら、クライヴの意中の相手は自分ではないかもしれない。
これは未だリラの妄想に過ぎず、本当にクライヴはリラと出逢っているのかもしれない。
しかし、こんなにもクライヴに傾倒している今、もし万が一、本当に人違いだったらと思うと恐くてクライヴに訊くことはできなかった。
「それなら、よかった。あの侍女は、俺の乳母でもあるんだ。昔から何かと心配をかけていてね。もし、何か悪いことを言われたとしても、親心から来るものなのだろう。あまり気に病まないでほしい。」
「そんな、悪いことなど特には…。ただ、まだ婚約していないのに、婚約されているように勘違いされているようで、申し訳なくなったのと…。」
リラはそこで言葉を継ぐんだ。
「それと?」
クライヴは甘く優しくリラに尋ねるも、リラは不安に押しつぶされそうで涙ぐんだ。
『本当に以前、私はクライヴ様とお逢いしたことがあるのでしょうか。』
『本当は、私と誰かを勘違いされているのでないでしょうか。』
そう尋ねてしまい気持ちもあるものの、リラにはとても答えが恐くて訊くことなどできなかった。
「リラが不安に思うことは何一つないよ。」
そんなリラの気持ちを察するように、クライヴはリラの両手を包み込んで尋ねた。
クライヴの優しさが身に沁みてリラは俯きながら静かにポタポタと涙を溢すも言葉など出なかった。。
ただ質問することも、その答え聞くことも、こんなにも恐く感じたことは今まであっただろうか。
本当に、クライヴはリラの思いもよらないところでで見かけていたのかもしれないが、もし、本当に人違いだったら、クライヴはその事実を知った後に一体どんな顔をするのだろうか。
とても恐ろしくて想像したくもなかった。
(きっと今までの態度が一変して、突然、私に見向きもしなくなるのだろう。)
そう思うと、リラはまた涙が溢れた。
クライヴはリラのそんな姿を見て困ったように眉を顰めながらも優しく微笑み静かに話し始めた。
「まだ、俺が皇子として公務を初めたばかりの頃。ある公務の関係で、ある領地を訪れた時、その領地で、とても愛らしくて心優しいひとりの少女を見かけたんだ。」
リラは思わず耳を覆いたくなった。
(聞きたくない…。)
今からクライヴが話すのは、意中の女性と出逢った話である。
リラはそう直感した。
もしかしたらクライヴは、本当にクライヴはリラと出逢ったのかもしれない。
けれど、未だ人違いの可能性も捨てきれなかった。
普段は勝気なリラでも、今は尻込みして肩を震わせていた。
けれどクライヴは、リラの手を優しく握りながら言葉を続けるのだった。
「その少女はハンナさんという奥さんが体調を崩したとかで、まだ乳飲み子のマルクとわんぱくなエドガーという坊主の面倒を見る手伝いをしていたらしいんだ。マルクをゆりかごで揺らしながら、エドガーに絵本を読んであげていたんだ。」
その言葉にリラは驚き、首を上げた。
(それは…。)
それにしても、クライヴは、どうして見かけることになったのか未だにわからないが、その少女は紛れもなくリラであることは確かであった。
何年前だろう。
領地でのリラは領民のほんの小さな困りごとは何でも快く手伝っていた。
それは、羊の毛刈りでも、荷物運びでも、子供も世話でも、何でもリラは時間があれば率先して手伝っていたのだった。
まだ幼いリラが、亡き母が愛したアリエス領民を守るためにできることを考えた結果が、領民の困りごとを引き受ける取り組みだったのだろう。
そんな取り組みのひとつで、リラは育児と仕事の過労で度々体調を崩すハンナの元に子守の手伝いをしていた。
産まれたばかりのマルクと四つ上のエドガーは、まだまだ甘え盛りで、リラにもベッタリ甘えていた。
リラはそんなエドガーがとても可愛らしく、絵本を読んだり、サンドイッチを作ったり、駆けっこをしたりとたくさん遊んでいた。
「その少女は夕陽に照らされキラキラ輝き、まるで天使のように見えたんだ。こんな優しい子を見たことがないって。」
クライヴはやっと顔をあげたリラに優しい笑みを浮かべ、額をそっとくっつけた。
「そのときから、ずっとリラに恋しているよ。」
クライヴはリラの両頬を包み込むと、リラの口角にそっと口付けた。
リラは何が起こったか、わからなかった。
唇に感触はなかった気がした。
リラは、初めての口付けとはこんなものなのだろうかと思い、確かめるように自分の唇を指でなぞった。
けれども、先ほどの口付けは、やはり触れた感覚はないような気がした。
(口付けではなかったのかしら…?)
リラはただ呆然と青緑色の大きな瞳を潤ませてクライヴを見つめていた。
すると、リラのその反応を見てクライヴは意地悪く笑った。
「物足りなかった?」
リラはその言葉に一瞬にして頬を染め上げ、唇に口付けされていない事実に気づいた。
「いえ、そんな…。」
リラは慌てて手をぶんぶんと振った。
クライヴは、そんなリラを見てただクスクスッと笑っていると、馬車は屋敷に到着した。
リラはクライヴに別れを告げ、玄関ホールに入ると階段の上の手すりで全ての余韻を根こそぎ忘れさせる男ことルーカスがニヤニヤと笑いながらリラの様子を見ていた。
「楽しかったか?」
「ええ、とても充実した一日でした。」
リラは顔を背けた。
ルーカスは全てを察しているようで、何やら腹立たしく、恥ずかしく、よもやこの男の掌の上で転がされているようで、どうにも居心地が悪かった。
「それは良かった。明日からは泊まってきていいからな。」
リラはそれに返事することなく、階段を上がると急いそと自室に向かった。
ルーカスには、すべて筒抜けのようだった。
いや、クライヴと繋がっている時点で筒抜けどころか、このシナリオを書いたのはルーカスかもしれない。
(それにしても、このお兄様は心から応援しているのかしら、それともただの玩具だと思っているのかしら…。)
リラは自室の扉の前で、盛大に溜息を吐いた。
(うーん。たぶん後者な気がしてしまう…。)
しかし、冷やかしにしても、未婚の妹をひとりで男性の家に泊まることを許可する兄などタチが悪いにもほどがある。
リラは、腹立たしいような、恥ずかしいような気持ちだった。
(やっぱり昨夜は、馬小屋にでも繋いでおけばよかったわ。)
リラは昨夜からルーカスに事の次第を問いただしたいと悶々としていたが、この状況では何一つルーカスに立ち向かうことはできないだろう。
ルーカスがリラの質問を軽々交わし、リラに執拗に質問攻めにし、揶揄われるのが容易に目に浮かんだ。
それでもなんとかしてリラはルーカスに必要なことだけを聞き出す方法はないかと模索した。
(いつお兄様はクライヴ様と出逢ったのか。)
(何をクライヴ様にお話ししたか。)
(変なことをクライヴ様に吹き込んでいないか。)
(お兄様がこのタイミングでタウンハウスに帰宅することは予定されていたのか。)
(どうして、今までクライヴ様を紹介してくださらなかったのか。)
知りたいことはキリがなかった。
けれど、あの様子では、リラが不利なことは目に見えていた。
おそらく、昨日のダンスのことや今日の仕事のことを揶揄いながら執拗に訊いてくるだろう。
もしかしたら、成人の宴でリラとクライヴがダンスをしたことやクライヴがアベリア学園を見学に訪れたことも把握済みかもしれない。
そう思うとリラは顔が蒼くなり、身震いした。
(お兄様の弱みになるものはないかしら…。)
リラはそう思うものの、アベリア学園に通うために、現在はひとりでタウンハウスの生活をしている。
長期休暇となれば帰省はするが、ルーカスとは話ことは仕事のことくらいだ。
また、ルーカスはとにかく優秀でリラが付け入る隙などないのだった。
こうなったら、上物のワインでも仕入れて酔った隙に吐かすしかないのだろうか。
とはいうものの、リラはワインに詳しくなく、ルーカスの好みなど全くわからなかった。
翌朝。
着替えを終え、食堂に向かうとルーカスの姿はなかった。
ルーカスは朝が弱いわけではない、大抵は決まった時間に起きてきていた。
(まさか、お帰りに?)
リラは途端に嫌な予感がしたが、近くの侍女に確認した。
「お兄様は、まだお眠りなられてますの?」
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