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2010年作品

北の空が明るい

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 この春、親戚一同のコネを総動員して、やっとの思いで就職できた。
 短大の友達の中には、卒業した今でも就職先が見つからず、アルバイト生活を送っている子が何人もいるのだから、従業員が二十人もいない中小企業だとはいえ、就職できたことに感謝して、一生懸命働かなくっちゃ!
 そう一念発起して、私、この春から会社の近くのアパートで一人暮らしを始めた。
 生まれて始めての一人暮らし。
 ゴミの出し方から、ご近所づきあいまで、なにかなにまで実家とは違って戸惑ったけれど、初体験のことばかり。これはこれで、結構楽しかったりする。
 そして、一番変わったのが、私の生活リズム。
 学生時代は、目覚まし時計を二個も三個もかけておいても、時間通りに起きたためしがなく、結局、毎朝ママに起こされていた。だけど、一人暮らしを始めた途端、目覚ましのベルが鳴る前には、目が覚めている。

 ホント、不思議。どうして、朝ちゃんと起きられるようになったのかしら?

 一人暮らしを始めたころは、毎朝、ママからモーニングコールがかかってきていたけど、最近ではかかってこなくなった。
 ママも、私ばかりを心配しているわけにも行かない。だって、来年、大学受験をひかえている弟の面倒も見なくちゃいけないのだし。

 ママに構ってもらえなくなって、ちょっとさびしいような気もするけど、でも、私、これからも毎日がんばるからね!



 その日、私は、いつもの時間よりかなり早く目覚めた。
 寝る前に閉め忘れた北東の窓から、冷たい朝風が吹き込んでいて、くしゃみをひとつ。
 一晩中、夜の空気に当たっていたわけだから、のどが渇いているような。
 私、ゴソゴソ布団から抜け出して、台所でジュースを飲む。
 それから、窓を閉めて、もう一眠りしよう考えていたのだけど……
 目の前の窓、カーテンがほんわかと光っているみたい。外から光が当たっているのかな?

 朝日?

 ということは、目覚まし時計は、四時をさしているけど、本当は、壊れるか、電池がなくなっているかして、もっと時間が経っているの?
 私、慌てて、他の窓の方を確認してみる。
 でも、他の窓のカーテンは、真っ暗なまま。外は夜の世界。

――え~っと? なにかこの窓に光が当たっているのかな? ここは、住宅街の中で、夜中まで明るく光っているコンビニだとかはないのだけど……

 私、恐る恐る目の前のカーテンの端をめくってみる。
 窓の外の世界。遠くの山並みの上空が紅く光っている。
 山並みの端には紫っぽい細長い雲がたなびき、幻想的。

――太陽が昇ってこようとしているんだわ。もう六月だから、日の出はこんな時間になっちゃうのねぇ~

 なんて一人納得して、窓を閉じ、再び布団の中へ戻って、目を閉じたのだけど……
 すぐに、ガバッと起きだして、カーテンをあけた。そして、朝日が昇ろうとしている山並みを見つめた。

――どうして、こんな方角から太陽が昇るのよ! こっちの窓は東じゃなく、北東を向いているのよ! 日の出になるなら、今みたいな正面でなく、もっと右の方から上らなくちゃいけないのに!

 私、自分が見ているものが信じられなかった。
 そのまま、太陽が山並みを越え、顔を出すまで外を見つめ続けていた。



 天変地異の前触れかしら?
 大地震が起きる前兆?
 破壊の大魔王が現れて、世界をめちゃめちゃにしてしまうの?

 私、本気でおびえた。心配した。
 なんとか、時間通りに会社へでて、自分の席についたのだけど、心配で心配で、全然仕事にならなかった。
 今日はミスばかりしたし、上司に怒られてばかりだ。
 そんな私を見かねたかして、退社時間、帰り支度をしている私に、同じ部署の四つ年上の男性社員・渡辺さんが声をかけてきてくれた。

「鈴木さん? 今日はどうしたの? 全然、元気ないじゃん」
「い、いえ……」

 まさか、先輩社員だとはいえ、太陽が北の空から昇っていて、なにかの異変の前触れなんじゃないかって心配しているだなんて言えない。
 太陽が北の空から昇っているなんて、こんなヘンな出来事なら、絶対大騒ぎになっていると思って、出勤時間ギリギリになるまでテレビを見ていたのだけど、みんなそんなことに気づいてもいないみたいで、どこのチャンネルも全然話題になっていなかった。

 もしかして太陽が北東の空から昇るのは私の住んでいる地域だけで、他の地域ではちゃんと東の空から上っているのかしら?

「ね、今日はヒマ? これから二人で、今日は元気がなかった鈴木さんを励ます会しない?」
「え?」

 生まれて初めての男性からのデートの誘い。たちまち私舞い上がってしまった。

「あ、あの…… その……」
「ん? なにか用事でもあるの? 彼氏とデート?」
「い、いえ、そんなんじゃ…… 私、彼氏なんかいませんし」
「えっ? そうなの? 鈴木さんみたいにかわいければ、男ならだれもほっておかないだろうに?」
「い、いえ、そんなこと……」

 途端に渡辺さん、いたずらっ子の目をして私を見る。

「あっ? もしかして、鈴木さん、男に興味がないとか?」

 もちろん、ブンブン、クビを振る私。

「そ、じゃ、いこ? イタリアンでいいよね? あ、ちょっと席予約してくるわ」

 私の返事も聞かずに、渡辺さんスマホ片手に廊下へ出て行った。



 私、生まれてはじめて男の人とデートなんてことをした。
 二人で食事して、公園を散歩して。
 お酒もちょっぴり入って、そしたら、いつもより舌も滑らかになる。私たちいろいろなことを話した。子供の頃の話、学生時代の思い出、家族や友人の話。思いつくままに何でも話していた。
 渡辺さんも、私の話を楽しそうに聞いてくれていた。すごく気分がよかった。
 公園の自動販売機の隣にあるベンチに腰掛け、近くのビルの窓の明かりを見上げる。
 私は今すごく幸せな気分でいるのだけど、あの明かりのひとつひとつに、まだ働いている人たちがいるのだ。
 心の中でそんな人たちにガンバってて応援していたら、頬に突然冷たい感触が。
 ビールの缶を私の頬に押し付けて、渡辺さんが立っていた。

「ほら、のみなよ。冷たくておいしいよ」
「うん、ありがとう」

 私の笑顔を見て、渡辺さんがポツリとつぶやいた。

「よかった。やっといつもの鈴木さんに戻ったね」
「え?」
「何があったのか知らないけど、鈴木さんは、笑っている顔が一番かわいいと思うよ」
「ありがとう……」

 頬が熱くなった。
 手の中のひんやりとしたビールの缶を頬にあてた。



「あの…… 渡辺さん、最近、四時ごろ起きたことってないですか?」
「ん? その時間だったら、いつも寝てるなぁ」
「そうですか……」

 ちょっと躊躇ちゅうちょしたけど、結局、口から今朝のことが飛び出した。

「今朝、なんでだかその時間に起きちゃったんです。たぶん、窓開けっ放しだったので、風が入って、寒くて目が覚めたんだと」

 隣で渡辺さん、ビールを一口飲んだ。

「だから窓閉めようとしたのだけど、なんか窓の外が明るくて、太陽が昇っているみたいで……」

 ツバを飲み込んだ。

「その窓、北東側の窓だったんです。太陽って東から上るんですよね? 北東じゃないですよね? なにかヘンですよね? 北の空から上るなんて、絶対おかしいですよね?」

 渡辺さん、目をパチパチさせている。戸惑っている?

「太陽が北の空に昇るなんて、なにか悪いことが起こる前兆なのかしら? なにか不吉な出来事が……」

 そんな私の肩に、そっと暖かい腕が回された。
 気がついたら、私、渡辺さんに抱きしめられていた。

「えっ?」
「大丈夫、大丈夫だから。心配しないで、なにも起こらないよ。大丈夫。もしなにか起こったとしても、俺が君の事を守ってあげるから。大丈夫」

 心の中まで染み渡る、やさしくて、落ち着いた、深い音色の声だった。
 その声を聞いただけで、私、なぜだか安心した。

『大丈夫』

 それから、私の耳元では、いつまでもその言葉が鳴り続けている。





 それから一年。
 私、会社を辞めることにした。
 たった一年間だけ働いた会社だったけど、やめるとなると、すごくさびしい。
 後輩の女子社員から大きな花束をもらって、泣きながら会社の建物を後にした。
 私の心配にも関わらず、この一年間、大地震や大魔王の登場など、なにも起こらなかった。
 ただ、私の身にだけは、大きな変化が起こった。
 八月になったら、名字が変わるの。
 そして、きっとこの先も、何があっても、耳に残っているあの『大丈夫』って声を、無邪気に信じているのだろうな。





※余計なことですが、六月になると、実際に北東の空から明けはじめます。これは、異変の前触れではなく、ただ単に地球の地軸が傾いていることによる自然現象です。あまり、心配なさらないように。
↑って心配する人間なんて、いないような……
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