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第五章 身勝手な人
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「熱々のうちに食べた方がいいぞ。冷めてくるとチーズが固まっちゃうからな」
運ばれてきた二枚の皿には、直径三十センチ以上はあろうかというピッツアが乗っていた。
「もしかして一人一枚ですか」
「もちろん。イタリアじゃ、一人一枚が当たり前だ」
ピーク時を過ぎた遅いランチタイムに入った、繁華街から少し外れた路地にある隠れ家風のトラットリアは、二十年来の長門行きつけの店だ。イタリア人オーナーシェフが提供する南イタリアの郷土料理は、日本に住んでいるイタリア人の間でも評判で、特に石窯で焼くピッツァは「本場より美味い」とまで言われていた。
「イタリアのピザって生地が薄いんだと思ってたら、結構厚いんですね」
「ローマとかミラノだと薄くてクリスピーな生地だな。南のナポリはふわっとしてるんだ」
「地域によって違うんですか」
「うどんのつゆの色が、関東は濃くて関西は薄い、みたいなもんかな」
乗っているのはトマトソース、水牛のモッツアレラチーズ、バジルだけ。切り分けると、トロトロのチーズがこぼれ落ちる。高温の石窯で短時間に一気に焼き上げたピッツァはふわふわなのに外側はパリッと、中はもちもちとしていた。
(シンプルなのに、なんでこんなにおいしいの……)
ナポリ発祥と言われるマルゲリータをフォークとナイフで切り分けては、次々と口に運ぶ。手が止まらなかった。
「一枚なんてペロッといけるだろ」
大きなピッツァはもう残り僅かだ。
「一人で一枚なんて無理って思ったけど、全然いけちゃいます」
「ここのピッツァ、絶品だからな」
「ホント、ピザの概念が変わりました」
「ピザじゃなくてピッツァな。イタリア人はうるさいぞ」
「ふふふ」
すみれは長門の前で久しぶりに笑った気がした。
アラカルトで頼んだ料理は、どれもシンプルなのに驚くほど美味しかった。
フレッシュトマトにモッツァレラチーズを乗せたカプレーゼも、さっと揚げ焼きしてマリネしたズッキーニのスカペーチェも、ムール貝の黒胡椒蒸しも。
素材の味を最大限活かしているのが分かる。ピッツァを平らげた後に出てきた肉料理がまた絶品だった。
じっくりと時間をかけて赤ワインで煮込まれた牛のほほ肉は、とろけるように柔らかい。口の中で凝縮された旨味が広がった。
「マスター、このお店、よく来るんですか」
「おいおい、名前で呼んでくれよ。せっかくのデートなんだから」
「あ、ごめんなさい。なんか慣れなくて……。サトシさん、よく来るんですか」
「季節ごとにだから年に四回くらいかな。常連っていうのはおこがましいけど、もう二十年くらい通ってるよ」
食後のエスプレッソを美味そうに飲みながら、長門は続ける。
「気に入ってくれたか?」
「はい。なんか、感動しました。特別凝ってるようには見えないのに。こんな美味しいイタリアン、初めて食べました」
「そう言ってくれると嬉しいな。誰かと一緒にこの店来たの、初めてなんだ」
「そうなんですか? なんでですか? あんまりいいお店だから秘密にしておきたかったとか」
「ははは、そんなんじゃないよ。ホントに好きになった人だけを連れて来たかっただけだ。それにしてもいい店だよな、ここ。こんな都心でも静かだし。学生でいっぱいの店は騒がしくてな。あ、うちもそうか」
さらっと愛を告白したかと思うと、自虐ネタで笑わせる。
「俺、今五十四歳だろ。人生残り二十年として一日三食でざっと計算すると、あと二万二千回しかないんだ、食事の回数」
二万二千回……それが少ないのか多いのか、すみれにはすぐには分からなかった。
「すみれは、あと六十年生きるとすると俺の三倍だから六万六千回か。一回でも多く美味しいもの食べなきゃ損だぞ。お酒が飲めるようになったら、また連れてきてあげるよ。やっぱりイタリアンはワインと一緒じゃないとな」
長門の話術にすっかり引き込まれているすみれは笑顔で頷いた。
「そのドレスも気に入ったか?」
「え?」
「やっぱり、ここがちょっと寂しいな」
大きくV字に開いた胸元を人さし指でちょんとつつくと、小さな紙袋を差し出す。
「ひと月早い誕生日プレゼントだ」
「え、なんだろう……」
「まあ、開けてみろ」
中から出てきたのは、すみれも知っているブランドもののネックレスだった。しかもこのブランドなら決して安くはないはずだ。
(こんなの、もらえないよ……)
すみれの戸惑いを見透かしたように、長門は正面から首に手を回すと、慣れた手つきでさっと装着する。キャバ嬢に貢いだときの経験が役に立った。
「そのネックレス、馬蹄をモチーフにしてるんだ。西洋では馬の蹄鉄ってな、幸運を招くとか魔除けになるとか言われてるんだって。だから、お守りだと思ってくれればいい」
「でも……」
「どうした、純平に悪いと思ってるのか」
すみれは押し黙っていた。
すみれだって女子だ。アクセサリーをプレゼントされて嬉しくないといったら嘘になる。大事にされているような、くすぐったい気持ちが湧き上がってくる。
だが、自分には純平という恋人がいる。恋人以外の男性からこんなものもらうのは裏切り行為だ。いや、もう長門とは肉体関係を持ってしまっている。もう裏切っているのではないのか。
今さらプレゼントを拒否したところで済む問題ではない。心の葛藤は続く。答えは出そうになかった。
「それなら、こうしよう。ネックレス、着けないなら純平に全部バラすぞ」
「そんな……」
「じゃあ、受け取ってくれるよな、俺からの誕生日プレゼント」
「……あの、と、トイレ、行ってきます」
逃げるように化粧室に駆け込むと、鏡の中の自分の姿を見つめた。
プラチナのネックレスは、生まれた時からそこにあるように胸元に張り付いている。U字に散りばめられた粒ダイヤモンドが輝いていた。着けているだけで、何かに守られているような気がした。
(こうしないと純平にバラされちゃうんだから、仕方ないのよ……)
トイレから戻ると、長門は既に会計を済ませたようだ。
「じゃ、行こうか」とバッグを手渡された。
「また来ます」と店員に声をかける背中を慌てて追いかける。
「あ、あの、ご馳走さまでした、サトシさん。それと……」
何か言おうとするのを遮るように、ひょいっと右手が伸びてきた。どうやら腕を組め、ということらしい。どうすればいいのか、すみれは立ち尽くした。
「あんまり深く考えるなよ、すみれ。ネックレス、いつも身に着けててくれれば、俺はそれで十分だから」
それは首輪の代わりだからな、着けてれば嫌でも俺のことを意識するだろ……。
長門の邪悪な下心などすみれは知る由もない。迷った末、そっと左手を絡めていく。暗くなってきたお濠端を腕を組んで歩く二人の姿は、まるで恋人のようだった。
「どうだ、純平と別れて、俺と付き合う気になってきたか」
しばらく歩いたところで、長門が顔を覗き込む。
「え……」
すみれはすぐに返事が出来なかった。
気まずい沈黙の時間が流れていく。
「なんだ。即答で拒否するんじゃないのか」
純平への罪悪感で固まっている姿を見てニヤリとすると、長門は声をかけた。
「西巻先生が帰って来る前に早く帰らないとな。そんなドレス姿見たら、絶対怒られるだろ。まあ、この時間なら大丈夫かな。今日は準備で遅いんだろ」
明日は高等部の入学式だった。
運ばれてきた二枚の皿には、直径三十センチ以上はあろうかというピッツアが乗っていた。
「もしかして一人一枚ですか」
「もちろん。イタリアじゃ、一人一枚が当たり前だ」
ピーク時を過ぎた遅いランチタイムに入った、繁華街から少し外れた路地にある隠れ家風のトラットリアは、二十年来の長門行きつけの店だ。イタリア人オーナーシェフが提供する南イタリアの郷土料理は、日本に住んでいるイタリア人の間でも評判で、特に石窯で焼くピッツァは「本場より美味い」とまで言われていた。
「イタリアのピザって生地が薄いんだと思ってたら、結構厚いんですね」
「ローマとかミラノだと薄くてクリスピーな生地だな。南のナポリはふわっとしてるんだ」
「地域によって違うんですか」
「うどんのつゆの色が、関東は濃くて関西は薄い、みたいなもんかな」
乗っているのはトマトソース、水牛のモッツアレラチーズ、バジルだけ。切り分けると、トロトロのチーズがこぼれ落ちる。高温の石窯で短時間に一気に焼き上げたピッツァはふわふわなのに外側はパリッと、中はもちもちとしていた。
(シンプルなのに、なんでこんなにおいしいの……)
ナポリ発祥と言われるマルゲリータをフォークとナイフで切り分けては、次々と口に運ぶ。手が止まらなかった。
「一枚なんてペロッといけるだろ」
大きなピッツァはもう残り僅かだ。
「一人で一枚なんて無理って思ったけど、全然いけちゃいます」
「ここのピッツァ、絶品だからな」
「ホント、ピザの概念が変わりました」
「ピザじゃなくてピッツァな。イタリア人はうるさいぞ」
「ふふふ」
すみれは長門の前で久しぶりに笑った気がした。
アラカルトで頼んだ料理は、どれもシンプルなのに驚くほど美味しかった。
フレッシュトマトにモッツァレラチーズを乗せたカプレーゼも、さっと揚げ焼きしてマリネしたズッキーニのスカペーチェも、ムール貝の黒胡椒蒸しも。
素材の味を最大限活かしているのが分かる。ピッツァを平らげた後に出てきた肉料理がまた絶品だった。
じっくりと時間をかけて赤ワインで煮込まれた牛のほほ肉は、とろけるように柔らかい。口の中で凝縮された旨味が広がった。
「マスター、このお店、よく来るんですか」
「おいおい、名前で呼んでくれよ。せっかくのデートなんだから」
「あ、ごめんなさい。なんか慣れなくて……。サトシさん、よく来るんですか」
「季節ごとにだから年に四回くらいかな。常連っていうのはおこがましいけど、もう二十年くらい通ってるよ」
食後のエスプレッソを美味そうに飲みながら、長門は続ける。
「気に入ってくれたか?」
「はい。なんか、感動しました。特別凝ってるようには見えないのに。こんな美味しいイタリアン、初めて食べました」
「そう言ってくれると嬉しいな。誰かと一緒にこの店来たの、初めてなんだ」
「そうなんですか? なんでですか? あんまりいいお店だから秘密にしておきたかったとか」
「ははは、そんなんじゃないよ。ホントに好きになった人だけを連れて来たかっただけだ。それにしてもいい店だよな、ここ。こんな都心でも静かだし。学生でいっぱいの店は騒がしくてな。あ、うちもそうか」
さらっと愛を告白したかと思うと、自虐ネタで笑わせる。
「俺、今五十四歳だろ。人生残り二十年として一日三食でざっと計算すると、あと二万二千回しかないんだ、食事の回数」
二万二千回……それが少ないのか多いのか、すみれにはすぐには分からなかった。
「すみれは、あと六十年生きるとすると俺の三倍だから六万六千回か。一回でも多く美味しいもの食べなきゃ損だぞ。お酒が飲めるようになったら、また連れてきてあげるよ。やっぱりイタリアンはワインと一緒じゃないとな」
長門の話術にすっかり引き込まれているすみれは笑顔で頷いた。
「そのドレスも気に入ったか?」
「え?」
「やっぱり、ここがちょっと寂しいな」
大きくV字に開いた胸元を人さし指でちょんとつつくと、小さな紙袋を差し出す。
「ひと月早い誕生日プレゼントだ」
「え、なんだろう……」
「まあ、開けてみろ」
中から出てきたのは、すみれも知っているブランドもののネックレスだった。しかもこのブランドなら決して安くはないはずだ。
(こんなの、もらえないよ……)
すみれの戸惑いを見透かしたように、長門は正面から首に手を回すと、慣れた手つきでさっと装着する。キャバ嬢に貢いだときの経験が役に立った。
「そのネックレス、馬蹄をモチーフにしてるんだ。西洋では馬の蹄鉄ってな、幸運を招くとか魔除けになるとか言われてるんだって。だから、お守りだと思ってくれればいい」
「でも……」
「どうした、純平に悪いと思ってるのか」
すみれは押し黙っていた。
すみれだって女子だ。アクセサリーをプレゼントされて嬉しくないといったら嘘になる。大事にされているような、くすぐったい気持ちが湧き上がってくる。
だが、自分には純平という恋人がいる。恋人以外の男性からこんなものもらうのは裏切り行為だ。いや、もう長門とは肉体関係を持ってしまっている。もう裏切っているのではないのか。
今さらプレゼントを拒否したところで済む問題ではない。心の葛藤は続く。答えは出そうになかった。
「それなら、こうしよう。ネックレス、着けないなら純平に全部バラすぞ」
「そんな……」
「じゃあ、受け取ってくれるよな、俺からの誕生日プレゼント」
「……あの、と、トイレ、行ってきます」
逃げるように化粧室に駆け込むと、鏡の中の自分の姿を見つめた。
プラチナのネックレスは、生まれた時からそこにあるように胸元に張り付いている。U字に散りばめられた粒ダイヤモンドが輝いていた。着けているだけで、何かに守られているような気がした。
(こうしないと純平にバラされちゃうんだから、仕方ないのよ……)
トイレから戻ると、長門は既に会計を済ませたようだ。
「じゃ、行こうか」とバッグを手渡された。
「また来ます」と店員に声をかける背中を慌てて追いかける。
「あ、あの、ご馳走さまでした、サトシさん。それと……」
何か言おうとするのを遮るように、ひょいっと右手が伸びてきた。どうやら腕を組め、ということらしい。どうすればいいのか、すみれは立ち尽くした。
「あんまり深く考えるなよ、すみれ。ネックレス、いつも身に着けててくれれば、俺はそれで十分だから」
それは首輪の代わりだからな、着けてれば嫌でも俺のことを意識するだろ……。
長門の邪悪な下心などすみれは知る由もない。迷った末、そっと左手を絡めていく。暗くなってきたお濠端を腕を組んで歩く二人の姿は、まるで恋人のようだった。
「どうだ、純平と別れて、俺と付き合う気になってきたか」
しばらく歩いたところで、長門が顔を覗き込む。
「え……」
すみれはすぐに返事が出来なかった。
気まずい沈黙の時間が流れていく。
「なんだ。即答で拒否するんじゃないのか」
純平への罪悪感で固まっている姿を見てニヤリとすると、長門は声をかけた。
「西巻先生が帰って来る前に早く帰らないとな。そんなドレス姿見たら、絶対怒られるだろ。まあ、この時間なら大丈夫かな。今日は準備で遅いんだろ」
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