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ワールドエンド邂逅編
デミウルゴス・プロトタイプ
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逃げるという選択肢があるのは、幸福なことだ。
空中に銀の軌跡を残し、整備された山道を文字通り飛びながら、今は無人の影へ視線を落とす。
軽口も叩かず、ゆらゆら好き勝手に動いたりもしない自分の影を一瞥して、志恩は前を向いた。
倒壊した鉄塔から千切れた電線が火花を撒き散らし、木々に火が燃え移る。風が吹かないことだけが救いだった。
パチパチと草藪を焼く火の粉が、志恩の蒼い髪をかすめていく。
足を銀色に輝かせて、木の間を飛んで走る。志恩が飛ぶたび、楽しげに笑う少女の声がないというのは、少し寂しかった。
いや、寂しいなんて可愛らしいものじゃない。
心許ない、とも違う。
コウにはそれらしいことを言ってきたが、そう簡単にはいかないみたいだ、と心の中で幼馴染に謝った。
火の粉の舞う獣道を光の散弾で散らし、山頂へ続く電線に沿って山道を駆け上がりながら、志恩は荒い息を必死に紡ぐ。酸素が減り始めていることには気づいていたが、足は止めなかった。
本当は、怖い。
本当は、この先になんて行きたくない。
レイゼルがいない。今度死んだら次はない。いや、本来、死んだ人間は生き返ったりしない。母がそうであるように。
一度死んでも、二度死にかけても、それかどんなものであるかはよく分からなかった。
ただ、怖いと思う。そうだ。死は、圧倒的な恐怖だ。
何もかもが終わるという恐怖。痛みと苦しみへの恐怖。遺したものがあるという後悔と、その先がないという恐怖。生きられないという、恐怖。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、もう。なんだって俺が、俺がそんなことに巻き込まれなきゃならない。何もしてないのに。ただ、バケモノに出会って、殺されて、また殺されかけて。俺ばかりがなんでこんな目に──
『絶対に負けないで』
かわいいかわいい呪いの声が胸の奥にこだまして、志恩は顔を上げた。
火の粉を撒き散らしながら飛んできた木の枝を、銃口を閃かせ、銀光のレーザーで打ち払う。
頂上が揺れるたび降ってくる灰に目を凝らし、飛び散らかる火花に紛れて、林の奥に赤い閃光を見た。
八方に広がった光の筋の一本が、真っ直ぐに自分に向かってきて、志恩は苦々しく舌打ちをする。
奴がいた。
そして、燃え移る前の木の幹を思い切り蹴り飛ばし、上空に跳躍した。
煙の晴れた空から、地面はナメクジが這ったように体液がぬらめいて、木々はなぎ倒され、頂上に向かって一本の道ができているのが見えた。
その最奥で、ハーレムのように白い芋虫に囲まれた見覚えのある巨体を見とめて、至恩は左腕を振り上げた。
「それは終りであり始まりの扉。死の影、涙、正義にして祈りの門」
自動書記のように、口から聖句が流れ出る。
この銃が自分に喋らせている、自分の声のようで声でない、無機質な音の羅列を聞きながら至恩は目を閉じた。
まぶたの裏に、固く伏せられた長いまつげが、泥にもつれた黒髪が、地面を引きずられ傷ついた少女の頬が蘇る。
九年越しの幼馴染なのにまつげが長いことも、その寝顔が存外幼いことも。そして、すらりとした手足が、肩が、学ランに隠れてしまうほど華奢なことも、知らなかった。
こんなことで気づくなんてと皮肉そうに歯を見せて、至恩は舌を動かした。
「地は遠く過ぎ去った。我が歩むは輝ける天の月、我が至るは流れ出でる天の大河」
無限に湧き上がる魔力で、心臓が炉心に熱く、そこから血ではなく魔力が全身に巡っているのがわかる。胸が苦しく、咳き込みそうになりながら志恩は声を振り絞った。
一句ごとに、熱が、力が銃へ流れ込んでくる。金と銀の光が混ざり合い、輝き、生命の樹の円で今は忘れ去られた古代文字が蘇る。
目を開けて、銃口を前方に向け、至恩は口を開いた。
「栄光と勝利をここに――アイン」
銃口から放たれた膨大な熱放射で身体が弾かれる。
白銀の光が目を焼き、地面に落ちながら、至恩は霞む視界でその先を見た。
それは見るもおぞましい光景だった――芋虫達は至恩たちを倒すために向かってきたのだと思っていたが、それは勘違いだった。
共喰い。自分に群がり、自分に身を投げ出す虫たちを食い散らかしていたプロトタイプ・デカは、その蘇った頭をもたげると、大きく口を開き、咆哮を上げた。
「ウォオオオオォオオオ」
空気を、火を、大地を震わせる咆哮とともに、赤い光がその暗い喉奥から放たれる。
白と赤が絡み合い、反発しあい、膨張し、爆発する。
爆風に煽られながら木の枝を掴んで着地した直後、志恩は怪訝そうに上を向いた。
頭上が不意に暗くなり、夜に──赤くも金にも輝かない、至って普通の、ただの夜になったかと思ったが、違った。
「……バッ」
バカじゃないの、と口の中でつぶやいて、志恩は夜から逃げた。
全速力で走って空気を蹴り上げ、そのまま藪の中に頭から突っ込む。
身体を丸めた次の瞬間、轟音が響き、地面が突き裂けんばかりに上下に揺れた。
「……ギッ……ギッ……ギギッ」
鳴き声と呼ぶにはあまりに醜い、鉄のきしむような、硬い何かを無理矢理こすり合わせる音がする。
藪に身を隠したまま、物音を立てないよう細心の注意払って顔を上げ、志恩は息を呑んだ。
光を割り、天を割って現れた巨大ムカデは今や志恩のすぐそばにいる。距離は十メートルも、離れていない。
そもそも、ムカデの側面に張り巡らされた赤い目が、赤外線センサーよろしく四方八方に動いている。見つかるのは時間の問題──違う、
「──ッ!?」
ふ、と風が凪いだ。
次の瞬間、反射的に伏せた志恩の頭上が、文字通り木っ端微塵に吹っ飛んだ。
雨のようにパラパラと落ちる杉の葉や木の破片を振り払い、立ち上がって走り出す。
木の影に避難する、いや、もう見つかってしまった。
逃げに意味はない。
「やるしかないな」
唇を舐めて、鼓舞するためにつぶやく。
同時に左腕を閃かせ、プロトタイプ・デカに向けて光の柱を走らせる。
銀の柱はデカの外殻にぶつかり、額に火花を散らせたが、致命傷は残せずに消滅する。
とはいえ、予想はしていた。志恩が追撃をする前に、デカの目が怪しげに輝く。
「レイゼル、防御を──」
と、無意識に言いかけて、影に少女がいないことを思い出し、ハッとした。
まだ頼る気か。守られて、傷つけて、怪我をさせたのは俺だ。そう、噛み締めた歯の中で自分に悪態を吐くと、志恩は正面に銃を構えた。
「メム、ラメド、ヴァウ、ダレト」
詠唱とともに、三又に別れた光が、デカへ一直線に襲いかかる。
が、長い身体を仰け反らせて巨体に似合わない器用さで避けると、デカは上体を下げ、伸ばした尾を槍投げのように突き刺してくる。
尾についた顔と目が合う。ムカデに表情があるのか知らないが、甲殻に包まれた赤い目は嫌らしく笑っているように見えた。
それをにらみつけ、後方に飛ぶと、寸前まで志恩が居た地面が抉られて吹っ飛んだ。
二撃目、三撃目を飛び退りながら、考える。
妙だ。
前より、銃の効きが悪い。
デカの攻撃と相殺したせいといえばそれまでだが、何度も撃って外殻に傷一つ残らないというのは、おかしい。
──レイゼルじゃないからか。それとも、あの共喰いには再生以上の意味があったのかもしれない。
可能性としてはそのどちらもかな、と志恩が眉をひそめると、土を抉って巻き上がる土煙の中から、黒い影が飛び込んできた。
鋼の節が鞭のようにしなり、周囲を切り裂く。
横殴りに唸る尾の鞭を跳躍して離れ、上空から土煙を見下ろして、至恩は不意に目を細めた。
「……縮んだ?」
コウに斬られ、志恩に撃たれた時点で三分の一ほどになっていたデカの身体が、また更に小さくなっている。
百メートルだった巨体が、今は二十メートルもない。
せいぜい、四階建ての建物ぐらいの高さだ。もちろん、人間に比べれば巨体であることに変わりない。しかし、
「……小型化して甲殻の硬度を上げた、か?」
それしか考えられない。だから、銃が通じないのか。
となれば、今の志恩にできることは少ない。機動力が上がったのもそのせいだろう。動きが遅く、銃が少しでも効くなら持久戦で削り切ることも考えていたが、その線は消えた。
そうなると、手は二つ。
強化した甲殻ごと叩き潰すか、甲殻に包まれた化物の内側から殺すかだが──
「──ッ、こいつ!」
違和感に気を取られた瞬間、ガクンと身体が引きずり落ちた。
十メートル超えの巨体がバネのように伸び上がり、ムカデが捕食する本来のスタイルで、長い多足が志恩の身体を絡めとる。
目の前にデカの赤い目が現れ、次の瞬間には鋼の甲殻に抱きしめられていた。
とはいえ、もちろん実際は抱擁のような甘いものではない。
「……ぐ……ッ、離せ!!」
鋼の胸と足に全身を押し付けられ、息ができない。苦しい。痛い。骨が軋む。プレス機に挟まれたらこんな感じなのだろうかと思う。呼吸が止まるのが先か、骨が砕け内臓が弾けるのが先か。
ガツン、と音がする。
翠の目を見開き、もがきながら銃を動かす。そして、銃口をデカの腹の節に押し付けて叫んだ。
「アイン・ソフ!!」
超至近距離で放たれた白銀の光が、デカの巨体を押し返してようやく志恩は解放された。
その反動で自身も宙に投げ出されたが、どうやって着地するかはひとまず後回しにして、銃を構えた格好のまま志恩は目を細める。
この距離なら流石に無傷ではないだろう。その予想通り、衝撃に耐えきれず仰け反りかえったデカが地面に倒れる。
その瞬間。
「なっ────」
地面に倒れるデカの頭部とは別に、影を走ったものがあった。
それは、光、だった。
赤い、ほんの小さな光。
ピュンと軽やかな音を立てて草を焦がした光は、のたうつデカの身体の隙間を通り、空気を切り裂いて、志恩に着弾した。
声も出なかった。
声より先に、喉から息を押し上げて、ごほと口から血が溢れる。意識がブラックアウトする。
腹が熱い。痛い。熱い。痛い、痛い、熱い、痛い、熱い痛い熱い──ああ。
ああ、どうして、思いつかなかったのだろう。
こいつらが、一体で二対だということに。
ズシン、と地鳴りのような振動が腹の穴に響いて、目が覚めた。
同時に炎を抱き込んだような熱と痛みが甦り、至恩は低く呻いた。高所から落ちた衝撃で背中が痺れているし、右足に感覚がない。折れている。だが、今は何より腹の傷だ。
意識を失っている間、脇腹を守るように置いていた右手を、痛みをこらえながら持ち上げる。
手のひらが、赤い。赤黒くべっとりと濡れた液体は明らかな血で、ぬるぬるとして気持ち悪い。
「……は、はは」
焦りや驚きよりもいっそ現状が面白くて、笑えてくる。
ひとしきり笑ったあと、こふ、と口の端から血が流れてやめた。
動かない足も、脇腹に開いた穴も、くらくらと歪み始める頭も視界も。何もかもが面白くて、最悪だ。
また、死ぬのか。
死を目前にして不思議と絶望はしなかった。ただ、思ったことはひとつだけ。
「俺、は」
口の中に溜まった血を吐き捨てて、至恩は視線を上げた。
ズルズルと何かが這い回る、地の底から響く振動に、草木をなぎ倒す音が混じる。
それが想像通り、すぐ近くで止まって、至恩は壊れたように優しく微笑んだ。
「俺は」
かすれた喉から絞り出したつぶやきを握り潰すが如く、霞んだ視界の外から伸びてきたデカの手足が志恩を掴んだ。
鉄筋を思わせる長い爪が志恩の四肢をにぎる。同時に、頭上へ影がかかった。
目を開くと、そこにはおぞましく巨大なムカデの顔が二頭ある──わざわざその長い身体を折りかがめ、苦しさにもがく志恩を愉快そうに赤い目が見下ろしてくる。
口中の牙を擦り合わせ、デカが喉を鳴らす。念願の食事タイムに、身体をくるりと丸めて、頭と尾がお互い競い合うように至恩に近づく。その意地汚さがいっそ清々しいとも思える。
もし舌があったなら舌なめずりでもしているだろうデカ達を見上げ、志恩は血を吐いて笑った。
「至高の父、大いなる母……いや、違う。彼女に、この一撃は彼女のために」
横から割り込む口が、目の前で開く牙が、ゆっくりと志恩に覆い被さる。
深い闇、地獄のような暗さを、実際この闇の底は地獄より酷いものだろうと思えたが、至恩はそんなことはどうでもいいように口を開いた。
暗闇が広がったその瞬間、至恩は爪と爪の間から渾身の力で左腕を引き抜き、ぴったりとくっついた二頭の口の中に銃を突っ込んだ。
発動準備に入り、溜め込んだ魔力を編上げながら聖句を喋らせようとする舌を噛んで止め、至恩は別のことを言った。
胸の奥、心臓に黄金の炎が灯る。それは銀髪のかわいい美少女の形をして、それでいいのと至恩に微笑みかけた。
「――俺はお前を許さない」
腹の傷が開き、左腕が引きちぎれそうな衝撃とともに、暴力的な銀の光が銃口から放たれる。
空も夜も、世界も、化け物も、何もかもが光に飲み込まれる。二頭の甲殻が鱗のように剥がれ、赤い目が飛び散り、黒い身体が宙に浮くのが見えた。
それが、最期だった。
光に焼けて使いものにならなくなった視界を捨て、至恩は満足そうに目を閉じた。
空中に銀の軌跡を残し、整備された山道を文字通り飛びながら、今は無人の影へ視線を落とす。
軽口も叩かず、ゆらゆら好き勝手に動いたりもしない自分の影を一瞥して、志恩は前を向いた。
倒壊した鉄塔から千切れた電線が火花を撒き散らし、木々に火が燃え移る。風が吹かないことだけが救いだった。
パチパチと草藪を焼く火の粉が、志恩の蒼い髪をかすめていく。
足を銀色に輝かせて、木の間を飛んで走る。志恩が飛ぶたび、楽しげに笑う少女の声がないというのは、少し寂しかった。
いや、寂しいなんて可愛らしいものじゃない。
心許ない、とも違う。
コウにはそれらしいことを言ってきたが、そう簡単にはいかないみたいだ、と心の中で幼馴染に謝った。
火の粉の舞う獣道を光の散弾で散らし、山頂へ続く電線に沿って山道を駆け上がりながら、志恩は荒い息を必死に紡ぐ。酸素が減り始めていることには気づいていたが、足は止めなかった。
本当は、怖い。
本当は、この先になんて行きたくない。
レイゼルがいない。今度死んだら次はない。いや、本来、死んだ人間は生き返ったりしない。母がそうであるように。
一度死んでも、二度死にかけても、それかどんなものであるかはよく分からなかった。
ただ、怖いと思う。そうだ。死は、圧倒的な恐怖だ。
何もかもが終わるという恐怖。痛みと苦しみへの恐怖。遺したものがあるという後悔と、その先がないという恐怖。生きられないという、恐怖。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、もう。なんだって俺が、俺がそんなことに巻き込まれなきゃならない。何もしてないのに。ただ、バケモノに出会って、殺されて、また殺されかけて。俺ばかりがなんでこんな目に──
『絶対に負けないで』
かわいいかわいい呪いの声が胸の奥にこだまして、志恩は顔を上げた。
火の粉を撒き散らしながら飛んできた木の枝を、銃口を閃かせ、銀光のレーザーで打ち払う。
頂上が揺れるたび降ってくる灰に目を凝らし、飛び散らかる火花に紛れて、林の奥に赤い閃光を見た。
八方に広がった光の筋の一本が、真っ直ぐに自分に向かってきて、志恩は苦々しく舌打ちをする。
奴がいた。
そして、燃え移る前の木の幹を思い切り蹴り飛ばし、上空に跳躍した。
煙の晴れた空から、地面はナメクジが這ったように体液がぬらめいて、木々はなぎ倒され、頂上に向かって一本の道ができているのが見えた。
その最奥で、ハーレムのように白い芋虫に囲まれた見覚えのある巨体を見とめて、至恩は左腕を振り上げた。
「それは終りであり始まりの扉。死の影、涙、正義にして祈りの門」
自動書記のように、口から聖句が流れ出る。
この銃が自分に喋らせている、自分の声のようで声でない、無機質な音の羅列を聞きながら至恩は目を閉じた。
まぶたの裏に、固く伏せられた長いまつげが、泥にもつれた黒髪が、地面を引きずられ傷ついた少女の頬が蘇る。
九年越しの幼馴染なのにまつげが長いことも、その寝顔が存外幼いことも。そして、すらりとした手足が、肩が、学ランに隠れてしまうほど華奢なことも、知らなかった。
こんなことで気づくなんてと皮肉そうに歯を見せて、至恩は舌を動かした。
「地は遠く過ぎ去った。我が歩むは輝ける天の月、我が至るは流れ出でる天の大河」
無限に湧き上がる魔力で、心臓が炉心に熱く、そこから血ではなく魔力が全身に巡っているのがわかる。胸が苦しく、咳き込みそうになりながら志恩は声を振り絞った。
一句ごとに、熱が、力が銃へ流れ込んでくる。金と銀の光が混ざり合い、輝き、生命の樹の円で今は忘れ去られた古代文字が蘇る。
目を開けて、銃口を前方に向け、至恩は口を開いた。
「栄光と勝利をここに――アイン」
銃口から放たれた膨大な熱放射で身体が弾かれる。
白銀の光が目を焼き、地面に落ちながら、至恩は霞む視界でその先を見た。
それは見るもおぞましい光景だった――芋虫達は至恩たちを倒すために向かってきたのだと思っていたが、それは勘違いだった。
共喰い。自分に群がり、自分に身を投げ出す虫たちを食い散らかしていたプロトタイプ・デカは、その蘇った頭をもたげると、大きく口を開き、咆哮を上げた。
「ウォオオオオォオオオ」
空気を、火を、大地を震わせる咆哮とともに、赤い光がその暗い喉奥から放たれる。
白と赤が絡み合い、反発しあい、膨張し、爆発する。
爆風に煽られながら木の枝を掴んで着地した直後、志恩は怪訝そうに上を向いた。
頭上が不意に暗くなり、夜に──赤くも金にも輝かない、至って普通の、ただの夜になったかと思ったが、違った。
「……バッ」
バカじゃないの、と口の中でつぶやいて、志恩は夜から逃げた。
全速力で走って空気を蹴り上げ、そのまま藪の中に頭から突っ込む。
身体を丸めた次の瞬間、轟音が響き、地面が突き裂けんばかりに上下に揺れた。
「……ギッ……ギッ……ギギッ」
鳴き声と呼ぶにはあまりに醜い、鉄のきしむような、硬い何かを無理矢理こすり合わせる音がする。
藪に身を隠したまま、物音を立てないよう細心の注意払って顔を上げ、志恩は息を呑んだ。
光を割り、天を割って現れた巨大ムカデは今や志恩のすぐそばにいる。距離は十メートルも、離れていない。
そもそも、ムカデの側面に張り巡らされた赤い目が、赤外線センサーよろしく四方八方に動いている。見つかるのは時間の問題──違う、
「──ッ!?」
ふ、と風が凪いだ。
次の瞬間、反射的に伏せた志恩の頭上が、文字通り木っ端微塵に吹っ飛んだ。
雨のようにパラパラと落ちる杉の葉や木の破片を振り払い、立ち上がって走り出す。
木の影に避難する、いや、もう見つかってしまった。
逃げに意味はない。
「やるしかないな」
唇を舐めて、鼓舞するためにつぶやく。
同時に左腕を閃かせ、プロトタイプ・デカに向けて光の柱を走らせる。
銀の柱はデカの外殻にぶつかり、額に火花を散らせたが、致命傷は残せずに消滅する。
とはいえ、予想はしていた。志恩が追撃をする前に、デカの目が怪しげに輝く。
「レイゼル、防御を──」
と、無意識に言いかけて、影に少女がいないことを思い出し、ハッとした。
まだ頼る気か。守られて、傷つけて、怪我をさせたのは俺だ。そう、噛み締めた歯の中で自分に悪態を吐くと、志恩は正面に銃を構えた。
「メム、ラメド、ヴァウ、ダレト」
詠唱とともに、三又に別れた光が、デカへ一直線に襲いかかる。
が、長い身体を仰け反らせて巨体に似合わない器用さで避けると、デカは上体を下げ、伸ばした尾を槍投げのように突き刺してくる。
尾についた顔と目が合う。ムカデに表情があるのか知らないが、甲殻に包まれた赤い目は嫌らしく笑っているように見えた。
それをにらみつけ、後方に飛ぶと、寸前まで志恩が居た地面が抉られて吹っ飛んだ。
二撃目、三撃目を飛び退りながら、考える。
妙だ。
前より、銃の効きが悪い。
デカの攻撃と相殺したせいといえばそれまでだが、何度も撃って外殻に傷一つ残らないというのは、おかしい。
──レイゼルじゃないからか。それとも、あの共喰いには再生以上の意味があったのかもしれない。
可能性としてはそのどちらもかな、と志恩が眉をひそめると、土を抉って巻き上がる土煙の中から、黒い影が飛び込んできた。
鋼の節が鞭のようにしなり、周囲を切り裂く。
横殴りに唸る尾の鞭を跳躍して離れ、上空から土煙を見下ろして、至恩は不意に目を細めた。
「……縮んだ?」
コウに斬られ、志恩に撃たれた時点で三分の一ほどになっていたデカの身体が、また更に小さくなっている。
百メートルだった巨体が、今は二十メートルもない。
せいぜい、四階建ての建物ぐらいの高さだ。もちろん、人間に比べれば巨体であることに変わりない。しかし、
「……小型化して甲殻の硬度を上げた、か?」
それしか考えられない。だから、銃が通じないのか。
となれば、今の志恩にできることは少ない。機動力が上がったのもそのせいだろう。動きが遅く、銃が少しでも効くなら持久戦で削り切ることも考えていたが、その線は消えた。
そうなると、手は二つ。
強化した甲殻ごと叩き潰すか、甲殻に包まれた化物の内側から殺すかだが──
「──ッ、こいつ!」
違和感に気を取られた瞬間、ガクンと身体が引きずり落ちた。
十メートル超えの巨体がバネのように伸び上がり、ムカデが捕食する本来のスタイルで、長い多足が志恩の身体を絡めとる。
目の前にデカの赤い目が現れ、次の瞬間には鋼の甲殻に抱きしめられていた。
とはいえ、もちろん実際は抱擁のような甘いものではない。
「……ぐ……ッ、離せ!!」
鋼の胸と足に全身を押し付けられ、息ができない。苦しい。痛い。骨が軋む。プレス機に挟まれたらこんな感じなのだろうかと思う。呼吸が止まるのが先か、骨が砕け内臓が弾けるのが先か。
ガツン、と音がする。
翠の目を見開き、もがきながら銃を動かす。そして、銃口をデカの腹の節に押し付けて叫んだ。
「アイン・ソフ!!」
超至近距離で放たれた白銀の光が、デカの巨体を押し返してようやく志恩は解放された。
その反動で自身も宙に投げ出されたが、どうやって着地するかはひとまず後回しにして、銃を構えた格好のまま志恩は目を細める。
この距離なら流石に無傷ではないだろう。その予想通り、衝撃に耐えきれず仰け反りかえったデカが地面に倒れる。
その瞬間。
「なっ────」
地面に倒れるデカの頭部とは別に、影を走ったものがあった。
それは、光、だった。
赤い、ほんの小さな光。
ピュンと軽やかな音を立てて草を焦がした光は、のたうつデカの身体の隙間を通り、空気を切り裂いて、志恩に着弾した。
声も出なかった。
声より先に、喉から息を押し上げて、ごほと口から血が溢れる。意識がブラックアウトする。
腹が熱い。痛い。熱い。痛い、痛い、熱い、痛い、熱い痛い熱い──ああ。
ああ、どうして、思いつかなかったのだろう。
こいつらが、一体で二対だということに。
ズシン、と地鳴りのような振動が腹の穴に響いて、目が覚めた。
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意識を失っている間、脇腹を守るように置いていた右手を、痛みをこらえながら持ち上げる。
手のひらが、赤い。赤黒くべっとりと濡れた液体は明らかな血で、ぬるぬるとして気持ち悪い。
「……は、はは」
焦りや驚きよりもいっそ現状が面白くて、笑えてくる。
ひとしきり笑ったあと、こふ、と口の端から血が流れてやめた。
動かない足も、脇腹に開いた穴も、くらくらと歪み始める頭も視界も。何もかもが面白くて、最悪だ。
また、死ぬのか。
死を目前にして不思議と絶望はしなかった。ただ、思ったことはひとつだけ。
「俺、は」
口の中に溜まった血を吐き捨てて、至恩は視線を上げた。
ズルズルと何かが這い回る、地の底から響く振動に、草木をなぎ倒す音が混じる。
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「俺は」
かすれた喉から絞り出したつぶやきを握り潰すが如く、霞んだ視界の外から伸びてきたデカの手足が志恩を掴んだ。
鉄筋を思わせる長い爪が志恩の四肢をにぎる。同時に、頭上へ影がかかった。
目を開くと、そこにはおぞましく巨大なムカデの顔が二頭ある──わざわざその長い身体を折りかがめ、苦しさにもがく志恩を愉快そうに赤い目が見下ろしてくる。
口中の牙を擦り合わせ、デカが喉を鳴らす。念願の食事タイムに、身体をくるりと丸めて、頭と尾がお互い競い合うように至恩に近づく。その意地汚さがいっそ清々しいとも思える。
もし舌があったなら舌なめずりでもしているだろうデカ達を見上げ、志恩は血を吐いて笑った。
「至高の父、大いなる母……いや、違う。彼女に、この一撃は彼女のために」
横から割り込む口が、目の前で開く牙が、ゆっくりと志恩に覆い被さる。
深い闇、地獄のような暗さを、実際この闇の底は地獄より酷いものだろうと思えたが、至恩はそんなことはどうでもいいように口を開いた。
暗闇が広がったその瞬間、至恩は爪と爪の間から渾身の力で左腕を引き抜き、ぴったりとくっついた二頭の口の中に銃を突っ込んだ。
発動準備に入り、溜め込んだ魔力を編上げながら聖句を喋らせようとする舌を噛んで止め、至恩は別のことを言った。
胸の奥、心臓に黄金の炎が灯る。それは銀髪のかわいい美少女の形をして、それでいいのと至恩に微笑みかけた。
「――俺はお前を許さない」
腹の傷が開き、左腕が引きちぎれそうな衝撃とともに、暴力的な銀の光が銃口から放たれる。
空も夜も、世界も、化け物も、何もかもが光に飲み込まれる。二頭の甲殻が鱗のように剥がれ、赤い目が飛び散り、黒い身体が宙に浮くのが見えた。
それが、最期だった。
光に焼けて使いものにならなくなった視界を捨て、至恩は満足そうに目を閉じた。
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追記
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2024/02/23
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