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ワールドエンド邂逅編
亜門マート
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「お前ほんとかわいくない」
「さっきはかわいいって言ってたじゃん!?」
嘘つき嘘つきー!とぷんすか怒るレイゼルにあっかんべと舌を出す至恩。
とはいえ、至恩の手からストロベリーアイスを受け取った瞬間、レイゼルは大輪の花が咲いたように笑顔になった。
単純だなあ、と思うが当然口には出さない。
──今から十五分前、ショッピングビルのエントランスを出て、四人が同時に言ったことがある。
クソ暑い。
もっとも瑛里奈はそんな下品な言葉遣いはせずに、日差しがちょっと強いですねとハンカチで汗を拭ったが、気持ちとしては変わらない。
アイス食べたい、とぽつりと呟いたレイゼルの言葉に全員が同意したのは当然といえば当然で、電光掲示板に表示された気温は三十五度。大量の荷物を持ちながら歩くには、あまりに暑い梅雨明けだった。
ビルの中にもクレープやアイスを売る店はあったが(何故か金のあるレイゼルと、令嬢の瑛里奈)以外の男たち二人が出した答えが、採用された。
採用場所の名前は『亜門マート』
コウの家、もとい世話になっている店だった。
「はい、瑛里奈。ラムレーズンでよかった?」
「あ、あの志恩、お金払いますから……!」
「いいよ。今日のお礼だから、受け取って。コウちゃんも、ギャリギャリくんでよかったよね」
「ん、さんきゅ。ていうか、うちのアイスだけどな」
水色のパッケージのアイスを受け取りながら、お買い上げどうもとコウがにやりと笑う。
チェーン店ではないからイートインなどもちろんなく、店の前での買い食いになる。
行儀は悪いけど、たまにはこういうのもいいよね、とチョコレートアイスをかじる志恩の隣で、瑛里奈がカップアイスを両手に震えた声でつぶやいた。
「わ、わたしこういうの初めてです……」
「えっそうなの」
「ほんと世間知らずだなお前は……」
「ほんと箱入りだねエリナ……」
呆れ顔のコウはともかく、レイゼルにまで言われて、涙目の瑛里奈。
ラムレーズンのカップを木のスプーンでちまちま食べながら、ちらりと視線を上げた。
「うう……レイゼルちゃんもあるんですか?」
「あるよ。ママとね、ベルリンでソーセージも食べたし、ロンドンでフィッシュアンドチップスも食べたんだ」
「お母さまと……」
そうなんですか、と相槌したあと、はっとした顔で瑛里奈はレイゼルを見た。
きょとんとするレイゼル。それから、ああと頷いて、やさしく口を開いた。
「気にしないでもいいんだよ。エリナ」
「で、でも……」
「いいんだよ。ママがいないのは寂しいけど、私にはシオンがいるから」
赤い舌でストロベリーアイスをなめながら、レイゼルがにこっと志恩に笑いかける。
「……そうだね」
だが、志恩は複雑そうにアイスバーの角をかじって、そっぽを向いた。
レイゼルの母親の事もあるし、頼られるのは嫌ではないけれど、相手が相手なので警戒心がある。
何か魂胆があるのかと身構える志恩を楽しそうに横目で見て、レイゼルは言った。
「それに、運命は止められないし」
「レイゼルちゃん……?」
「選択がどうあれ、未来は自由だから美しいんだよ」
ふと、遠くを、遥か遠くを望むようにレイゼルが目を細める。
その悠久の果てを見つめる横顔に、レイゼルの母親が自分のために死んだのに、大人気なく警戒心を抱いたことや、うっかり隠し子説を信じそうになったこと、その他諸々を志恩は恥じた。
今、この子供には、自分しかいないのだ。
申し訳なさそうに眉を寄せて視線を動かすと、やはりレイゼルがにこりと微笑んで、志恩を見ていた。なあ、レイゼル、と言いかけた瞬間──
「面白いなあ、この嬢ちゃん」
わはははとひどい爆笑が背後から聞こえ、一緒に背中も叩かれて、志恩は硬いアイスバーを思い切りがちりと噛んだ。ついでに舌も。
「いやーあいつと同じ事言うなんざ……どうした、志恩?」
「し、舌……舌噛んだ……」
「おっさん、うるせェぞ」
「どうしたどうした。若者達の視線が冷たいな。オジサン泣いちゃうぞ~」
亜門マートとゴシック体で書かれたセンス皆無のエプロンはともかく、雑に結んだ長髪に無精ひげにピアス、ボタンを外したしわくちゃのワイシャツに、そのうえ手には煙草と接客業クレームビンゴを全穴開けたような男が、至恩の後ろでにやにやと笑って、ごみ箱に寄りかかって立っていた。
「おっさん、仕事中に煙草吸うなって何回言ったらわかんだよ」
「店長と言え、店長と。いいんだよ、これシガレットチョコだからさあ」
「バカか! チョコから煙がでるわけねーだろ!!」
「細けーこと言うなよ、コウ。お前、いるならレジ入れよ。あと金貸して」
「俺これから至恩の家にいかねーとダメだから、ちょい待ち、っていうか最後おかしいだろ、最後」
突然の乱入者に、瑛里奈の後ろに隠れるレイゼル。不審者の登場にレイゼルを抱き寄せる瑛里奈。それどころでなくて、噛んだ舌を痛そうに指先でつまむ至恩。誰よりも冷たい半眼のコウ。
深いため息を吐くと、至恩はともかく瑛里奈とレイゼルをかばうように座り直し、ソーダアイスの氷をかみ砕きながらコウは言った。
「……店長。ところで先月の小遣い、少なかったんスけど」
「あーあれな。あれだよあれ。天引き貯金ってやつ? お前の将来を考えてやってんだよ、俺も。保護者の鏡だよなあ」
「…………どこに貯金してきたんだよ」
「パチスロ」
「ほんっっっとにクズだなおっさん!!」
「褒めるなよぉ。おっ、そうだ、至恩。お前うちのビニ弁食って育ったようなもんだろ。ということは、お前を育てた俺は親父みたいなもんだろ? 親と思って金貸してくれていいぞ」
「斜め四十五度からクズ投げてこないでくださいよ、亜門さん。おかげ様で冷食とか食えなくなったんで、お断りです」
応急処置としてアイスで舌を冷やしながら、目の前の不審者──もとい亜門マート店長、その名も亜門を、じろりとにらむ至恩。
舌を噛んだ件をなにひとつ許してはいないし、当たり前だが金は貸さない。
確かに至恩はここのコンビニ弁当を幼い頃死ぬほど食ったが、おかげで冷食が食えなくなって、現在は完全自炊派になった。
健康的にでかくなったのは俺のおかげだな、と亜門は言うが、そんな良いもんじゃないよなと至恩は心の底から思っている。
至恩にとって、世話にはなったが、世話になったと思いたくない相手。それが、亜門だった。
「……おっさんもう女から借りて来いよ」
「女かー。昨日、目が覚めたから出てけカスって蹴り出されたんだよね、ハハハ」
「目が覚めてよかったね、その人……」
「……コウ」
「んだよ、ドベ女」
「あなた、うちで働きませんか?」
「はあ!?」
瑛里奈に真顔で両手をにぎられ、コウは変な声を出してのけぞった。
淡いブルーの瞳はコウを真っ直ぐにのぞきこみ、真剣そのものだ。
なんだなんだとにやつく亜門の視線を無視して、コウは大きく口を開いた。
「何言ってんだ、お前」
「いえ、ええと、今、うちの使用人が足りなくて……あっ、中等部はバイト禁止でしたね。でも、ここで働くよりはうちの方が福利厚生も特別ボーナスもでますし、いいかなって思ったんです……お給金も減りませんし……」
使用人が欲しいわけじゃなくて、コウに何かできないかと思って。
しゅんとして視線を落とす瑛里奈に、やれやれと金髪をかきながらコウは言った。
「あのなあ……いらねェ同情するんじゃねーよ。心配もな。うぜーから。ま、気持ちだけもらっとくからよ」
「そうだぞ、清楚なお嬢さん。同情は金にならないからなあ。どうせなら現ナマでくれ、現ナマで」
「おっさん、いい加減にしろよ」
「……わかりました。今、手持ちあんまりないですが、すこしだけなら……」
「おっ、まじかやったー」
「ちょっっっと待てドベ女!!!!」
おもむろに革のバッグから財布を取り出す瑛里奈を、コウが全力で止める。
亜門からブーイングが上がるが、虎を思わせる獰猛なひと睨みで黙らせた。
きょとんと不思議そうな顔をする瑛里奈の肩をつかみ、疲れ切ったように息を吐いて、コウは頭を振った。
「どんだけバカなんだよお前は……ガバガバのバカかよ!」
「なっ……バカとはなんですか、バカとは!」
「当たり前だろうが。どこの誰が、赤の他人にそんなホイホイ金やるってんだよ。返ってくるわきゃねーんだから、募金の方がまだマシだろが。利子がつくならまだしも、世間知らずどころか大バカだなお前は」
勢いよく一息で言い切ったコウに、瑛里奈は太い眉を寄せ、のほほんとした表情を改める。
こほん、と一つ咳払いをして凛々しく名前を呼んだ。
「コウ」
「んだよ」
それから、荒野で万民を導く聖女のような眼差しで、瑛里奈は口を開いた。
「違いますよ、コウ。見返りを得るために貸すんじゃありません。得を欲するのは、悪人でも同じこと。そうではなく、たとえ相手が悪人であっても、それを愛し、なんの見返りの当てもせずに、貸すことが」
素で亜門を悪人指名した事には気づいていたが、コウにしては珍しく噛みつきもしないで、大嫌いな説教を黙って聞いていた。苦虫を千匹ほど奥歯で潰したような顔はしていたが。そして、
「──そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」
低い、色気を詰めこんだバリトンが、不意にコウの肩に落ちる。
言葉の終りとともに、ジュッと音を立てて、店に備え付けの灰皿にもったいないほど残った煙草が押し付けられる。貼り付けた笑みに紛れさせた酷薄な唇からは、細い紫煙がのぼった。
不機嫌をほうり投げ、顔を上げるコウ。瑛梨奈も驚いた顔で、声の主──亜門を見る。
年老いた梟を思わせる鋭い目つきを、にやついた目じりに隠して、男は面白そうに口元をゆがめた。
「……ルカによる福音書、六章三十五節。そうだろう? お嬢さん」
「えっ、えと、あの、はい。……そうです」
「じゃあ俺は、お嬢さんからは受け取れないわな」
ごめんなあ、と言いながら、亜門はリボンのついた長財布を瑛里奈にぽんと投げた。
無事戻ってきた財布に安堵し──いや、そもそも亜門には渡していない。コウに止められて、バッグの中に入っていたはずの財布を見て、瑛里奈は白い首をかしげた。
「ところで」
疑問符だらけで財布をひっくり返す瑛里奈の後ろから、かわいい声が飛び出した。
ストロベリーアイスを食べ終わり、ついで瑛里奈からもらっていたラムレーズンも食べ終わったレイゼルが、満を持して立ち上がる。
赤い瞳で、一切の油断なく、じいっと亜門を見た。
「……このドクズカス野郎はいったいなんなの? シオン」
「レイゼルお前、いくらドクズカスゲス野郎でも、一応世話になった人だから本当のこというのはやめてやれよ。せめて、外面ぐらいつくってやって」
「待て、至恩。お前が一番ひどいぞ!?」
そんな子に育てた覚えはないのに、と嘆く亜門をつめたく一瞥する至恩。
ちょこちょこやってきたレイゼルが、至恩の隣に座り、亜門を威嚇する。
「あ、そうだ。おっさ……店長、ちょっと」
「あん?」
番犬ならぬ番猫のようなレイゼルを見て思い出し、コウは、亜門に耳打ちをした。
そして、目を丸くして数秒後、亜門は腹を抱えて哄笑した。
「いやいやいや、それはないだろ! おい、志恩、ちょっと来い」
「なんですか。金は貸しませんよ」
「えっダメなの? じゃなくて、逃げるな逃げるな。あのな、コウのバカがお前になんか言っただろう。隠し子とかなんとか」
「…………はい」
逃げかけた首根っこを引っ掴まれて志恩が頷くと、亜門はふたたび爆笑し、レイゼルは変な顔をした。
「かくしご?」
「ああ、いや、嬢ちゃんは知らなくていい言葉だ。大人の話だから、お耳塞いどこうな。……それで、志恩。断言しとくが、その可能性は万に一つも無いから安心しろ」
「……ほんとに?」
「ねーよ。確かにロウエルには似てないが、お前の親父からもそんな面白い話は聞いてないしな。似てないっても遠縁ならそんなもんだろ」
「ていうか亜門さんって、母さんのこと知ってんの」
「ん? 言ってなかったか?」
ぽかぽか叩くレイゼルの耳を器用に手で塞ぎながら、亜門が頷く。
レイゼルが涙目で志恩をにらむが、片目をつむり、気がつかないふりをして志恩は言った。
「……母さんって、どんな人だった?」
「んー……胸がデカかったな」
「は……?」
「いや、俺さあ、お前の親父と女の趣味合わないからあんま覚えてないんだよ。で、胸はスゲーでかかった」
「本当に最低オブ最低だなアンタは!!」
「まあまあ聞けって。あとは、そうだな。平坂研究所ってあるだろ。お前らの学校の横の。あそこで働いてたって話だな」
平坂研究所は、学園に併設された施設で、今は廃墟だ。何か怪しい実験をしていたとか、爆発事故があったとか、もっぱら学園の生徒の七不思議ぐらいにしか名前の出ない場所だ。
とはいえ、亜門から引き出せた有益な情報はそれぐらいで、あとはただただ亜門が最低なだけだった。
顔を真っ赤にさせて怒る志恩に、平謝りしたあと、話題を変えるように亜門はしゃがんだ。ジト目で半眼のレイゼルに向き直る。
「なんにせよ、志恩のことよろしくな。嬢ちゃん」
「…………ふけーだよ」
「ふけー?」
わしゃわしゃと頭をなで、何気なく頬に触れた亜門に、レイゼルは不機嫌そうにつぶやく。
そして、ぱたぱたと走り、瑛里奈にぎゅーっと抱きついて隠れた。
フケ、不潔か、なんだ?と濡れたような黒髪をつまんで考えたあと、亜門は目を見開いて、とりあえず手短にいたコウの肩を叩いた。
何すんだこのおっさんと迷惑そうに眉を寄せるコウに顔を寄せて、くつくつと低く笑う。
「なあ、コウ。嬢ちゃんに嫌われたと思うか?」
「そりゃそうだろ。明らかに逃げたし」
「そうか。残念だな。将来、俺好みの美人になりそうなんだが」
心底、残念だと楽しそうに言う亜門から、レイゼルを庇いつつ瑛里奈がじりじりと距離をとる。
完全に敵認定を受けたその様子を眺めながらコウを離し、亜門は次に志恩を捕まえた。
無理やり肩を組み、すこぶる嫌そうな志恩に、小声でささやく。
「で、なんで突然、母親が気になったんだ。恋しくなったか?」
「…………違いますけど。色々あったんです」
隣りから漂う煙草臭さに辟易しながら、横を向く志恩。
その首筋にかかる濃紺の髪が、ロウエルと同じだと目を細めたが、そんなことはおくびにもださず、亜門はため息交じりに言った。
「……オジサン、世の中知らないほうがいいこともあると思うんだけどなあ」
「さっきはかわいいって言ってたじゃん!?」
嘘つき嘘つきー!とぷんすか怒るレイゼルにあっかんべと舌を出す至恩。
とはいえ、至恩の手からストロベリーアイスを受け取った瞬間、レイゼルは大輪の花が咲いたように笑顔になった。
単純だなあ、と思うが当然口には出さない。
──今から十五分前、ショッピングビルのエントランスを出て、四人が同時に言ったことがある。
クソ暑い。
もっとも瑛里奈はそんな下品な言葉遣いはせずに、日差しがちょっと強いですねとハンカチで汗を拭ったが、気持ちとしては変わらない。
アイス食べたい、とぽつりと呟いたレイゼルの言葉に全員が同意したのは当然といえば当然で、電光掲示板に表示された気温は三十五度。大量の荷物を持ちながら歩くには、あまりに暑い梅雨明けだった。
ビルの中にもクレープやアイスを売る店はあったが(何故か金のあるレイゼルと、令嬢の瑛里奈)以外の男たち二人が出した答えが、採用された。
採用場所の名前は『亜門マート』
コウの家、もとい世話になっている店だった。
「はい、瑛里奈。ラムレーズンでよかった?」
「あ、あの志恩、お金払いますから……!」
「いいよ。今日のお礼だから、受け取って。コウちゃんも、ギャリギャリくんでよかったよね」
「ん、さんきゅ。ていうか、うちのアイスだけどな」
水色のパッケージのアイスを受け取りながら、お買い上げどうもとコウがにやりと笑う。
チェーン店ではないからイートインなどもちろんなく、店の前での買い食いになる。
行儀は悪いけど、たまにはこういうのもいいよね、とチョコレートアイスをかじる志恩の隣で、瑛里奈がカップアイスを両手に震えた声でつぶやいた。
「わ、わたしこういうの初めてです……」
「えっそうなの」
「ほんと世間知らずだなお前は……」
「ほんと箱入りだねエリナ……」
呆れ顔のコウはともかく、レイゼルにまで言われて、涙目の瑛里奈。
ラムレーズンのカップを木のスプーンでちまちま食べながら、ちらりと視線を上げた。
「うう……レイゼルちゃんもあるんですか?」
「あるよ。ママとね、ベルリンでソーセージも食べたし、ロンドンでフィッシュアンドチップスも食べたんだ」
「お母さまと……」
そうなんですか、と相槌したあと、はっとした顔で瑛里奈はレイゼルを見た。
きょとんとするレイゼル。それから、ああと頷いて、やさしく口を開いた。
「気にしないでもいいんだよ。エリナ」
「で、でも……」
「いいんだよ。ママがいないのは寂しいけど、私にはシオンがいるから」
赤い舌でストロベリーアイスをなめながら、レイゼルがにこっと志恩に笑いかける。
「……そうだね」
だが、志恩は複雑そうにアイスバーの角をかじって、そっぽを向いた。
レイゼルの母親の事もあるし、頼られるのは嫌ではないけれど、相手が相手なので警戒心がある。
何か魂胆があるのかと身構える志恩を楽しそうに横目で見て、レイゼルは言った。
「それに、運命は止められないし」
「レイゼルちゃん……?」
「選択がどうあれ、未来は自由だから美しいんだよ」
ふと、遠くを、遥か遠くを望むようにレイゼルが目を細める。
その悠久の果てを見つめる横顔に、レイゼルの母親が自分のために死んだのに、大人気なく警戒心を抱いたことや、うっかり隠し子説を信じそうになったこと、その他諸々を志恩は恥じた。
今、この子供には、自分しかいないのだ。
申し訳なさそうに眉を寄せて視線を動かすと、やはりレイゼルがにこりと微笑んで、志恩を見ていた。なあ、レイゼル、と言いかけた瞬間──
「面白いなあ、この嬢ちゃん」
わはははとひどい爆笑が背後から聞こえ、一緒に背中も叩かれて、志恩は硬いアイスバーを思い切りがちりと噛んだ。ついでに舌も。
「いやーあいつと同じ事言うなんざ……どうした、志恩?」
「し、舌……舌噛んだ……」
「おっさん、うるせェぞ」
「どうしたどうした。若者達の視線が冷たいな。オジサン泣いちゃうぞ~」
亜門マートとゴシック体で書かれたセンス皆無のエプロンはともかく、雑に結んだ長髪に無精ひげにピアス、ボタンを外したしわくちゃのワイシャツに、そのうえ手には煙草と接客業クレームビンゴを全穴開けたような男が、至恩の後ろでにやにやと笑って、ごみ箱に寄りかかって立っていた。
「おっさん、仕事中に煙草吸うなって何回言ったらわかんだよ」
「店長と言え、店長と。いいんだよ、これシガレットチョコだからさあ」
「バカか! チョコから煙がでるわけねーだろ!!」
「細けーこと言うなよ、コウ。お前、いるならレジ入れよ。あと金貸して」
「俺これから至恩の家にいかねーとダメだから、ちょい待ち、っていうか最後おかしいだろ、最後」
突然の乱入者に、瑛里奈の後ろに隠れるレイゼル。不審者の登場にレイゼルを抱き寄せる瑛里奈。それどころでなくて、噛んだ舌を痛そうに指先でつまむ至恩。誰よりも冷たい半眼のコウ。
深いため息を吐くと、至恩はともかく瑛里奈とレイゼルをかばうように座り直し、ソーダアイスの氷をかみ砕きながらコウは言った。
「……店長。ところで先月の小遣い、少なかったんスけど」
「あーあれな。あれだよあれ。天引き貯金ってやつ? お前の将来を考えてやってんだよ、俺も。保護者の鏡だよなあ」
「…………どこに貯金してきたんだよ」
「パチスロ」
「ほんっっっとにクズだなおっさん!!」
「褒めるなよぉ。おっ、そうだ、至恩。お前うちのビニ弁食って育ったようなもんだろ。ということは、お前を育てた俺は親父みたいなもんだろ? 親と思って金貸してくれていいぞ」
「斜め四十五度からクズ投げてこないでくださいよ、亜門さん。おかげ様で冷食とか食えなくなったんで、お断りです」
応急処置としてアイスで舌を冷やしながら、目の前の不審者──もとい亜門マート店長、その名も亜門を、じろりとにらむ至恩。
舌を噛んだ件をなにひとつ許してはいないし、当たり前だが金は貸さない。
確かに至恩はここのコンビニ弁当を幼い頃死ぬほど食ったが、おかげで冷食が食えなくなって、現在は完全自炊派になった。
健康的にでかくなったのは俺のおかげだな、と亜門は言うが、そんな良いもんじゃないよなと至恩は心の底から思っている。
至恩にとって、世話にはなったが、世話になったと思いたくない相手。それが、亜門だった。
「……おっさんもう女から借りて来いよ」
「女かー。昨日、目が覚めたから出てけカスって蹴り出されたんだよね、ハハハ」
「目が覚めてよかったね、その人……」
「……コウ」
「んだよ、ドベ女」
「あなた、うちで働きませんか?」
「はあ!?」
瑛里奈に真顔で両手をにぎられ、コウは変な声を出してのけぞった。
淡いブルーの瞳はコウを真っ直ぐにのぞきこみ、真剣そのものだ。
なんだなんだとにやつく亜門の視線を無視して、コウは大きく口を開いた。
「何言ってんだ、お前」
「いえ、ええと、今、うちの使用人が足りなくて……あっ、中等部はバイト禁止でしたね。でも、ここで働くよりはうちの方が福利厚生も特別ボーナスもでますし、いいかなって思ったんです……お給金も減りませんし……」
使用人が欲しいわけじゃなくて、コウに何かできないかと思って。
しゅんとして視線を落とす瑛里奈に、やれやれと金髪をかきながらコウは言った。
「あのなあ……いらねェ同情するんじゃねーよ。心配もな。うぜーから。ま、気持ちだけもらっとくからよ」
「そうだぞ、清楚なお嬢さん。同情は金にならないからなあ。どうせなら現ナマでくれ、現ナマで」
「おっさん、いい加減にしろよ」
「……わかりました。今、手持ちあんまりないですが、すこしだけなら……」
「おっ、まじかやったー」
「ちょっっっと待てドベ女!!!!」
おもむろに革のバッグから財布を取り出す瑛里奈を、コウが全力で止める。
亜門からブーイングが上がるが、虎を思わせる獰猛なひと睨みで黙らせた。
きょとんと不思議そうな顔をする瑛里奈の肩をつかみ、疲れ切ったように息を吐いて、コウは頭を振った。
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「なっ……バカとはなんですか、バカとは!」
「当たり前だろうが。どこの誰が、赤の他人にそんなホイホイ金やるってんだよ。返ってくるわきゃねーんだから、募金の方がまだマシだろが。利子がつくならまだしも、世間知らずどころか大バカだなお前は」
勢いよく一息で言い切ったコウに、瑛里奈は太い眉を寄せ、のほほんとした表情を改める。
こほん、と一つ咳払いをして凛々しく名前を呼んだ。
「コウ」
「んだよ」
それから、荒野で万民を導く聖女のような眼差しで、瑛里奈は口を開いた。
「違いますよ、コウ。見返りを得るために貸すんじゃありません。得を欲するのは、悪人でも同じこと。そうではなく、たとえ相手が悪人であっても、それを愛し、なんの見返りの当てもせずに、貸すことが」
素で亜門を悪人指名した事には気づいていたが、コウにしては珍しく噛みつきもしないで、大嫌いな説教を黙って聞いていた。苦虫を千匹ほど奥歯で潰したような顔はしていたが。そして、
「──そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」
低い、色気を詰めこんだバリトンが、不意にコウの肩に落ちる。
言葉の終りとともに、ジュッと音を立てて、店に備え付けの灰皿にもったいないほど残った煙草が押し付けられる。貼り付けた笑みに紛れさせた酷薄な唇からは、細い紫煙がのぼった。
不機嫌をほうり投げ、顔を上げるコウ。瑛梨奈も驚いた顔で、声の主──亜門を見る。
年老いた梟を思わせる鋭い目つきを、にやついた目じりに隠して、男は面白そうに口元をゆがめた。
「……ルカによる福音書、六章三十五節。そうだろう? お嬢さん」
「えっ、えと、あの、はい。……そうです」
「じゃあ俺は、お嬢さんからは受け取れないわな」
ごめんなあ、と言いながら、亜門はリボンのついた長財布を瑛里奈にぽんと投げた。
無事戻ってきた財布に安堵し──いや、そもそも亜門には渡していない。コウに止められて、バッグの中に入っていたはずの財布を見て、瑛里奈は白い首をかしげた。
「ところで」
疑問符だらけで財布をひっくり返す瑛里奈の後ろから、かわいい声が飛び出した。
ストロベリーアイスを食べ終わり、ついで瑛里奈からもらっていたラムレーズンも食べ終わったレイゼルが、満を持して立ち上がる。
赤い瞳で、一切の油断なく、じいっと亜門を見た。
「……このドクズカス野郎はいったいなんなの? シオン」
「レイゼルお前、いくらドクズカスゲス野郎でも、一応世話になった人だから本当のこというのはやめてやれよ。せめて、外面ぐらいつくってやって」
「待て、至恩。お前が一番ひどいぞ!?」
そんな子に育てた覚えはないのに、と嘆く亜門をつめたく一瞥する至恩。
ちょこちょこやってきたレイゼルが、至恩の隣に座り、亜門を威嚇する。
「あ、そうだ。おっさ……店長、ちょっと」
「あん?」
番犬ならぬ番猫のようなレイゼルを見て思い出し、コウは、亜門に耳打ちをした。
そして、目を丸くして数秒後、亜門は腹を抱えて哄笑した。
「いやいやいや、それはないだろ! おい、志恩、ちょっと来い」
「なんですか。金は貸しませんよ」
「えっダメなの? じゃなくて、逃げるな逃げるな。あのな、コウのバカがお前になんか言っただろう。隠し子とかなんとか」
「…………はい」
逃げかけた首根っこを引っ掴まれて志恩が頷くと、亜門はふたたび爆笑し、レイゼルは変な顔をした。
「かくしご?」
「ああ、いや、嬢ちゃんは知らなくていい言葉だ。大人の話だから、お耳塞いどこうな。……それで、志恩。断言しとくが、その可能性は万に一つも無いから安心しろ」
「……ほんとに?」
「ねーよ。確かにロウエルには似てないが、お前の親父からもそんな面白い話は聞いてないしな。似てないっても遠縁ならそんなもんだろ」
「ていうか亜門さんって、母さんのこと知ってんの」
「ん? 言ってなかったか?」
ぽかぽか叩くレイゼルの耳を器用に手で塞ぎながら、亜門が頷く。
レイゼルが涙目で志恩をにらむが、片目をつむり、気がつかないふりをして志恩は言った。
「……母さんって、どんな人だった?」
「んー……胸がデカかったな」
「は……?」
「いや、俺さあ、お前の親父と女の趣味合わないからあんま覚えてないんだよ。で、胸はスゲーでかかった」
「本当に最低オブ最低だなアンタは!!」
「まあまあ聞けって。あとは、そうだな。平坂研究所ってあるだろ。お前らの学校の横の。あそこで働いてたって話だな」
平坂研究所は、学園に併設された施設で、今は廃墟だ。何か怪しい実験をしていたとか、爆発事故があったとか、もっぱら学園の生徒の七不思議ぐらいにしか名前の出ない場所だ。
とはいえ、亜門から引き出せた有益な情報はそれぐらいで、あとはただただ亜門が最低なだけだった。
顔を真っ赤にさせて怒る志恩に、平謝りしたあと、話題を変えるように亜門はしゃがんだ。ジト目で半眼のレイゼルに向き直る。
「なんにせよ、志恩のことよろしくな。嬢ちゃん」
「…………ふけーだよ」
「ふけー?」
わしゃわしゃと頭をなで、何気なく頬に触れた亜門に、レイゼルは不機嫌そうにつぶやく。
そして、ぱたぱたと走り、瑛里奈にぎゅーっと抱きついて隠れた。
フケ、不潔か、なんだ?と濡れたような黒髪をつまんで考えたあと、亜門は目を見開いて、とりあえず手短にいたコウの肩を叩いた。
何すんだこのおっさんと迷惑そうに眉を寄せるコウに顔を寄せて、くつくつと低く笑う。
「なあ、コウ。嬢ちゃんに嫌われたと思うか?」
「そりゃそうだろ。明らかに逃げたし」
「そうか。残念だな。将来、俺好みの美人になりそうなんだが」
心底、残念だと楽しそうに言う亜門から、レイゼルを庇いつつ瑛里奈がじりじりと距離をとる。
完全に敵認定を受けたその様子を眺めながらコウを離し、亜門は次に志恩を捕まえた。
無理やり肩を組み、すこぶる嫌そうな志恩に、小声でささやく。
「で、なんで突然、母親が気になったんだ。恋しくなったか?」
「…………違いますけど。色々あったんです」
隣りから漂う煙草臭さに辟易しながら、横を向く志恩。
その首筋にかかる濃紺の髪が、ロウエルと同じだと目を細めたが、そんなことはおくびにもださず、亜門はため息交じりに言った。
「……オジサン、世の中知らないほうがいいこともあると思うんだけどなあ」
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弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
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お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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