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ワールドエンド邂逅編
天然と不良
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朝起きたら指輪が消えていた。
だから、昨夜のことは夢だと思うことにした。
/*/
異様に重い身体を引きずって朝のシャワーを浴びたあと、ゴミを捨てた。
肩の焼け焦げたパーカーもひしゃげた卵パックも、汚れた買い物袋も、昨夜の証拠を何もかもを全部燃えるゴミに詰めた。
これで、昨夜の出来事を現実だと肯定するものはもうなにもない。
ゴミ捨ての帰りに郵便受けから取ってきた新聞を読みながら、至恩はうなずいた。
いくら身体の節々が痛んだとしても、今日の朝刊や、テレビのニュースに大量殺人事件や女性の殺傷事件など物騒なものは流れていない。
数年前から増えた行方不明事件の報道ニュースをぼんやりと眺める。そこに平坂の文字は一つもない。
すべて夢だったのだ。
夢のはずだ。胸やけするほどバターを乗せたトーストをかじり、コーヒーを最後の一滴まで飲み切ったあと、至恩は結論を出した。
夢だ。何もかも夢なら──それより至恩には優先的に倒さねばならない現実の敵がある。
具体的には、学校に行かねばならない。
歯を磨いて、丁寧にハンガーにかけた学ランに袖をとおし、ソファに投げ出していたカバンを掴んだ。弁当は、作る気にならなかったから買い置きの菓子パンをひっつかんで、家を出た。
いってきます、は言ったことがない。この家には至恩一人しか住んでいなかった。
/*/
「あ、至恩、おはようございます」
「おはよ。瑛里奈」
いつも通り席につくと、隣りから眠そうな声がする。あくびをして、子供のように目をこすっている女生徒──御供瑛里奈に、挨拶を返し、席に座る。
ホームルームのチャイムが鳴るまであと五分はある。皆勤賞を狙っているわけではないが、内申は下げたくない。
リュックのジッパーを下げ、分厚い教科書群を机にしまう。昨日は予習する気力も体力もなかったから、一限の小テストは酷そうだなと遠い目をする。
いや、学校のテストを心配できることが、平和なのかもしれない。昨夜の光景を振り払うように、至恩は頭を振った。
「志恩?」
不意にくいくいと学ランの裾をひっぱられて振り向くと、瑛里奈がいぶかしげに眉をしかめている。
つやつやの黒髪を揺らして至恩をのぞきこんだのは、おでこが見えるほど短くしたショートカットの、小学生からの幼馴染だ。
ボーイッシュな外見に反して性格は天然、声は甘く、敬語まじり。
そのギャップが良いと話す同級生もいるが、至恩は小学生から見ているから、いまいちピンとこない。かわいいとは思うが。
「至恩、なんだか顔が真っ白ですよ?」
「そうかな?」
「そうですよ。ああもうほら、紙みたいな顔して」
「いやそれどういう意味」
「具合が悪そうってことがいいたいんです!」
隣の席から椅子を寄せて、瑛里奈がのぞき込んでくる。涙目になった濃いブルーの瞳におののいて、至恩は目をそらした。
「大丈夫だから。いや、ほんと大丈夫だから」
「だったら心配なんかしてません!」
なるほど確かにと思う至恩。正論だ。
それはそれとして、瑛里奈の言葉が本当かどうかはわからなかった。瑛里奈が近すぎて、のけぞり、目をそらすのに必死だった。
なにせ、息のかかるような距離に、瑛里奈のちいさな鼻先がある。
「ほら、見てください!」
大きな瞳と吐息から目をそらしたり椅子から落ちそうになったり机を掴んだりしていると、不意に目の前に自分の顔が現れた。
瑛里奈の手鏡だ。確かに、青いを通り越して白い顔をしている、と至恩は思う。死人のような色だ。
血の気の失せた皮膚の中で、緑の瞳だけが異様に輝いていて気持ちが悪い。
「保健室行きましょ、至恩。死んじゃいますよ」
「い・か・な・い。あとそんぐらいで死なないから」
突きつけられた鏡をおろして言うと、瑛里奈があからさまに拗ねた。心配してるのに、とそっぽを向く。さらさらの黒髪から、真っ白いうなじが見えた。
実際、保健室の女医が心底苦手で行きたくないだけなのだが、そんなことを言うと子供ぽいかと思って、志恩も頬杖をつく。
あの色情狂保険医の巣に一人でいくのは、危なすぎる。いや、瑛里奈がいるほうがもっと危ないかと思うところもある。用心に越したことはない。
「うわ、白い。けど、なんでもないって。……たぶん」
「ほらー! ぜんぜんダメじゃないですか!」
「ダメじゃないって。どうせただの貧血だよ」
「そんなこと言って! 至恩の頭がもっと悪くなったらどうするんですか!」
「いやその言い方どうなの?!」
何気に、もといかなり失礼だな!と至恩が大声を出した瞬間、
「お前たち。ホームルーム始まってるぞ」
「痛ッ!」
「あら、先生!」
ゴン、と鋭い衝撃と痛みが電流のように後頭部へ落ちてきて、至恩はうめいた。具体的には、机につぶれた。
瑛里奈の声で、相手が誰かはわかる。頭を押さえながら、のろのろと振り返ると、スーツを着た男が、凶器である出席簿を肩に置いてため息をついていた。
「ちと……月守、先生、オハヨウゴザイマス」
「あー至恩。朝から元気だな?」
なにか言いかけて口を開け、周りのクラスメイトの好奇の視線にようやく気づいて、至恩は罰が悪そうに居住まいを正した。
色素の薄い髪の男が、教壇に向かっていく後ろ姿を、拗ねたように眺める。
くすくす笑いが、ようやく静かになる。開けられた窓から風が吹き、カーテンがはためいている。月守が出席をとる声だけが教室に響き、至恩は瑛里奈に見つからないように、ひっそりとため息をついた。
これで、やっといつもの、昨日までと同じ日々だ。
目を閉じると、女の微笑みがまぶたに焼き付いて離れない。
だから、本当は一睡もしていなかった。
/*/
屋上は、今日も平和だった。
朝からふらふらで今にも倒れそうな至恩を見かねて、保健室に行かせようと世話を焼く瑛里奈をどうにか巻いて、至恩は屋上のさびたドアを叩いた。
空はよく晴れて、夏の匂いがする。アスファルトのこもったような、それでいて青草の混じったなまぬるい風が吹くようになると、夏が近いのだと思う。
陽だまりはコンクリートが熱されて人の居る場所じゃない。
だから屋上のタンクの影を陣取ってごろりと寝ころぶ。青空は澄み渡って、太陽はもう夏の勢いを見せている。
外の空気は偉大だ。どんなに思い悩んでいることも、すこしだけ和らげてくれる。
広い青を眺めていると、なにも考えなくて済む。
クリームメロンパンの封を開けて、かぶりつくと糖分が一気に脳に巡っていく。
――デミ、モノ、ジ。化け物。そして、魔法。魔法のようなもの。
考えなくていい、というのは嘘だ。やはり、考えることは考える。頭から離れない。
多少納得できればと休み時間にスマートフォンで調べた結果、デミ、モノ、ジの三つはギリシャ語だった。
デミはギリシャ語で半分、そして後者は数字の一と二。何かのナンバリングなのかもしれない。
デミタイプ──そういう、名前だった。デミタイプ、プロトタイプ。そう呼ばれた化け物。
あれはやはり、夢だったのだろうか。
確かめようと朝一で様子をみてきたが、駅前は、普段とまったく変わらなかった。
出勤ラッシュの乗客が行きかう駅前ロータリー。朝食や昼飯を買う客があふれるコンビニ。
噴水は勢いよく吹き上がり、壊れたはずのベンチにはいつもどおり老人がぽけっとした顔で座っていた。
折れたはずの木はぴんと天に伸びていて、百舌鳥がチッチッと鳴いていた。
なにもかも夢だったのか。
いや、違う。痛みのない無意識に肩に触れて、至恩は思う。
夢だと思いたいのに夢だと思えなくて、いっそ苛立つほどに、身体はよく覚えていた。
「オイオイオイ、ここが俺のシマだってわかってんのかァ?」
「あっ」
「どけよコラ」
うまくもなさそうに食べていたメロンパンの、最後の一口を押し込んだところで、視界に影がかかった。
寝たまま顔を上げて、数センチ先の姿を見る。逆光だが、そのシルエットだけで誰かは分かる。
ぶっちぎりで校則違反最前線の、やたらと短い学ランに、同じく裾が横に広がったスラックス。
具体的には至恩が生まれる以前にさかのぼるであろう、古典的不良がそこに居た。
「コウちゃんなにしてんの。遅かったじゃん」
「誰がコウ”ちゃん”だコラ。千歳に捕まってたんだよ」
「授業出ればいいだけじゃない?」
「馬鹿野郎。授業なんてダセーもんやってられっか」
「だから留年したんだよ」
起き上がって隣をゆずると、コウが不機嫌そうに座る。
ずけずけと容赦のない至恩に、じろりと、それこそ他生徒であれば震えあがるような視線を向けるが、至恩は意に返さずにオレンジジュースにストローを刺した。ずずず、とすする。
隣からため息と、パンの袋を破る音がした。
――変形制服に、金髪とピアス。授業サボり常習犯に留年。
ついでに喧嘩っ早く停学も一度ではない、とヤンキービンゴがあれば一列開いてしまいそうな幼馴染その二を見上げて、至恩は苦笑いを浮かべた。
コウは親友だった。というか、お前は俺のマブダチで舎弟だからな、とコウに小学生の頃、宣言されたから、そうなんだろうと至恩は勝手に思っている。
至恩にまともな友達はあと瑛里奈ぐらいしかいないが、あまり気にしてはいない。学校行事ではハブられない程度に仲間に入れてもらえるし、不便はしていなかった。
中学生になっても友達が増えない理由が、この平坂きっての不良とつるんでいるからだということに至恩も薄々気がついていたが、それで友達をやめようとは微塵も考えなかった。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
不機嫌そうなコウ。パンをかじる横顔を眺めて思い出すのは、ずいぶん昔の話だ。
──人間は、少数異端を好まない生き物だと気づいたとき、至恩はまだ学校に入る前だった。
日本人離れした顔立ち、青みがかったブルネットに緑の瞳、そして生まれながらの父子家庭。
そのうえで保護者である父親が家に不在がちなこともあり、至恩は昔から一人だった。
それを外野から眺めた第三者からの、身勝手な推測や噂、ぶしつけな視線にも、子供のころからすでに慣れてしまった。
コウと瑛里奈だけは、そんなことは大した問題でもないと一切気にせずに至恩と友達になった。
それが、この世で一番大切なことだと、夏風に吹かれる横の金髪を眺めながら、思う。
毎日の儀式のように、一緒に飯食うのはもっとマシなダチにしろよ、とコウにつつかれるが、今日もそれを聞き流して至恩はすこしだけ笑った。
「そいや、あのドベスケがお前のこと探してたぜ」
「ド……あー、瑛里奈か。なんて?」
「至恩が死にそうなのに逃げたなんだってメソメソしやがって。ウザってーのなんのって」
「ああー……」
罪悪感にすこし胸が痛む。いや、死なないから逃げたのだが、複雑な気持ちになる。可哀想なことをしたかも、と反省する。
難しい顔でストローをすすっていると、コウが飲み終わった牛乳をつぶした。背が低いことを気にしているらしいが、口に出したら校舎裏案件なので言ったことはない。
「気にすんなよ。第一、死にそうなヤツが学校なんか来るかっての」
そう言いながらコウが、胸ポケットの小箱から細長いものを取り出して、くわえる。煙草かと思いきや、シガレットチョコだった。雰囲気を味わっているらしい。
真面目なんだか不良なんだかよくわからない、というのが至恩の見解だった。
「つーか、何でそんな騒いでんだ。あのドベスケ」
「あーいや、たぶん、俺が寝てないせいだと思う」
「はぁン?」
そんなことで、という顔で細い目を見開くコウ。
至恩もまったく同意見だったので、深くうなずいた。
「なんていうか……嫌な夢を見たんだよね」
「……夢?」
瑛里奈に話せば更なる心配を呼ぶだろうが、コウならばそんなこともないだろう。
悪い夢は人に話すといいらしい。そんなことを昔聞いたな、と思い出しながら、至恩は口を開いた。
「うん。すごいリアルな夢でさ……駅前に、変な化け物がいてさ。それで、そいつが大量に人を食ってて、あたり一面血だらけで。デミとかなんとかっていう名前の化け物で。襲われて、殺されそうになって、でも女の人が、あの人が俺のかわりに──」
「至恩、やめろ」
一度口火を切れば、止まらなかった。必死に溜め込んでいたものがあふれて、胃が締め付けられて吐き気がする。
コウの顔が、こわばる。ただでさえ険のある顔にしわが寄り、茶色の瞳孔がきゅっとすぼまる。
その表情に、どこか見覚えがあると至恩は記憶を探り出して、思い出にピントを合わせるようにゆっくりとまばたきをした。
「ただの夢だ。忘れろ。で、今日は真っ直ぐ帰ってはやく寝ろ。いいな」
それは幼いころ、同級生に笑いながら教科書を捨てられ、服を切られた至恩を見つけた瞬間の、コウの顔だ。
そのときと、同じ顔をしている。怒っている。
「コウ、ちゃん」
今まで聞いたことがないほどドスのきいた声に、洪水のようにあふれだした恐怖が、ぴたりとせき止められた。
有無を言わさない表情で言われ、よくわからず頷く至恩に、コウは少しだけ口の端で笑った。
それから、ひ弱なんだからちゃんと栄養とっとけ、と食いかけのコロッケパンをぶっきらぼうに押し付けられた。
だから、昨夜のことは夢だと思うことにした。
/*/
異様に重い身体を引きずって朝のシャワーを浴びたあと、ゴミを捨てた。
肩の焼け焦げたパーカーもひしゃげた卵パックも、汚れた買い物袋も、昨夜の証拠を何もかもを全部燃えるゴミに詰めた。
これで、昨夜の出来事を現実だと肯定するものはもうなにもない。
ゴミ捨ての帰りに郵便受けから取ってきた新聞を読みながら、至恩はうなずいた。
いくら身体の節々が痛んだとしても、今日の朝刊や、テレビのニュースに大量殺人事件や女性の殺傷事件など物騒なものは流れていない。
数年前から増えた行方不明事件の報道ニュースをぼんやりと眺める。そこに平坂の文字は一つもない。
すべて夢だったのだ。
夢のはずだ。胸やけするほどバターを乗せたトーストをかじり、コーヒーを最後の一滴まで飲み切ったあと、至恩は結論を出した。
夢だ。何もかも夢なら──それより至恩には優先的に倒さねばならない現実の敵がある。
具体的には、学校に行かねばならない。
歯を磨いて、丁寧にハンガーにかけた学ランに袖をとおし、ソファに投げ出していたカバンを掴んだ。弁当は、作る気にならなかったから買い置きの菓子パンをひっつかんで、家を出た。
いってきます、は言ったことがない。この家には至恩一人しか住んでいなかった。
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「あ、至恩、おはようございます」
「おはよ。瑛里奈」
いつも通り席につくと、隣りから眠そうな声がする。あくびをして、子供のように目をこすっている女生徒──御供瑛里奈に、挨拶を返し、席に座る。
ホームルームのチャイムが鳴るまであと五分はある。皆勤賞を狙っているわけではないが、内申は下げたくない。
リュックのジッパーを下げ、分厚い教科書群を机にしまう。昨日は予習する気力も体力もなかったから、一限の小テストは酷そうだなと遠い目をする。
いや、学校のテストを心配できることが、平和なのかもしれない。昨夜の光景を振り払うように、至恩は頭を振った。
「志恩?」
不意にくいくいと学ランの裾をひっぱられて振り向くと、瑛里奈がいぶかしげに眉をしかめている。
つやつやの黒髪を揺らして至恩をのぞきこんだのは、おでこが見えるほど短くしたショートカットの、小学生からの幼馴染だ。
ボーイッシュな外見に反して性格は天然、声は甘く、敬語まじり。
そのギャップが良いと話す同級生もいるが、至恩は小学生から見ているから、いまいちピンとこない。かわいいとは思うが。
「至恩、なんだか顔が真っ白ですよ?」
「そうかな?」
「そうですよ。ああもうほら、紙みたいな顔して」
「いやそれどういう意味」
「具合が悪そうってことがいいたいんです!」
隣の席から椅子を寄せて、瑛里奈がのぞき込んでくる。涙目になった濃いブルーの瞳におののいて、至恩は目をそらした。
「大丈夫だから。いや、ほんと大丈夫だから」
「だったら心配なんかしてません!」
なるほど確かにと思う至恩。正論だ。
それはそれとして、瑛里奈の言葉が本当かどうかはわからなかった。瑛里奈が近すぎて、のけぞり、目をそらすのに必死だった。
なにせ、息のかかるような距離に、瑛里奈のちいさな鼻先がある。
「ほら、見てください!」
大きな瞳と吐息から目をそらしたり椅子から落ちそうになったり机を掴んだりしていると、不意に目の前に自分の顔が現れた。
瑛里奈の手鏡だ。確かに、青いを通り越して白い顔をしている、と至恩は思う。死人のような色だ。
血の気の失せた皮膚の中で、緑の瞳だけが異様に輝いていて気持ちが悪い。
「保健室行きましょ、至恩。死んじゃいますよ」
「い・か・な・い。あとそんぐらいで死なないから」
突きつけられた鏡をおろして言うと、瑛里奈があからさまに拗ねた。心配してるのに、とそっぽを向く。さらさらの黒髪から、真っ白いうなじが見えた。
実際、保健室の女医が心底苦手で行きたくないだけなのだが、そんなことを言うと子供ぽいかと思って、志恩も頬杖をつく。
あの色情狂保険医の巣に一人でいくのは、危なすぎる。いや、瑛里奈がいるほうがもっと危ないかと思うところもある。用心に越したことはない。
「うわ、白い。けど、なんでもないって。……たぶん」
「ほらー! ぜんぜんダメじゃないですか!」
「ダメじゃないって。どうせただの貧血だよ」
「そんなこと言って! 至恩の頭がもっと悪くなったらどうするんですか!」
「いやその言い方どうなの?!」
何気に、もといかなり失礼だな!と至恩が大声を出した瞬間、
「お前たち。ホームルーム始まってるぞ」
「痛ッ!」
「あら、先生!」
ゴン、と鋭い衝撃と痛みが電流のように後頭部へ落ちてきて、至恩はうめいた。具体的には、机につぶれた。
瑛里奈の声で、相手が誰かはわかる。頭を押さえながら、のろのろと振り返ると、スーツを着た男が、凶器である出席簿を肩に置いてため息をついていた。
「ちと……月守、先生、オハヨウゴザイマス」
「あー至恩。朝から元気だな?」
なにか言いかけて口を開け、周りのクラスメイトの好奇の視線にようやく気づいて、至恩は罰が悪そうに居住まいを正した。
色素の薄い髪の男が、教壇に向かっていく後ろ姿を、拗ねたように眺める。
くすくす笑いが、ようやく静かになる。開けられた窓から風が吹き、カーテンがはためいている。月守が出席をとる声だけが教室に響き、至恩は瑛里奈に見つからないように、ひっそりとため息をついた。
これで、やっといつもの、昨日までと同じ日々だ。
目を閉じると、女の微笑みがまぶたに焼き付いて離れない。
だから、本当は一睡もしていなかった。
/*/
屋上は、今日も平和だった。
朝からふらふらで今にも倒れそうな至恩を見かねて、保健室に行かせようと世話を焼く瑛里奈をどうにか巻いて、至恩は屋上のさびたドアを叩いた。
空はよく晴れて、夏の匂いがする。アスファルトのこもったような、それでいて青草の混じったなまぬるい風が吹くようになると、夏が近いのだと思う。
陽だまりはコンクリートが熱されて人の居る場所じゃない。
だから屋上のタンクの影を陣取ってごろりと寝ころぶ。青空は澄み渡って、太陽はもう夏の勢いを見せている。
外の空気は偉大だ。どんなに思い悩んでいることも、すこしだけ和らげてくれる。
広い青を眺めていると、なにも考えなくて済む。
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――デミ、モノ、ジ。化け物。そして、魔法。魔法のようなもの。
考えなくていい、というのは嘘だ。やはり、考えることは考える。頭から離れない。
多少納得できればと休み時間にスマートフォンで調べた結果、デミ、モノ、ジの三つはギリシャ語だった。
デミはギリシャ語で半分、そして後者は数字の一と二。何かのナンバリングなのかもしれない。
デミタイプ──そういう、名前だった。デミタイプ、プロトタイプ。そう呼ばれた化け物。
あれはやはり、夢だったのだろうか。
確かめようと朝一で様子をみてきたが、駅前は、普段とまったく変わらなかった。
出勤ラッシュの乗客が行きかう駅前ロータリー。朝食や昼飯を買う客があふれるコンビニ。
噴水は勢いよく吹き上がり、壊れたはずのベンチにはいつもどおり老人がぽけっとした顔で座っていた。
折れたはずの木はぴんと天に伸びていて、百舌鳥がチッチッと鳴いていた。
なにもかも夢だったのか。
いや、違う。痛みのない無意識に肩に触れて、至恩は思う。
夢だと思いたいのに夢だと思えなくて、いっそ苛立つほどに、身体はよく覚えていた。
「オイオイオイ、ここが俺のシマだってわかってんのかァ?」
「あっ」
「どけよコラ」
うまくもなさそうに食べていたメロンパンの、最後の一口を押し込んだところで、視界に影がかかった。
寝たまま顔を上げて、数センチ先の姿を見る。逆光だが、そのシルエットだけで誰かは分かる。
ぶっちぎりで校則違反最前線の、やたらと短い学ランに、同じく裾が横に広がったスラックス。
具体的には至恩が生まれる以前にさかのぼるであろう、古典的不良がそこに居た。
「コウちゃんなにしてんの。遅かったじゃん」
「誰がコウ”ちゃん”だコラ。千歳に捕まってたんだよ」
「授業出ればいいだけじゃない?」
「馬鹿野郎。授業なんてダセーもんやってられっか」
「だから留年したんだよ」
起き上がって隣をゆずると、コウが不機嫌そうに座る。
ずけずけと容赦のない至恩に、じろりと、それこそ他生徒であれば震えあがるような視線を向けるが、至恩は意に返さずにオレンジジュースにストローを刺した。ずずず、とすする。
隣からため息と、パンの袋を破る音がした。
――変形制服に、金髪とピアス。授業サボり常習犯に留年。
ついでに喧嘩っ早く停学も一度ではない、とヤンキービンゴがあれば一列開いてしまいそうな幼馴染その二を見上げて、至恩は苦笑いを浮かべた。
コウは親友だった。というか、お前は俺のマブダチで舎弟だからな、とコウに小学生の頃、宣言されたから、そうなんだろうと至恩は勝手に思っている。
至恩にまともな友達はあと瑛里奈ぐらいしかいないが、あまり気にしてはいない。学校行事ではハブられない程度に仲間に入れてもらえるし、不便はしていなかった。
中学生になっても友達が増えない理由が、この平坂きっての不良とつるんでいるからだということに至恩も薄々気がついていたが、それで友達をやめようとは微塵も考えなかった。
「なんだよ」
「なんでもないよ」
不機嫌そうなコウ。パンをかじる横顔を眺めて思い出すのは、ずいぶん昔の話だ。
──人間は、少数異端を好まない生き物だと気づいたとき、至恩はまだ学校に入る前だった。
日本人離れした顔立ち、青みがかったブルネットに緑の瞳、そして生まれながらの父子家庭。
そのうえで保護者である父親が家に不在がちなこともあり、至恩は昔から一人だった。
それを外野から眺めた第三者からの、身勝手な推測や噂、ぶしつけな視線にも、子供のころからすでに慣れてしまった。
コウと瑛里奈だけは、そんなことは大した問題でもないと一切気にせずに至恩と友達になった。
それが、この世で一番大切なことだと、夏風に吹かれる横の金髪を眺めながら、思う。
毎日の儀式のように、一緒に飯食うのはもっとマシなダチにしろよ、とコウにつつかれるが、今日もそれを聞き流して至恩はすこしだけ笑った。
「そいや、あのドベスケがお前のこと探してたぜ」
「ド……あー、瑛里奈か。なんて?」
「至恩が死にそうなのに逃げたなんだってメソメソしやがって。ウザってーのなんのって」
「ああー……」
罪悪感にすこし胸が痛む。いや、死なないから逃げたのだが、複雑な気持ちになる。可哀想なことをしたかも、と反省する。
難しい顔でストローをすすっていると、コウが飲み終わった牛乳をつぶした。背が低いことを気にしているらしいが、口に出したら校舎裏案件なので言ったことはない。
「気にすんなよ。第一、死にそうなヤツが学校なんか来るかっての」
そう言いながらコウが、胸ポケットの小箱から細長いものを取り出して、くわえる。煙草かと思いきや、シガレットチョコだった。雰囲気を味わっているらしい。
真面目なんだか不良なんだかよくわからない、というのが至恩の見解だった。
「つーか、何でそんな騒いでんだ。あのドベスケ」
「あーいや、たぶん、俺が寝てないせいだと思う」
「はぁン?」
そんなことで、という顔で細い目を見開くコウ。
至恩もまったく同意見だったので、深くうなずいた。
「なんていうか……嫌な夢を見たんだよね」
「……夢?」
瑛里奈に話せば更なる心配を呼ぶだろうが、コウならばそんなこともないだろう。
悪い夢は人に話すといいらしい。そんなことを昔聞いたな、と思い出しながら、至恩は口を開いた。
「うん。すごいリアルな夢でさ……駅前に、変な化け物がいてさ。それで、そいつが大量に人を食ってて、あたり一面血だらけで。デミとかなんとかっていう名前の化け物で。襲われて、殺されそうになって、でも女の人が、あの人が俺のかわりに──」
「至恩、やめろ」
一度口火を切れば、止まらなかった。必死に溜め込んでいたものがあふれて、胃が締め付けられて吐き気がする。
コウの顔が、こわばる。ただでさえ険のある顔にしわが寄り、茶色の瞳孔がきゅっとすぼまる。
その表情に、どこか見覚えがあると至恩は記憶を探り出して、思い出にピントを合わせるようにゆっくりとまばたきをした。
「ただの夢だ。忘れろ。で、今日は真っ直ぐ帰ってはやく寝ろ。いいな」
それは幼いころ、同級生に笑いながら教科書を捨てられ、服を切られた至恩を見つけた瞬間の、コウの顔だ。
そのときと、同じ顔をしている。怒っている。
「コウ、ちゃん」
今まで聞いたことがないほどドスのきいた声に、洪水のようにあふれだした恐怖が、ぴたりとせき止められた。
有無を言わさない表情で言われ、よくわからず頷く至恩に、コウは少しだけ口の端で笑った。
それから、ひ弱なんだからちゃんと栄養とっとけ、と食いかけのコロッケパンをぶっきらぼうに押し付けられた。
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