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087 お爺さん
しおりを挟むちゃぽちゃぽ、ちゃぽちゃぽ……。
…………こぽぽぽぽ、こぽぽぽぽ。
光が届かなくなった水は、徐々に暗くなり、今では前も後ろもわからないほどに視界を奪われている。ゆっくりと沈んでいく水音と傾いた身体の感覚で、かろうじて上と下が把握できる。
ずぶ濡れで転がされたオレは、ジロウに拘束を解いてもらい、小さな胸を震わせる。どこまで沈むのだろう。どこに向かっているのだろう。
『ピピ、引っ張られるの! どうしよう! シールドが壊れ……る!』
「ええ?!」
慌てて抱き合ったオレ達は、ドカンと強い衝撃をくらい意識を失った。
「すまんのう。坊よ。 身体は動くはずじゃが……」
しわがれた声にしょぼしょぼと目を開けると、そこはじっとりと濡れた木の根っこが張られた暗い広場。ぼんやりと発光しているのは緑の光の粉だ。まるで妖精が放つ魔法のような光に、オレは既視感を覚えた。
「ん……? 妖精の国?」
ジロウがペロリと頬を舐め、コシコシと瞼を擦ると心配そうにソラが鳴いた。
「ほほほ、面白いことを言う坊じゃ。まるで見てきたかのようじゃのぅ。」
白い長い髭を蓄えたお爺さんが、やはり白い煌びやかな貫頭衣を身につけて木の根に持たれて座っている。お爺さんが話すたびに、貫頭衣が銀の光を帯びて輝く。まるで蛇の鱗のようだ。
「うん。見てきたの。オレ、妖精の国に行ったんだ。そうか、ここは妖精の国への転移の魔法陣があるところとそっくりなんだ」
『ちょっとコウタ! 妖精の国ことは秘密なんじゃないの?』
ソラに嗜められて慌てて口を塞いだけど、後の祭り。オレはニカッと笑って誤魔化すことにした。
「よいよい。素直なのはよいことじゃ。こんな老ぼれじゃ。他言はせん。それに、ワシは似たような者じゃ。なぁ、風の次代よ」
『僕はまだ次代じゃないよ。コウタのお供だ。次代だったらここに入れないでしょ? 白龍のお爺さん』
「えぇ?! お爺さん、白龍さんなの?」
『ちょっとコウタ、あなた襲われてここに落ちてきたの忘れたの? 食べられそうになったでしょう?』
ぷんぷんと頬を膨らませて怒るソラを宥めて、不躾にお爺さんを見る。確かにそんな気もしてきた。でも、悪い人じゃなさそう。
「すまんな。こんなところに落としてしもうて。そなたの魔力が心地よくて、つい喰らうてしもうた。情けない。後少しで逝けそうだったのにのう」
「お爺さん、どこかに行こうとしてたの?」
ことりと首を傾げると、ソラが慌ててオレの前に飛び出した。
『ちょっとコウタ! 失礼にも程があるわ。逝くってのはおでかけとは違うの!分からない?』
「……え? 死んじゃうってこと?」
「よいよい。素直な幼子じゃ。気にするでないぞ。 だが、そう言うことじゃ。わしは長く生きすぎた。 そして冥土の土産にいい魔力をいただいた。もう思い残すことはない。さぁ、余力があるうちに送ろう。エンデアベルトの奴らが心配しておるだろうて……」
「どうして? どうして死んじゃうの?」
オレはジロウを乗り越えて老人に向き合った。嫌だ! オレ、誰かが死んじゃうのが怖い。独りぼっちになったときのことを思い出すから。うるうると漆黒の瞳から熱いものが流れ出てくる。
「ふぅ……。言ったろう。世の理じゃ。わしは長く生きすぎた。寿命じゃぞ? 悲しむでない。お前さんとわしは今会ったばかりじゃ。互いに何んも知らん。気にするな」
「気にするよ!」
オレはお爺さんの胸に飛び込んだ。
「お爺さん、エンデアベルトって言ったよ。ディック様のこと、知ってるんでしょう? オレ、ディック様に拾って貰ったんだもの。ね? 繋がりがあるよ。だから死なないで!」
金の瞳を丸くしたお爺さんは、そっとオレの頭を撫でる。しわがれた骨を感じる細い指だ。ポロポロと流れる涙が貫頭衣を煌めかせる。
『世の理って言うけど、白龍、とっくに理を捨てたんでしょう? コウタが泣くなら、死ぬのもやめなよ』
ジロウがオレの涙をぺろぺろと拭いながら言った。
「無茶なことを言う次代じゃ。だが……、少し話そうか? そこの神鳥殿、いざとなったら送れるか?」
『あなたの結界が消えれば……。ここの結界は強くて天界みたい。ワタシだけならいけるけど』
羽を瞬かせて憤るソラに、愉快そうに爺が笑った。
「ふぉふぉふぉ、ならばよいな……。わしが逝けば結界も消えよう。さぁ、坊よ。寒くないか? もっとこちらに……」
細い身体でガシと抱きしめられると、思いの外たくましく安定する。ジロウがプルルと身体を振って飛沫を飛ばし、オレにぎゅっと寄り添って温めようとするので、オレは水を含んで重くなった着ぐるみを脱ぎ、薄いシャツになって再び爺の懐に潜り込んだ。ソラが白い神鳥の姿になってオレたちを包む。みんなの鼓動がどくどくと聞こえ、体温が伝わってくる。オレは爺の顔を見上げてふふと笑った。爺も嬉しそうにふくふくと笑顔を見せる。
「わしはな、水の神獣だった。先代から世界の記憶を引き継いだおかげで、色々と知っておる。その神鳥とも出会った記憶があるぞい。なぁ?」
『ピピ、ピピ』
ソラは不都合な時だけ念話をしてこない。でも、そうだったら、ほら、やっぱり繋がりがあるよ。
遠い目をした神獣は、エンデアベルトに来た時のことを話してくれた。神獣だった時のこと、長き寿命を憂えたこと、エンデアベルトの悲劇と呼ばれる悲しい事件のこと。
「水の神獣の性なのじゃ。人々の暮らしが豊かになれば、それだけ穢れる水が増える。浄化が追いつかんと己の無力さを憂えるてしまうのじゃ。それすらも役目なのじゃがのう。その辛さを次に味わわせとうない……。かと言って……、人々が増えるのは嬉しいことなのじゃよ。厄災から千年。女神の悲願なのだからのぅ……」
オレの髪を優しく撫でて、金の目を細めたお爺さんは嬉しそうで、とても悲しそうだった。そしてお爺さんの胸の辺りに濁った穢れが随分と深く蔓延っているのを感じた。
気づかれないように……。オレは大好きだった山の暮らしやエンデアベルト家に来たときのことを話しながら、こっそり深い深い穢れに魔力を送る。穢れは金の魔力に触れると逃げていく。トクントクン、鼓動に合わせて魔力を送れば逃げた魔力が集まって小さな塊になった。よし! これを外に押し出せば……。
くっ!ぐぐっ!ーーーーーーポロリ。
小さな澱んだ黒い塊が手の平に転がったのを確認し、オレはお爺さんに気付かれないように一生懸命話しをする。オレを抱くお爺さんは小さな人の大きさだけど、本体は巨大な龍。途方もない長い道のりに魔力を流し続け、だんだんと息が切れてきた。でもあと少しなんだ……。
長いおしゃべりで疲れ、そろそろ幼子が眠くなってきたのだろうと目を細めたとき、白龍は自分の身体が随分軽くなっていることに気付いた。驚いて身体を動かすと、くたりとおろされた幼子の手の平から、穢れを固めたような嫌な艶を帯びた小石がボロボロと転がってきた。ジロウが片目を開けて、フンと鼻を鳴らし、不機嫌そうに言った。
『耄碌しすぎだよ、白龍。早く気付かないから、コウタ、くたびれて寝ちゃったよ』
「な……、何を! いや、穢れをか? わしの体内から穢れを抜いたと?! 馬鹿な? そんなことが……?」
『ふふん! コウタは凄いの! 規格外なの! 不思議なこと、いっぱいできるの! すごいでしょ?』
自慢げにソラがピピピッと羽ばたく。
白龍は己の手を見る。しわくちゃな手に筋肉が戻り、薄らと白い魔力を溢れさせている。若返ったわけではないが、確かにその手に力が漲っている。あと数十年は生き続けられるだろう力に愕然とすると、濡れた土の上に横たわる青い顔をしたコウタが目に入る。
「まさか……?!」
身体から溢れるほどの金の魔力が全く感じられない。小さな胸が弱々しく上下することで、かろうじて息があることを確認するも、次第に冷たくなる手に背筋が凍る。魔力切れか? こんな……、こんな老ぼれのために……?
白龍はソラにシールドを纏わせると大きく唸り、その身を捩って結界を貫く。急いで帰さなければ……。わしにできることは無い。幼子を助けなければ……。
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