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005 置かれた場所

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 ふっと目が覚めると、そこは温かなベットの中だった。しょぼしょぼする目と腫れぼったい瞼を擦り、周囲を見回す幼子は、ぼんやりと霞む焦点をゆっくりかち合わせていた。


 大きなベットに柔らかな布団。少し高い窓から、鱗雲と薄い空が見える。小さなテーブルと木製の椅子のセット。品の良いソファー。子供には広すぎる豪華な一室にやや圧倒される。ここは大きなお屋敷の1室。コウタは見知らぬ土地に来たことを悟った。


オレは一人になってしまった。

「命、ひとつあれば生きていけるだけの力はあるはずだ。いいか? 生き残った者は、命あるものの責任を最後まで全うしなければならない。どんな状況でも前を向くんだ」

 別れの際に父が言った言葉が喉の奥に突き刺さる。

ーーーー置かれた場所で精一杯生きる

 ぎゅっと唇に力を込めて、身体を起こし、手、肩、足といつも通りに動くことを確認する。

 屋敷の人たちは優しかった。怖くない

 幼子は物心ついた頃より、いや、類稀なる成長ゆえに親を意識したその時から、運命の日について繰り返し聞かされていた。そして、いつかひとりぼっちで目が覚める可能性も……。どんなに拒絶しても、どんなに恨んでも贖えない運命ならば受け入れなくては。そう考えるだけの訓練も受けてきた。だが、やはり幼子だ。心がついていくはずもなく、空虚に支配された胸のうちに噛み締める歯がゆるゆると震える。



 心許ない思考をプルルと振り払い、高すぎるベットから降りようとすると、華奢な手が伸びて幼子を抱き上げ頬擦りをした。
「わ、わわわ……」
「よくお休みになれましたか? もうすぐお昼ですよ」

 白いエプロンに濃茶のワンピース、ウェーブのかかった柔らかい髪のメイドがニッコリ笑う。朝のメイドと比べると随分若い。うっとりとした目で優しく微笑むと、ふふんふふんと鼻歌まじりにくるりと回って目を合わせる。

「サンと申します。本日はコウタ様のお世話をさせていただきますね」
「えっと……。はい、よろしくお願いします」
 戸惑うコウタが小さく頷くと、サンはそっと抱きおろし、柔らかな手を繋いで、廊下へと誘った。

 朝は随分と緊張していて碌に周囲を見れていなかった幼子は、改めて見回す。そしてどこもかしこも大きいことに驚いた。
 長い廊下の横には扉、扉、扉。扉の反対側には窓。小さな山小屋暮らしだった家とは何もかもが違う。圧巻の景色に好奇心が顔を出す。

 窓から差し込む光につられ、外を見ようとピョンと飛び上がる。うん、空だ。
ピョン! 空だ。 ピョン! ピョン!

 窓の横を通るたびにジャンプをするのを察し、サンはくすりと微笑みながらコウタを抱き上げた。

「うふふふ。外を見たいのですね?おしゃってくださればよろしいのに。」
「あ……、ありがとうござい……ます」

 サンの腕の中から見た外は、山とは随分違った景色で新鮮だ。
 ぐんと開けた空に遠くに霞む塀、黒い森に……。

「ねぇ、遠くの、空じゃない、えっと……青いの、森の間に見えるの……。もしかして海?」
「ええ、そうよ。ずっとずっと海。あの森の先は崖になっているのですけどね。その先の海が見えるのですよ。」

「わぁ、すごい!オレ、山で育ったから海を見るのは初めてなの!凄い、凄い!近くに行ってみたいな!」
「えぇ、お身体がしっかりお元気だと分かったら、旦那様にお願いしましょうね。ここは海沿いの村ですから見るだけだったらすぐ行けますよ」

 幼子らしく大きな瞳を輝かせ、華奢なメイドの肩に頬をつけて足をしばたかせる。メイドはただ嬉しそうに、ふふふと笑みをこぼすのだった。


 食堂は階段を降りて一階にある。領主の椅子の隣には、きちんと子供用の座面が高くなった椅子が置かれていた。使用人達が物置から探し出し、急いで磨き上げたもの。領主の子息が使っていた古いものだが、落ち着いた艶を出し、テーブルの椅子ともきちんと調和が取れている。幼子が自分の椅子だと大喜びで飛び乗るのを確認し、料理番夫婦は扉の向こうで頷きあった。

 
 相変わらず旺盛な食欲は止まることを知らず、好物の肉に無作法に喰らいつく領主は昼食を食べながら、家族のことを話した。
 長男は冒険者で街から街へと冒険者をしていること。次男は王都の学校に行っていて、妻も一緒に行ってしまったこと。今は社交のシーズンで二人は貴族の勤めを果たしているが、冬にはこちらに戻ってくること。貴族はしきたりが面倒くさい、なぁ、そう思わないかと愚痴まで混ざる。
 幼子はカトラリーを操りながら、薄い柔らかな肉を器用に小さく切り、こぼすことなく口に運ぶ。ディックが飛ばした肉汁をそっとクロスで隠し、何も気付かないかったかのように相槌を打つ。幼いながらに紳士な振る舞いをするコウタ。メイドや執事が目を見張る。

 コウタは落ち着いたのか、ふわふわと微笑んで自身のことも話した。

「オレは三歳だけれど、魂の受け皿が大きくて沢山のことが吸収できます。だからディック様の話もきちんと分かります」
 大人気な笑顔を見せるとふわり、金の粒子が弾けたように見えた。やっと笑った幼子に扉や窓から覗いていたメイドや強面の使用人達が頬を赤らめ、安堵の吐息をこぼす。

 コウタは背筋をしっかり伸ばし、領主に向かって世話になりたいと頭を下げた。新しい生活に馴染む決意を、拙い言葉ながらもしっかりと伝える。

ピシリ!
 不意に小さな額に痛みが走る。
「いちゃい!」
 咄嗟のことに舌を噛んだコウタはおでこを押さえながら領主の顔を見る。執事は嫌な顔をして領主を見つめ、メイド達はハッとしてコウタに駆け寄った。

 周囲にただよう殺気にデコピンを放ったディックはふうとため息をついてガシガシともつれた紅茶色の髪をかき混ぜた。

「お前なぁ。三歳だろう? 辛い思いしているチビを俺がどうにかするとでも思ってんのか? お前は自分がしたいように伸び伸びすりゃいいんだよ。 三つのガキが一体、何を考えてるんだ。 いいか、そんなに一生懸命になるな! 三歳なんて飯食って遊んで寝て育つもんだ。 お前はそうやってここにいりゃいいんだ。 分かったか?」

 呆れたように、怒ったように早口で捲し立てたディックは、幼子のサラサラの漆黒を絡まるほどに撫で回すと、乱暴に抱き上げて膝に乗せた。
 腹に回された手にぎゅっと力を感じたコウタはどきりと胸を高鳴らせ、身体をこわばらせる。ディックは微動だにしない柔らかい身体を一層ぎゅっと抱き寄せて、耳に吐息をかけながら、そっと言葉を紡いだ。
「ゆっくりでいいぞ。ちゃんと甘えろ。親のことは忘れなくていい。大事にしろ。だが、ここでの生活も悪くねぇはずだ。」

 コウタは、ぐらりと泣きたくなる気持ちをごくんと呑み込み、正面でゆっくり頷く執事の顔を仰ぎ見る。ついで皿を下げようと手を止めたメイドの瞳にうっすらと水滴を見つけて、慌てて顔を逸らした。唇の端に力を入れてすうと息を吸い、一杯になった胸からそっと吐き出す。
「オレ……、オレ……」
 言葉を続けたくても、出てこない。嬉しい気持ち、ほっとした気持ち。一人ぼっちになった淋しさよりも、ディック達に包まれる優しさを身体全部で受け止める。

 好きになったよって伝えたいのに。オレ、ちゃんと甘えるよって言いたいのに……。


 どうだ、そうだろう?とでも言うように、そっと顔を覗かれた幼子は、言葉に出来ない気持ちを伝えようと精一杯の笑顔で応える。

ーーーーつつっ


 溢れてしまった一筋の涙。せっかく笑顔で返したのに……。しゅんと俯き慌てて瞼を擦れば、頬をわしっとつかまれて顔を固定されてしまった。カクン。大きな顎が頭に乗せられ、低い心地のいい響きが身体中を優しく震わせる。


「そういう所だ。 気を遣うんじゃねぇ。 ガキはガキらしく、あー、泣いいたっていいんだ。気にすんな…………。だがな……、」

 不意に持ち上げられた身体。バタバタと宙を泳ぐ。ストンとテーブルの上に座らされたコウタは、漆黒の瞳を大きく艶めかせて領主と目を合わせた。ニカッと笑った悪い顔に反応できずにハテナを浮かべると、ディックの太い指が脇をこちょこちょと突く。

 きゃきゃと声をあげて身体をよじれば、隙のない素速さでお腹も、ほっぺも、首筋も、身体中、ツンツンこちょこちょ突き回される。

「そうだ、笑え。ガキは何も考えず、馬鹿みたいに笑うもんだ」
「わ、うふふ、笑うから。や、やめて。あははは!くす、くすぐったいから!わかっ、分かったから」

 身体を捻って、のけ反って、身を縮こませても攻撃は交わせない。どうやったって逃げられない太くてしなやかであったかい腕。しつこく、優しく、くすぐったくて、嬉しくって、楽しくって……。

 キャアキャアと笑う幼子とガハハと豪快に笑う領主。行儀が悪いと冷めた目で主人を眺める執事は、大胆にも領主の頬を押さえ顎を蹴飛ばして逃げようともがく幼子に目を細めた。扉の向こうではちっとも可愛くない馬鹿笑いに混ざって、澄んだ鈴の音のように心地よく響く声を受け止めたメイド達の頬が緩んだ。

 父様、母様、オレ、ちゃんとここで頑張る。精一杯、精一杯、……生きるよ!

 父の言葉を胸に秘めたコウタの決意は、柔らかな光に溶けてキラと輝いた。

 
 

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