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2巻
2-1
しおりを挟む王子が不貞を理由に婚約破棄、なんて事をやらかしたせいで、急遽あてがわれた王子妃、つまり未来のお飾り王妃。それが私ことクロエ・ラインハルトに対する世間一般の印象だ。
とはいえ、私自身は王子妃の地位を仕事だと思っているし、見返りとしてずっと前から『推し』だったマルコ・リッチ様に専属騎士になってもらえたし、そこまで悪くないと思っている。書類上の夫である殿下も、色恋以外ではまとも、というかむしろ、恋に恋する時期を過ぎた今はとても優秀だ。何せ新婚旅行という名の慰安旅行に出かける余裕が生まれたほどなんだから。
旅行から帰ってきた翌日、不在中に溜まった仕事を片付ける為に、少し早めに執務室に向かえば、既に部屋にはセドリックの姿があった。
「セドリック様、私達が不在の間、諸々取り仕切ってくださりありがとうございました」
「いいえ。どうでした? 旅行は?」
何となく刺々しい物言いだ。仕事を押し付けられたからかしら?
王子妃と次期宰相としては勝てる気がしないので、早々に幼馴染としての会話に切り替える。
「楽しかったわよ? 途中、随分と悪路な所もあったから、早くあの計画を実行に移さないとね。あと、皆にお土産があるの。休憩の時にでも食べるように言って?」
お菓子の箱を近くのメイドに渡し、もうひとつ箱を取り出す。
「それとこれはセドリック様に。真珠のネクタイピンとカフスよ。カイエン領は真珠の養殖もしているらしいわ」
「仕方ない。これで誤魔化されてあげますよ。しかし、殿下が妃殿下を新婚旅行に連れて行くと言い出した時には、びっくりしました」
「私もよ。いつも頑張ってる私にご褒美かしらね。ところで、ロッテン様は大丈夫だった?」
「一応、報告は上げて貰ってますよ。見ますか?」
旅行中のロッテン様の報告書を見せてもらう。殿下用に作ったものらしい。
「何度か体調を崩してるみたいね。大丈夫なのかしら?」
「多分、仮病でしょう。勉強が嫌で」
「その度にエモニエ様が診察に行ってるみたいね」
「ロッテン子爵令嬢の担当らしいですよ。殿下に頼まれているそうです」
「ふーん」
……殿下はロッテン様とエモニエ様の仲を知らないし、疑った事もないのかしら? まぁ……だから担当に指名してるんでしょうけど。
そのまま私が仕事をしていると、マルコ様が側に来て、小声で私に囁いた。
「ずっと考えていたんですけど……ロートル伯爵令嬢がカイエン領で会っていた男性、思い出しましたよ」
私はそのマルコ様の言葉に、旅行中のある日の出来事を思い出すこととなった。
ナラとマルコ様との三人で街の散策に出かけていた日のことだ。
殿下はカイエン領の領主、カイエン伯爵に誘われ釣りに出掛けていた。私も行きたいと言ったのだが、何故か皆に止められた。最終的に侍女のナラから、「クロエ様は規格外でいらっしゃいますから、釣りでも何でも興味があるでしょうけど、普通の淑女は釣りを嗜みません。今日は大人しく街を散策致しましょう」と言われ、私とナラとマルコ様は別行動となったのだ。
『最近、クロエ様は殿下に心を許しすぎです。殿下にはロッテン子爵令嬢がいらっしゃるのですから、あまり殿下には……』
道中、マルコ様が不機嫌そうにそう言っていたことを覚えている。
『フフッ。大丈夫よ。私は殿下に優しくされたからといって勘違いしないわ。それに仲が悪いより、良い方が仕事もしやすいでしょう? 人間関係で疲れてしまっては、仕事の能率も下がるもの』
『殿下も同じように思って下さっていたら、何の問題もないんですけどね』
私としては、殿下よりもマルコ様と仲良くしているつもりなのだが……
街は祝日という事で賑やかで人通りも多い。私も庶民が着るようなワンピースで、なるべく目立たないようにしているつもりだ。つかず離れずの距離にナラもいるが、隣にマルコ様がいてまるでデートのようなので、私は釣りに行かなくて正解だと思っていた。
街を歩きながら、お店を覗いたり、カフェでお茶したりして束の間の疑似デートを楽しんでいると、少し前を歩く女性に目が止まった。
『ねぇ。あの少し前を歩いているご令嬢、なんだか見覚えない? 町娘に扮してるけど、貴族っぽいし……見たことある気が……』
『あれってロートル伯爵令嬢ではないですか? お忍びって感じですけど』
それって、陛下の護衛であるロイド卿の婚約者の?
私達は少しだけ距離をとりながら、ロートル伯爵令嬢……アリシエ様の後ろを付いていく。彼女もお忍びなのだろう、少し離れた場所に侍女らしい女性がいたのもあって、追いやすかった。
この時点ではただ、なんだかいつもと違う様子のアリシエ様が気になっただけだった。
しかし、私達はその少しの好奇心を持った事を後悔する羽目になる。
お目当ての人物がいたのか、アリシエ様は走り出した。彼のほうもアリシエ様に気づき、走って来たアリシエ様を両手を広げ抱きとめた。そして二人の顔は近づき……口づけを交わしたのだ。
もちろんその男性はロイド卿ではない。ロイド卿は、釣りをする殿下の護衛をしている筈だ。これって浮気……よね? 見てはならないものを見てしまった私達は、アリシエ様に見つかる前にその場を離れたのだった。
マルコ様はあの時の男性が誰だか見当がついたという事なのだろう。
「誰? 私も知ってる人?」
「はい。ですが、もしかしたらクロエ様はあまりお会いになっていないかもしれません。普段は領地から出る方ではありませんでしたし、社交も最低限でしたから夜会も社交シーズンに主要なものだけ参加していたと記憶しています」
「マルコは会ったことがあるのね?」
「はい。ギルバート・ロイド侯爵令息様かと。ジーク・ロイドの兄にあたる方です」
アリシエ様の恋のお相手がロイド卿のお兄様という衝撃的事実。
「ちょっと整理させてね? アリシエ様はロイド卿の婚約者で、ロイド卿はいずれアリシエ様と結婚をしてロートル伯爵に婿入り、いずれはロートル伯爵になる……はず。で、ギルバート様はもちろん次期ロイド侯爵よね?」
「そうなりますね。多分」
「二人は許されざる恋って事よね。お互いが長男、長女でお互い継ぐ家と爵位がある、と」
「ですね」
「でも……どうしてカイエン領で会っていたのかしら?」
ロイド侯爵領もロートル伯爵領も、カイエンからは近からず遠からずの距離だ。
「これは私の推測になりますが、ギルバート殿は湯治に訪れていたのではないですか? ギルバート殿は生まれつき体が丈夫ではないとの事でしたし、可能性としてはあるんじゃないかと」
「湯治……なるほどね。二人共、私や殿下、ましてやロイド卿までがカイエン領に来てるなんて思いもよらなかったでしょうし。なんだか悪かったわ、あんな所を目撃してしまって」
私達も一応お忍び旅行だったので、行先まで知っているのは普段城に勤めている人間と現地の人間だけだったのだ。
「私達に見られたとは気づいていないでしょうけど。でも、二人の恋が叶う事はありませんね」
「政略結婚だから、と割り切れる? ギルバート様からすれば自分の好きな人が弟の奥さんになるのよ? アリシエ様だって義理の兄になるのよ? お互い、目につかない場所に嫁ぐならまだしも。それにロイド卿は噂の通りなら浮気者よ? 別れても二度と会えない方がまだマシな気がするわ」
「……確かに好きな人が別の誰かと結婚して、それがたとえ政略結婚であったとしても、それを目の前で見せられるなんて、嫌な気分でしょうね。なんだか、凄く分かります」
マルコ様がめちゃくちゃ頷いている。もしかして、そんな経験をした事があるのかしら? 騎士はモテるって前にも話してたし。マルコ様の過去、気になるけど知ってしまったら落ち込むこと間違いなしなので、スルーよ、スルー。
「私、今度お茶会を開くつもりなんだけど……アリシエ様を招待してみようかしら?」
「クロエ様。また変な事に首を突っ込まないで下さいね。クロエ様は巻き込まれ体質なので」
……正論過ぎてぐうの音も出ない。
「言っとくけど、好きで巻き込まれている訳ではないのよ? 偶々よ、偶々」
「王太子妃になったのだって、いわば巻き込まれてるんですからね。そもそも」
「……はい。わかってます」
マルコ様が私に厳しい……
夕食時、食堂に姿を見せない殿下を不思議に思い護衛にどうしたのか訊くと、なんだか苦々しい表情で声をひそめて教えてくれた。
「殿下は後宮です。……あの方が、旅行から帰ってきたのに一度も顔を出さない殿下に痺れを切らしまして……」
「なるほど。それは……大変ね」
「こんな事を妃殿下に言うのもおかしな話ですね。それに……ここだけの話なんですが……」
護衛はさらに声量を落として続ける。
「殿下、例のあの方へのお土産を忘れていたようで。急いでライラ妃陛下用に購入したお土産の一つを持って行きました」
まぁ……殿下、大切な事を忘れたのね……
「妃陛下なら、お土産の一つや二つ減ったところで、どうという事もないでしょうけど。ところで、私達が旅行中、何も変わった事はなかったかしら?」
「王太子宮はいつも通りでした。そういえば、庭師がダマスクローズが見頃だと言っていましたよ。妃殿下に見て頂きたいと」
「まぁ! それは楽しみだわ。あの薔薇の香りが好きなのよね。後宮は? 変わりはなかった?」
「そうですね。たまにあの方が体調を崩されていたようですが、特に大事に至るような症状は見られませんでした。しかし……講師の方とは、何度か言い合いを」
これは報告書にあった通りね。もっと荒れるかと思ってたけど、大したことなくて良かったわ。
どうにかして、ロッテン様に側妃を諦めて愛妾になるように意識を変えてもらう事は出来ないのかしらね……。今の勉強すら無駄になると思うと、講師の方に申し訳ないもの。早ければ早い程、傷は浅くて済むのだけど。
そんなことを考えながらの夕食中、結局殿下は現れなかった。
食事と湯浴みを終え、マルコ様のマッサージを受ける。
「マルコのマッサージも久しぶりね。旅行中は我慢してたから」
「仕方ないですよ。ずーっと殿下が一緒でしたからね。ところで、前は、はぐらかされましたけど、殿下が『楽しかった』って言ってた事、あれは何ですか? ちゃんと私に説明して下さるって約束してましたよね?」
「別に大したことじゃないのよ? 殿下が寝付けないと言うから、寝入るまでお話をしていたの」
「お話? どんな?」
「お伽噺……みたいなものかしらね」
「私も聞いてみたいのですけど、ダメですか?」
「別にいいけど、そんな面白くはないわよ?」
「いいんです、私が聞きたいのですから。では、マッサージが終わるまで……いいですか?」
「わかったわ。じゃあ……まずはね。昔、昔、あるところに……」
私は殿下に話したようにマルコ様にも話して聞かせる。
「……何故、桃の中から人間が? 人間が入る程の桃とは、どれぐらいの大きさなんでしょう?」
……やっぱり、殿下と同じような疑問を持つのね。
マルコ様のマッサージを終えて、さて今から休みましょうか……と寝台に向かおうとした時に、廊下の護衛から声がかかった。
「クロエ様、殿下がおみえになりました」
私が頷くと、マリアがドアを開ける。
「クロエ……こんな時間にすまない。少し話をしていいか?」
「もちろんですわ。殿下、お酒でも飲みますか?」
「あ、あぁ。そうだな。少し貰おうか」
「ではすぐに用意させますので、殿下はお座りになってお待ち下さいませ」
私はマリアにお酒を用意させてから、下がらせた。
「どうぞ。で、何かございましたの?」
私は殿下にお酒を差し出しながら、要件を訊く。
殿下は私が渡したお酒を一気に呷って、意を決したように私に向き直った。
「クロエ……良かったら、これから夫婦の寝室を使わないか?」
どういう事? 私、殿下に閨に誘われてる? まさか! ……ね?
「あ! 違う! あの、勘違いしないで欲しい……というか、勘違いではなく……あの……勘違いでもいいんだが、いや、今はそういう意味ではなくて……」
多分、今の殿下の状況を『しどろもどろ』って言うんでしょうね。
私は「殿下、落ち着いて下さいませ」と言いながら自分の為の果実水を殿下に手渡す。殿下はそれも一気に呷った。
「旅行中ずっとクロエと一緒に寝ていただろう? へ、変な意味ではなくて」
「ええ、もちろんわかっておりますわ。文字通り『一緒に寝ていた』だけですもの」
「そう。そうだよな。……で、本題なんだが……昨日久しぶりに一人で寝台で寝ようとしたんだが……なんとなく……寂しくて、な」
殿下は真っ赤になってモジモジしている。
実は私も昨夜、殿下と同じように、ちょっぴり寂しかったのだが、言わないでおこう。
「寂しかった……。なるほど。では、殿下は夫婦の寝室で文字通り私と『一緒に寝よう』と。そういう事を言いたかったという事ですね? 」
「そ、そうなんだ。いい大人が、何を言ってるんだと思われるだろうが……出来れば、旅行の時のように、私と一緒に寝てもらえると、その……嬉しいんだが」
殿下の声はどんどんと小さくなっていく。私に断られると思っているのだろうか。
「わかりました。では、夫婦の寝室でこれからは一緒に寝ましょうか。私は構いませんよ?」
「本当か? クロエ、ありがとう!」
「ふふふ。お礼を言われるような事でもない気がしますが……でも、殿下、一人になりたい時には、無理はなさらないで下さいね」
「あ、ああ。そんな日が来るとは思えないが。クロエもそんな時には遠慮せずに言ってくれ。お互い無理は禁物だ」
「はい。わかりました」
「それと……これからも、寝る前にお伽噺を話してくれるかい?」
「え、ええ。ネタが尽きるまでは大丈夫ですわ」
……殿下ってば、よっぽど昔話が気に入ったのかしら? まるで子どもみたいで可愛い……我が子って年ではないけど、弟がいたらこんな感じかしら……。夫だけど。
「は? 夫婦の寝室を使うと言いましたか? 誰と誰が? 私の聞き間違いではありませんよね?」
マルコ様に、昨日殿下から提案された「夫婦の寝室を使おう!」の話をしてみたのだが、私の貞操を守る事に尽力しているマルコ様にとっては、許しがたい事のようだ。
「マルコ、安心して? 寝室を使うと言っても、ただ一緒に寝るだけだから。同衾するだけ。私の貞操は守られるわ」
「安心できる訳ないじゃないですか! 男は狼なんです。いつ豹変するかわかりませんよ!」
「相手は殿下よ? 大丈夫よ」
「クロエ様が大丈夫だと思う根拠がわかりません。というか、その状況で手を出さない殿下の方が不能ではないかと、逆に心配です」
マルコ様……最近ちょっぴり殿下に辛辣なのよね。私しか聞いてないからいいようなものの。
しかし……この押し問答、いつまで続くのかしら。
「とにかく、もう了承してしまったお話よ? 今さら嫌だと覆す事は難しいわ。もし少しでも危険を感じたらマルコを呼ぶから。夜、そんなに私が心配なら、マルコは寝室の隣の私の部屋で休んでちょうだい。なんなら、私の寝台を使ってくれても構わないから」
「え……っ! クロエ様の寝台を……私が使っても?」
「ええ構わないわ。私が使わなくても、毎日シーツは取り替えられてるから安心でしょう?」
「クロエ様の寝台を使えるのは嬉しい……しかし、殿下との同衾を許すのは……嫌だ」
……マルコ様が何か難しい顔をしてぶつぶつと呟いているわ。聞こえないけど。
「……わかりました。仕方ありませんので殿下との同衾には目を瞑りましょう。……ところでクロエ様、貞操帯って何処に売ってるかご存知ですか?」
熟考していたマルコ様の口から不穏な言葉が出たわ。
……それって、まさか私が着けるんじゃないわよね? ないって言って?
最終的にマルコ様から貞操帯を着けられる事はなかったが、代わりにひとつ提案された。
「少しでも危険だと思ったらこの笛を吹いて下さい。これなら私にも聞こえる筈です。夫婦の寝室とはやけに防音性に優れている物なので」
確かに『うっふん、あっはん』と声が周りに聞こえるのは勘弁して欲しいでしょうしね。私と殿下には必要ない機能だけれど。
……というか、笛でマルコ様を呼ぶの?
「なんだか、犬みたい」
私が手渡された笛をまじまじと見ながら呟くと、
「犬でもなんでも結構です。いや、私は自他共に認めるクロエ様の番犬なので」
と、マルコ様自ら堂々と犬だと宣言してしまった。
そうして仕事を始めればあっという間に時は過ぎるもので、そろそろ殿下が寝室に来てもおかしくない時間になった。私は先に、一人ベッドに横たわる。
『夫婦の寝室の使い方としては間違っているような気がしますが……どうします? 殿下とお休みになる時も、いつもの夜着にします? あれだと……殿下と間違いが起こるかもしれませんよ?』
湯浴み後にナラにそんなことを言われた。いつも着ている夜着は、対マルコ様用だ。少しでも綺麗って思われたくて、ちょっとセクシーな物を選んで着ている。
私とナラの会話が聞こえたマルコ様が、『絶対ダメです!』と口を挟んだため、
『番犬がワンワンと吠えてうるさいので、シンプルな物にしておきましょうね。これなら、殿下も欲情しない筈です』
と、妥当な夜着を用意してくれた。
……ナラも最近、殿下にちょっぴり辛辣だと思うの。そして、ナラからも番犬だと思われるマルコ様って……
先程の出来事を思い出しながら、私はそっと、首から下げた笛を撫でる。出番はないと思うけど。
殿下が来るのを待たなければ、と思いながらも、横になっていると段々と瞼が重たくなってくる。殿下からは、もし遅くなるようなら先に休んでいてもいいと言われているが、殿下は私のお伽噺を楽しみにしてくれているのだ、期待に応えなければなるまい。
……といっても、日本の昔話は大体話し尽くしてしまった。次は洋物に手を出すか……
あの話をしたら殿下なら、『魔法の鏡? せっかくそのような便利な道具があるのに、何故、自分の美醜しか訊ねないのだろう? もっと有意義な使い方があるだろうに』とか、『国の王女が護衛も付けずに城から出るなど……』っていう疑問を持ちそうね。
そんな殿下を想像して私はクスッと笑う。そこでちょうど殿下が寝室へ入ってきた。
「クロエ? 何か楽しい事でもあったのかい? 」
「いえ……少し思い出し笑いを」
殿下はそこまで気にしなかったようで、私の横に滑り込んでくる。
「遅くなってしまったな。クロエは先に寝てしまっただろうと思っていたよ」
「正直に申し上げますと少し瞼が重たくなってきたところでした。殿下もお仕事お疲れ様でした」
殿下を労う。すると殿下は私の方を向いて笑った。
「そうクロエに言って貰えると、疲れも吹っ飛ぶよ」
私達はお互い、向かい合うように横になっている。殿下は私の胸元に光る笛を見て訊ねた。
「その笛は?」
「番犬を呼ぶ笛ですの」
「番犬……あぁリッチの事か」
マルコ様……殿下からも番犬認定されてる。
「クロエ、今日はもう遅い。お伽噺はまた明日にしよう。もう休むといい」
正直、既に眠気が限界の私にはありがたい申し出だ。頷くと、殿下は意を決したように、私の表情を伺い、続ける。
「それで、その……クロエが嫌でなければ……手を繋いで寝てもいいかな?」
……もしかして今、笛を吹くべきかしら?
一瞬そう思ったけど、殿下の表情を見る限り、やましいことはなさそうだ。
「寝ている途中で手を離してしまうと思うのですが、それでもいいですか?」
「もちろん。それじゃあ、クロエおやすみ」
殿下は差し出した私の手を優しく握ると、すぐに寝息を立て始めた。流石に手を繋ぐだけの今回は、笛の出番は無さそうだ。
そうして何事もなく、旅行から帰って十日程が経った。
「クロエ様、来週のお茶会の招待状は配送しておきました」
「ありがとう。お菓子とお茶はこれを用意するよう手配しておいてね」
報告に来た私付きの事務官に、私が書いたリストを渡す。そんな私の後ろから、マルコ様が声をかけてきた。
「結局、例のあの方をご招待したんですね」
マルコ様の目線の先には、机の上の招待客リストがある。
「そうね。だってお話してみたいじゃない?」
「余計な事には首を突っ込まない方がいいですよ? と私は忠告しましたからね」
「わかってるってば。どんな方なのか、少し興味があるだけよ。それに殿下の側近の婚約者なら、私が仲良くしたって問題ないでしょう?」
そう、お茶会にアリシエ様を招待してみたのだ。マルコ様はとっても苦々しい顔をしているが。
もうひとつの懸念点であるロッテン様の話はあまり聞こえてこないが、最近は意外と真面目に勉強に取り組んでいるという噂だ。
「殿下から、かなりきつく言われたようですよ。約束を守らなければ、自分も約束を守るつもりはないと。それを言われて、かなり怒っていらっしゃったようですがね。それに、どうもクロエ様と殿下が旅行に行った事で、ロッテン子爵令嬢も焦りがあるみたいでした。何度も『話が違う』と文句を言っているようですが、自分が勉強しなければ事態が変わらないと分かったのでしょうかね」
ナラが独自のネットワークを駆使して情報をゲットしてきてくれた。
まぁ……ロッテン様が大人しくしてくれている事は、私にとって好都合なので色々言うのはやめておこうと思う。触らぬ神に祟りなし。
そんな日々を過ごしているうちに、お茶会の日がやって来た。
今回のお茶会は、殿下の側妃探しの為ではない。
私に有益になりそうなご令嬢や御夫人方との繋がりを深める事が目的だ。
「皆様、今日はようこそお出で下さいました。楽しんでいって下さいね」
私の挨拶が終われば、招待客は思い思いの話に花を咲かせる。
「妃殿下、今日のドレス……もしやマダム・シラーのデザインじゃございませんか?」
「あら、その通りですわ。まだ無名に近い方ですのによくご存知で」
「マダム・シラー? 私、存じ上げておりませんわ」
「マダム・シラーは私の知り合いの商会が育てたデザイナーですの。まだまだ新人なのですが、とても洗練されている上に動きやすさまで考えられているので、私、気に入っていますのよ」
まぁ、知り合いの商会……ではなく私の商会だけれども。
シラーは、私の商会の職業訓練を受けた平民の女性だけれど、とても才能があったので、私がパトロンになって、ドレスショップをオープンさせたのよね。こうやって、私が着れば宣伝になるし、一石二鳥ね。
「とても妃殿下にお似合いですわ」
ニッコリ微笑んだのは、アリシエ様だ。
アリシエ様は私の中で、大人しくて少し自信の無さそうなイメージ。
今日のドレスも質は良いけど、なんだか……地味なのよね。若い娘にしては落ち着いているというか、老けているというか。華やかさがまるでない。化粧も超ナチュラルメイクだ。
でも今私に向けた微笑みは、大抵の殿方がノックアウトされるのではないかと思う程、可愛らしかった。まじまじと顔を見るのは初めてだが……かなりの美形だという事はわかる。
「ありがとう、アリシエ様。……アリシエさんとお呼びしてもよろしいかしら?」
「はい。もちろんです妃殿下」
「貴女……とても綺麗な髪ね。香油は何を使ってらっしゃるの?」
……私は当たり障りのない会話から入る事にした。
アリシエ様は使ってる香油や、髪を綺麗に保つコツなどを、私に丁寧に答えてくれる。
イメージでは少しオドオドした感じかと思っていたけど、全然そんな事はないわね。とても頭も良さそうだし、マナーも素晴らしい。なんであんなイメージがあったのかしら?
「アリシエさんは、あまり化粧は好まないの?」
そんなことを考えながら、少し核心に触れてみる。
すると、アリシエ様は少し困ったように眉を下げた。
「はい……私、あまり化粧映えしなくて……」
「あら? そうかしら?」
「アリシエ様なら、少し華やかな化粧も似合いそうですわ」
そんなことない、という意味を込めて首を傾げれば、察してくれた他の夫人達が頷き合う。
「そうでしょうか? 今度試してみますわ」
……うーん。社交辞令。
「では今度私に化粧させて下さらない? アリシエさんみたいに可愛らしいご令嬢を着飾らせてみたいの!」
「そんな! 妃殿下にそんな事させられませんわ! それに、私なんて」
私が無邪気に言えば、途端に恐縮する。
私なんて、ねぇ。
それって……いつも誰かに言われてるのかしら? そういえば、ご婦人しかいない場でアリシエ様と会ったのは初めてね、いつもは……
目の前の女性と今までのイメージのずれの原因を考えながら話を広げていると、殿下がロイド卿を伴ってお茶会に顔を出した。
「クロエ! 楽しんでいるかな? 今日も少し邪魔しに来てしまったよ」
殿下の登場に参加者が色めき立つ。
すると、殿下の後ろに控えていたロイド卿が目を見開き、声を上げた。
「アリシエ! どうして君が!?」
……私も少しびっくりした。ロイド卿の顔色が変わるところなんて、初めて見たかもしれない。
私の向かいに座るアリシエ様は、ロイド卿の声に肩をピクリと跳ねさせた。そして俯いて、黙りこむ。
おどおどとした姿にさっきまでのアリシエ様の面影はなく、今、私の目の前にいるのは、今まで思い描いていたイメージそのままのアリシエ様だ。
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「アリシエ、今すぐ帰るんだ」
挙句、アリシエ様の腕を掴んで立たせようとする。
ロイド卿の力が強いのだろう。アリシエ様は痛そうに顔を歪めるも、唇を噛みしめて堪えていた。
私はロイド卿の振る舞いに、怒りを押さえて声をかける。
「ロイド卿、アリシエさんの手を離しなさい! これは命令です!」
しかし、ロイド卿は手こそ離したものの、詰問するような口調を抑えもしない。
「アリシエ、立つんだ。伯爵家の馬車は? 待機させているんだろ? なら今すぐに屋敷に戻れ」
アリシエ様をこの場から、すぐにでも連れ出してしまいそうな勢いだ。
殿下もその姿を見て、困惑した様子だ。
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