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1巻
1-3
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「あれ、なんでしょうかね?」
自室に戻った私に、不快感を隠しもせずにお茶を用意しながらプリプリ怒っているのはナラだ。
私はナラのこういった気さくな感じを気に入っている。肝っ玉母さんといった風貌のナラは元伯爵夫人だ。
離縁をした女性というのがとにかく暮らしにくいこの国。実家に戻る事も叶わず、離縁されたとして傷物扱い。身を立てる為に職業夫人を目指す者も少なくないが、なかなか仕事を見つけるのも難しい。前世の私のように離婚、即実家へ戻るなんて事は不可能だ。女性に優しくない世界だなとつくづく思う。
「本当に……私にはよくわからない生き物だわ」
「殿下はあんな女のどこが良かったんでしょう?」
あんな女かぁ……私の前では良いけど、気を付けてね?
「殿方の好みはわからないけれど……ああいった女性が好きな方も少なからずいるのではないかしら?」
「私はあんな女、好みではありません!」
……何故かマルコ様が話に割って入った。
この一週間で私は少しずつ侍従との距離を掴めてきた。
そして、嬉しい事にマルコ様は、護衛をしながらも、私に何か困っていることはないか、退屈してはいないかとよく声をかけてくれるタイプだ。主だから仕方なくって事は多分ない……はず。
「あら? ああいった守ってあげたくなる感じの女性……騎士なら心惹かれるのではなくて?」
この話の流れで、マルコ様の好みの女性が訊けないかしら? もし好みがわかれば、侍女選びの参考にもなるし、なんなら私自身がそれに寄せてみせるわ!
「いえ。私はああいった媚を売るような女性は好きではありません」
「そう。では……マルコはどういった女性が好みなのかしら?」
……よし! 訊けた! 不自然じゃなかったよね? 自然に訊けたよね? 鼻の穴膨らんでなかったわよね?
「私の好みなど……」
え、赤くなって俯いた顔も可愛いんだけど? 何? 私を悶え殺す気?
「あら? 内緒なの? 私、口は堅いのよ?」
「で、でも、私は……」
うーん。これ以上しつこくしたら嫌われそう。
「わかったわ。意地悪するつもりはないのよ?」
「は、はい」
モジモジしてるマルコ様、超絶可愛い!
……でも、あの恥ずかしがり方……もしや意中の人が居るのでは? 私はそう思い当たると、鉛を飲み込んだように心が重くなっていった。
第二章
夕食の時間になり、侍女が私を呼びに来たが、その時に私は意外な人物の来訪を告げられた。
「殿下が?」
「はい。今日はクロエ様と夕食をご一緒すると」
私が王太子宮に来て一週間。殿下がこの宮の部屋を使っている形跡はない。
従者の話によると、朝、昼は王宮で執務をし、夕食は離宮でロッテン子爵令嬢と、そして夜はまた王宮の自室に戻っているとの事だ。
……まぁ、昼間の件で話がある事は容易に想像が出来る。
もしや『愛しのセリーナを苛めたな! 婚約破棄だ!』なんて言われるのかしら? でも、私と婚約破棄したら、もう相手は居ないけど。
食堂へ行くと、すでに殿下が座っていた。私は殿下に遅れた事を謝罪し、殿下から一番遠くの席に着く。向かい合わせではあるが私達の間には無駄に長い食卓がある。二人の心の距離をよく表していると思う。
「いや、急に来たのだ。気にしなくて良い。じゃあ、食事にしよう」
殿下が言うとすぐに給仕達が動き始めた。
……静かだ。ただ、ただ食事をしてるだけ……もう食事も終わるのだけど、用件は?
「殿下。お訊ねしても?」
「あ、ああ。何だ?」
何だ? って何だ?
「いえ。お話があったのではと思いまして」
「その……今日はセリーナが申し訳なかった」
……何について謝ってるの?
「私がロッテン子爵令嬢と顔を合わせる事がないように配慮していただける……その事についてでしょうか?」
「もちろんその事もあるが……セリーナの発言もだ」
ちゃんと、周りの人間に話を聞いたようね。
「私への発言については、気にしておりません。私がお飾りの王太子妃になる事は事実ですから。ただ、彼女は今回の件で、もう少しご自分の責任を考えるべきだと私は思います」
「責任?」
「はい。殿下はご自分の責任を感じていらっしゃるようですけれども、彼女はどうでしょうか」
「今回の事は私がセリーナを愛してしまったからで、彼女には何の責もない」
殿下のこの態度が、彼女の言動がああなった一因でしょうね。
「殿下の不貞。これは紛れもない殿下の責任です。しかし婚約者がいる殿方に、たとえ下心がなかったとしても不用意に近づく事は、貴族の子女とすればあるまじき行為です」
「しかし、セリーナはまだ教育をしっかりと受けてなくて……」
「ならば、学園に来るべきではありませんでした。ましてや王族が在籍する学園に。学園に通う事は任意であって義務ではございません。今回の行為を教育の不備というなら、それは子爵の責。しかしそれだけでしょうか」
「私が好きになったのだ。責めるなら私を……」
「責めているわけではございません。しかし、今回の件は、沢山の人の人生を変えてしまった事をお二人とも理解するべきです」
「……王族としての義務はわかっていたが、兄上の死後、急に王太子として振る舞えと言われ、エリザベートが婚約者となった。私は……色々な事に疲れていたのだ。それに、政略結婚であっても、互いを尊敬し気持ちを通わせる事が出来ればとそう思っていたのだが、エリザベートとは……」
エリザベート様と殿下の関係性はわからない。だがそれは不貞を肯定する理由にならない。
もっと言えば当時殿下がどれだけ疲れていたとしても、ロッテン子爵令嬢の責任が帳消しになるわけではない。
「お二人の関係性は想像する事も出来ませんが、政略結婚は殿下のみが理不尽に感じている事ではございません。婚約者と良好な関係を築いている者もおりますが、大半は気持ちの通わぬ者ではないかと思います。結婚してから良い関係を築ける者もいるかもしれませんが、それも一部でございましょう。殿下だけが辛く悲しい結婚を強いられているのではありません。少なくとも、私はこの結婚をとても理不尽だと感じている事をお忘れなく」
私がそう言い切ると、殿下は傷ついたような顔をした。
「……わかった……」
「今後はせめて、ロッテン子爵令嬢が王太子宮へ来られませんよう、しかとお伝え下さいませ。その代わりではありませんが、私からは絶対に後宮へ近づく事は致しませんと誓いますわ。……それでは殿下、よろしくお願いいたします」
深々と礼をして、席を立ち、食堂を後にした。それを咎める者は誰一人としていなかった。
自室のソファーに力なく座り込む。背もたれに頭を乗せ、右腕で視界を遮る。そんな私に誰かが近づいてきた。
「……クロエ様」
マルコ様だ。
「……わかってる。言い過ぎたわ。ちゃんと明日、殿下には謝罪をするわ」
夕食での会話を思い出す。
沢山の人を振り回したくせに、全く理解してない二人にイライラした。ダメだわ。こんな事では。
「お茶を用意させましょうか?」
「……いいえ。少し飲みたい気分だわ。ワインを用意するように伝えてくれる?」
「畏まりました」
「ねぇ、マルコ。少し付き合ってくれない?」
「まだ、私は勤務中なので……」
「……そうね。ごめんなさい。無茶を言ったわ。忘れてちょうだい」
少しの間、沈黙が降る。マルコ様の真面目な声が、少しだけ柔らかくなる。
「クロエ様。私はもう少しで交代なのですが……その後に私もお酒を飲みたい気分なのです。良かったら付き合って頂けませんか?」
「……いいの?」
「もちろんです。クロエ様が許可してくださるなら、ですが」
私はそこで初めてマルコ様の顔を見た。そこには少し微笑んだマルコ様がいた。
マルコ様は約束通り、交代を終え、少しラフな格好でやってきた。
私は湯浴みを済ませて、シンプルなワンピースに着替えた。当然すっぴんだ。でも、今更化粧をするのも、なんか気合いが入り過ぎて見えないか心配で、結局出来なかった。
「ありがとう。マルコ」
「いえ。私が飲みたかったんです。街に出て飲むより、良い酒が飲めて、私としては有難い限りですよ」
そう言って二人でワインを飲み始めた。
部屋には今は私達だけだ。扉は少し開けてあるし、部屋のすぐ外には護衛の姿もある。メイドもちょこちょこと様子を見に来てはくれるが……二人きりだ。
緊張からか、飲むペースが少し早くなる。
「今日はみっともない所を見せたわ。ごめんなさい」
「何故、クロエ様が謝るのですか? 私も今回の事には、思うところがあります。クロエ様は間違った事は言っておりません」
「でも、私は自分でこの事を受け入れたの。それなのに……八つ当たりよね。文句を言って良いのは、エリザベート様だけだわ」
「いえ。クロエ様にもその権利はありますよ。巻き込まれた張本人ではないですか」
「そうね。確かにそうだわ。でも……」
「『でも』は無しです。きっと、殿下もクロエ様のお気持ちを理解されたと思いますよ。もう一人の方には……無理かもしれませんが」
私を肯定してくれるマルコ様の気持ちが今の私には有り難かった。
「そうだといいな……と思うわ」
「……クロエ様は、デイビット殿下の事が、お好きだったのですか?」
突然のマルコ様の質問に、私はしばし無言になった。一呼吸置いて、ゆっくりと答える。
「どうかしら? 私、デイビット殿下の婚約者候補だったの。知ってるわよね?」
「はい」
「候補者の時は王子妃教育が嫌で嫌で。これ以上辛い思いをするなら、婚約者に選ばれたくないってそう思ってたわ。でも、エリザベート様が婚約者に選ばれた時、少しだけ胸が痛んだの。それが恋と呼ばれるような気持ちなのか、それとも母に失望される恐れなのか、その時はわからなかった」
少し酔ってきたのだろうか……何故か私は素直な気持ちを吐露していた。
「でも、最近、ライラ妃陛下とデイビット殿下の事をお話する機会が増えて、あの時を思い出すと……もしかしたら、あれは私の初恋だったのかもって思う。それに私、殿下が羨ましかったの」
「羨ましい、ですか?」
「そう。王子妃教育の中で、私は自分の感情を表に出さない事に慣れてきたわ。でも、デイビット殿下は違った。王太子には相応しくない事だけど、すぐに表情に出ちゃうの。だから顔を見れば今の気持ちを知る事が出来た。言葉の裏を探らなくても良かった。そんな殿下と一緒に居るのは楽だったし、自分に無いものを持っている殿下が羨ましかったの」
「そうでしたか」
マルコ様は私の言葉を静かに聞いてくれる。
「殿下はね……心が綺麗だったの。だから、好きというより憧れに近い気持ちだったのかもしれない。そう思うわ。隙を見せれば、足の引っ張り合い。そんな貴族の姿に自分が近づいている事がどうしようもなく嫌だと思った時があった。幼かったのね。私も」
すっかり貴族として生きていく事に慣れた今の自分を、デイビット殿下はどう思うのだろう……
「さぁ、もう湿っぽい話はやめましょう。マルコ、おかわりはどう?」
私は敢えて気持ちを切り替えるように、明るく声をかける。
「いただきます。でも、クロエ様は大丈夫ですか? もうかなり飲まれているようですが……」
「平気! そうだ、とっておきのワインがあるの。私の産まれた年のワインでね」
そう言って私はメイドに隣の部屋からワインを持って来させた。
そのワインのボトルが空になる頃、あることを思い出す。
「あのねぇ、わたくし、マルコにぃ、わたしたいもろがあるの」
「クロエ様、もう飲んではいけません。さぁ、グラスを置いて下さい。呂律が怪しくなっておりますよ?」
「そぉ? わかった、わかった。もうのまにゃい。でも、わたすもの、もってくるから、まって?ね?」
私は覚束ない足取りで、チェストから一枚のハンカチを取り出した。
「これ! まえに、ハンカチ……マルコにもらっちゃったれしょ? これはおれい。わたくしがししゅう……したのよ?」
私はマルコ様にハンカチを手渡した。
そこまではなんとなく覚えてる……ような気がする。
……しかし、その後のマルコ様の言葉はほとんど聞こえていなかった。
マルコ様にハンカチを渡してホッとしたのか、そのままソファーに座って眠ってしまった。
「クロエ様……貴女は騎士に自ら刺したハンカチを送る意味をご存知なのか? ……可愛いひとだ」
その呟きは、誰の耳にも届く事はなかった。
「あぁ……やってしまった……」
翌朝、私は酷い頭痛に襲われていた。完全に二日酔いだ。
私はいつの間にか、自室のベッドに横になっていた。ここにどうやって来たのか……覚えてないし、知るのが怖い。
なんとなく覚えているのは、ワインを開けた所ぐらいまでだ。あとは……マルコ様にハンカチを渡した気がする。本当ならもう少しちゃんと渡したかった。
……どうしよう。推しに醜態を晒してしまった。だって二人でお酒飲めるなんて、この先もうそんなチャンスがないだろうと思ったら、浮かれちゃったんだもん。
私は二日酔いによく効くという薬を処方してもらい、怠い身体を引きずりながら厨房へ行く。殿下へ謝罪するのにサンドイッチを作って昼食を一緒にしようと考えていた。
私は前世の記憶のおかげで料理は一通り出来る。前世と同じ食材がないときは工夫が必要だが、サンドイッチぐらいならどこでも作れる。
私は料理長に驚かれながらも自ら作ったサンドイッチをバスケットに入れ、それを抱えて王宮の執務室へ向かった。殿下は昼食をいつも執務室で取るらしい。王宮に向かう私を護衛してくれるのは、今日はレイブンという騎士だ。マルコ様は今日は夜の護衛につくとの事で、顔を合わせる事が恥ずかしかった私にはこのシフトは有り難かった。
殿下の侍従に執務室へ案内される。
入室の許可を得て、私が執務室へ入ると目を丸くした殿下が私へ声をかけた。
「オーヴェル嬢……今日はどういったご用件で?」
……言葉遣いがおかしい。挙動不審にも程がある。
「殿下。まずは昨日の私の発言の謝罪を。自分で決め受け入れた事に、八つ当たりのような真似をしてしまいました。大変申し訳ありません」
私はそう言って頭を下げた。
「オーヴェル嬢、頭を上げてくれ! あれは私が悪かったのだ。貴女は少しも謝る必要はない」
「いえ、私は明らかに言い過ぎました。お二人の事に私が口を挟む権利はございませんでした」
「……いや。私は昨日、オーヴェル嬢に言われた事をあれからずっと考えていた。そして、自分がどれほど周りに迷惑をかけたのか、きちんと理解してなかった事に改めて気づいたんだ。立ち話もなんだから、そこに座って話そう」
殿下に促され、席につく。
「私の方こそ、謝らなければならないと思っていた。セリーナに出会って、自分が自由になれた気がした。恋をした事などなかったし、する事もないと思っていたから……舞い上がってしまった。でも軽率だった」
殿下。一応、私が言った事、考えてくれていたのね……
「セリーナに妾になれとは言えなかった。身分なら、なんとかなるんじゃないかと、甘い考えを持った事も事実だ。婚約解消を申し出された時には、もちろん焦ったよ。セリーナは単純に喜んでいたけれどね。オーヴェル嬢には、本当に申し訳なく思っている。セドリックにもだ。こうして考えると、私はどれだけの人に迷惑をかけているのだろうな」
「私は昨日の事について踏み込み過ぎたと反省しております。しかしながら、こうして殿下に考えていただける切っ掛けとなったのであれば、光栄にございます」
「君のおかげだ。ありがとう」
殿下だけがわかってもダメなんだけどね。まあ、一歩前進ではあるか。
「いえ。で、今日は謝罪に伺ったのですが、ついでに殿下と昼食を、と思いまして。サンドイッチを持って参りましたの。ご一緒にいかがでしょうか?」
「わざわざ持ってきてくれたのかい? ありがとう。ちょうどお腹も空いてきた頃だ。では、一緒に食べよう」
「はい。私が作った物ですので、お口に合うかどうか。あ、私が先に食べますので、ご安心下さい」
「オーヴェル嬢が私に毒を盛るとは思ってないよ。でも、これ全部君が作ったのかい?」
「ええ。大した事はしておりませんが。殿下、お茶を入れ直していただきましょう」
私はメイドにお茶を頼み、殿下の方へ顔を向けると、殿下は早速サンドイッチを手に取っていた。
二人でサンドイッチを頬張る。
「美味い! これは美味しいよ」
「お口に合ったようで、ようございました」
「オーヴェル嬢は料理も出来るのかい?」
頷こうとして、ふと気付いたことを指摘する。
「殿下、クロエですわ」
「ん?」
「もう婚約者になったのですから、家名で呼ぶのはおかしいかと」
「クロエ嬢……」
「クロエで結構ですわ」
「クロエ」
「はい。殿下。もうひとつお食べになりませんか?」
「ああ。いただこう」
私達は昨日の蟠りが溶けるように、穏やかに昼食を終えた。
殿下も、悪い人ではないのよね。恋は人をダメにするって、本当だわ。
私は心の中でため息をついた。
早いもので、私が王太子宮へ来てから一ヶ月半になろうとしていた。
ライラ様のおかげで王太子妃教育はつつがなく終了し、すでに王妃教育に取りかかっている。
マルコ様には、お酒での失態を詫びたが、「私も随分飲みましたので、少し酔っていたようです。でも、ハンカチはちゃんと受けとりました。大切にいたします。ありがとうございます」と、私が失態を気に病まないようにとの配慮がふんだんに含まれているであろうお言葉を頂いた。
あれから、殿下は週に三回程、私と一緒にランチをするようになった。何故か私の作ったサンドイッチを甚くお気に召したようで、リクエストをされるようになったのだ。その上、何故か週に一回程度の割合で夕食も王太子宮で召し上がるようになった。まぁ、業務連絡に使っているが。
そして、結婚式を後半月程に控えた今日、私のウェディングドレスが出来上がったとの連絡を受けた。このドレス、本当ならあと十か月後に挙げるはずだったセドリックとの結婚式で着る予定だった物だ。
あの後、うちのジュリエッタとライル様との婚約は無事に成立したらしい。らしいというのは、実家からは何も言ってこなかったからだ。聞いたのは殿下から。さすが私に無関心なだけある。まぁ、母は、はりきってお茶会でマウントをとっているようだが、勝手にすれば良いと思っている。
ドレスの準備も出来たし、後は本番を待つだけね~なんて思っていたら、来ましたよ。例のあの人が………懲りないわね、まったく。
「セリーナ・ロッテン子爵令嬢がおみえです」
「先触れは?」
「ありません」
「そう……では追い返してちょうだい」
「畏まりました」
このやり取り、今日で三日目。
本当なら王太子宮に来る事も控えるべきだ。私はそう殿下に伝えているし、殿下も釘を刺したと言っていた。でも、私も鬼ではない。せめて先触れがあれば会っても良いと思っているし、毎回護衛にもそう伝えてもらうように指示している。それでも、先触れもなしにやって来る。
……理解不能だ。先触れをすると死ぬ呪いにでも、かかってるの?
今日もギャーギャーと喚いていたようだが、無事追い返す事が出来たらしい。
「毎日、毎日これでは、護衛も疲れます。やはり殿下へ相談いたしましょう」
マルコ様がそう言うのも、もっともだ。私もそろそろ我慢の限界だし。
「そうね、明日、ランチのついでに相談してくるわ」
きっと殿下は言い聞かせているはずなのよね。好きな人の言う事ぐらい、ちゃんと聞けば良いのに……私ならマルコ様の言い付けを破るような事は絶対しないわ。絶対よ!
そう思っていたが、殿下に相談する機会がすぐにやってきた。今日は夕食を王太子宮で取るという。なんというタイミング。夕食が不味くなりそうだが、この話を殿下にするしかなさそうだ。
「……というわけなのです」
私はここ三日間のロッテン様の奇行について殿下へ相談を持ちかけた。
「……実はな。セリーナが結婚式に出席したいと言い出したんだ」
「へ?」
驚き過ぎて素が出た。
「申し訳ありません、殿下。その……聞き間違えでなければ、ロッテン様が、私達の結婚式に出席を希望していると、そう聞こえたのですが……」
「クロエの耳は確かだ。私はそう言った」
聞き間違いなら良かったのに。
「……ロッテン様はどのお立場で出席を?」
親族枠? 違うよね?
「私の側妃として出席したいと……」
確かに婚約解消をし、ロッテン様を側妃候補として後宮へ住まわせている事は、この国に住む貴族なら知ってる者も多い。しかし、この措置ははっきり言って異例中の異例。しかも王太子が結婚前から側妃を持つ事自体が異常なのだ。本来なら婚約者の私を馬鹿にしているに等しい行為である。
「殿下……。その願いが馬鹿げているものである事は、ご理解されておりますか?」
「も、もちろん。だから私はダメだと、はっきり断った。だが、セリーナは何故ダメなのか……理解できていないようだ」
……脳ミソ、お母さんのお腹の中に置いてきたのかな?
「この件に関しては、私も承知する事はできません。他の国からの来賓も多くございます。恥を晒す気ですか?」
「……恥……」
「それ以外になんと表現すればよろしいのですか? とにかく。王太子としての外交も兼ねた式です。殿下もそれはご理解頂けていますでしょう?」
「もちろんだ。わかっている」
「であれば、しっかりとロッテン様を説得なさって下さい。殿下がしっかり手綱を引いて頂かないと困ります」
暴れ馬かよ。この日の夕食は私が殿下に説教をする形で終わってしまった。
結婚式まで後一週間と迫ったある日、私は王妃教育の後のお茶会でライラ様の顔色が優れない事に気がついた。
「妃陛下、お顔の色が優れないようですが……体調がお悪いのではないですか?」
心配する私に、ライラ様は、意を決した様子で口を開く。
「ねぇ。もうすぐ私の義娘になる貴女に聞いて貰いたい事があるの……私の秘密について」
これは、聞かない方が良いと私の本能が告げている、超絶聞きたくない。
「私なんかにお話しして大丈夫なのでしょうか?」
「ええ。貴女だから聞いて欲しいの」
……断るって選択肢はきっとないんですよね?
私が小さく頷くと、ライラ様は侍女と護衛を話し声の聞こえない距離まで遠ざけた。
「陛下がまだ王太子だった頃、私と陛下はお互い想い合う関係であった……そんな話、聞いたことあるでしょう?」
答え難い。その話は知っているけど、つまり当時から陛下と王妃陛下の仲は冷え切っていたと言うも同然で……これ、肯定していいの?
「あれね……嘘なの」
「はい?」
嘘? 嘘って言った?
明言には躊躇するけど、この国のほとんどの人が知ってる話だ。悲恋の恋を実らせて、側妃として、健気に陛下を支えるライラ様の話は、歌劇の題材にもなった程だ。それが……嘘?
「陛下が在学中に好きだったのは、私の妹ルネよ。私は只の隠れ蓑。私とルネは一つ違いで、容姿は良く似ていたの」
「……何故隠れ蓑になど?」
自室に戻った私に、不快感を隠しもせずにお茶を用意しながらプリプリ怒っているのはナラだ。
私はナラのこういった気さくな感じを気に入っている。肝っ玉母さんといった風貌のナラは元伯爵夫人だ。
離縁をした女性というのがとにかく暮らしにくいこの国。実家に戻る事も叶わず、離縁されたとして傷物扱い。身を立てる為に職業夫人を目指す者も少なくないが、なかなか仕事を見つけるのも難しい。前世の私のように離婚、即実家へ戻るなんて事は不可能だ。女性に優しくない世界だなとつくづく思う。
「本当に……私にはよくわからない生き物だわ」
「殿下はあんな女のどこが良かったんでしょう?」
あんな女かぁ……私の前では良いけど、気を付けてね?
「殿方の好みはわからないけれど……ああいった女性が好きな方も少なからずいるのではないかしら?」
「私はあんな女、好みではありません!」
……何故かマルコ様が話に割って入った。
この一週間で私は少しずつ侍従との距離を掴めてきた。
そして、嬉しい事にマルコ様は、護衛をしながらも、私に何か困っていることはないか、退屈してはいないかとよく声をかけてくれるタイプだ。主だから仕方なくって事は多分ない……はず。
「あら? ああいった守ってあげたくなる感じの女性……騎士なら心惹かれるのではなくて?」
この話の流れで、マルコ様の好みの女性が訊けないかしら? もし好みがわかれば、侍女選びの参考にもなるし、なんなら私自身がそれに寄せてみせるわ!
「いえ。私はああいった媚を売るような女性は好きではありません」
「そう。では……マルコはどういった女性が好みなのかしら?」
……よし! 訊けた! 不自然じゃなかったよね? 自然に訊けたよね? 鼻の穴膨らんでなかったわよね?
「私の好みなど……」
え、赤くなって俯いた顔も可愛いんだけど? 何? 私を悶え殺す気?
「あら? 内緒なの? 私、口は堅いのよ?」
「で、でも、私は……」
うーん。これ以上しつこくしたら嫌われそう。
「わかったわ。意地悪するつもりはないのよ?」
「は、はい」
モジモジしてるマルコ様、超絶可愛い!
……でも、あの恥ずかしがり方……もしや意中の人が居るのでは? 私はそう思い当たると、鉛を飲み込んだように心が重くなっていった。
第二章
夕食の時間になり、侍女が私を呼びに来たが、その時に私は意外な人物の来訪を告げられた。
「殿下が?」
「はい。今日はクロエ様と夕食をご一緒すると」
私が王太子宮に来て一週間。殿下がこの宮の部屋を使っている形跡はない。
従者の話によると、朝、昼は王宮で執務をし、夕食は離宮でロッテン子爵令嬢と、そして夜はまた王宮の自室に戻っているとの事だ。
……まぁ、昼間の件で話がある事は容易に想像が出来る。
もしや『愛しのセリーナを苛めたな! 婚約破棄だ!』なんて言われるのかしら? でも、私と婚約破棄したら、もう相手は居ないけど。
食堂へ行くと、すでに殿下が座っていた。私は殿下に遅れた事を謝罪し、殿下から一番遠くの席に着く。向かい合わせではあるが私達の間には無駄に長い食卓がある。二人の心の距離をよく表していると思う。
「いや、急に来たのだ。気にしなくて良い。じゃあ、食事にしよう」
殿下が言うとすぐに給仕達が動き始めた。
……静かだ。ただ、ただ食事をしてるだけ……もう食事も終わるのだけど、用件は?
「殿下。お訊ねしても?」
「あ、ああ。何だ?」
何だ? って何だ?
「いえ。お話があったのではと思いまして」
「その……今日はセリーナが申し訳なかった」
……何について謝ってるの?
「私がロッテン子爵令嬢と顔を合わせる事がないように配慮していただける……その事についてでしょうか?」
「もちろんその事もあるが……セリーナの発言もだ」
ちゃんと、周りの人間に話を聞いたようね。
「私への発言については、気にしておりません。私がお飾りの王太子妃になる事は事実ですから。ただ、彼女は今回の件で、もう少しご自分の責任を考えるべきだと私は思います」
「責任?」
「はい。殿下はご自分の責任を感じていらっしゃるようですけれども、彼女はどうでしょうか」
「今回の事は私がセリーナを愛してしまったからで、彼女には何の責もない」
殿下のこの態度が、彼女の言動がああなった一因でしょうね。
「殿下の不貞。これは紛れもない殿下の責任です。しかし婚約者がいる殿方に、たとえ下心がなかったとしても不用意に近づく事は、貴族の子女とすればあるまじき行為です」
「しかし、セリーナはまだ教育をしっかりと受けてなくて……」
「ならば、学園に来るべきではありませんでした。ましてや王族が在籍する学園に。学園に通う事は任意であって義務ではございません。今回の行為を教育の不備というなら、それは子爵の責。しかしそれだけでしょうか」
「私が好きになったのだ。責めるなら私を……」
「責めているわけではございません。しかし、今回の件は、沢山の人の人生を変えてしまった事をお二人とも理解するべきです」
「……王族としての義務はわかっていたが、兄上の死後、急に王太子として振る舞えと言われ、エリザベートが婚約者となった。私は……色々な事に疲れていたのだ。それに、政略結婚であっても、互いを尊敬し気持ちを通わせる事が出来ればとそう思っていたのだが、エリザベートとは……」
エリザベート様と殿下の関係性はわからない。だがそれは不貞を肯定する理由にならない。
もっと言えば当時殿下がどれだけ疲れていたとしても、ロッテン子爵令嬢の責任が帳消しになるわけではない。
「お二人の関係性は想像する事も出来ませんが、政略結婚は殿下のみが理不尽に感じている事ではございません。婚約者と良好な関係を築いている者もおりますが、大半は気持ちの通わぬ者ではないかと思います。結婚してから良い関係を築ける者もいるかもしれませんが、それも一部でございましょう。殿下だけが辛く悲しい結婚を強いられているのではありません。少なくとも、私はこの結婚をとても理不尽だと感じている事をお忘れなく」
私がそう言い切ると、殿下は傷ついたような顔をした。
「……わかった……」
「今後はせめて、ロッテン子爵令嬢が王太子宮へ来られませんよう、しかとお伝え下さいませ。その代わりではありませんが、私からは絶対に後宮へ近づく事は致しませんと誓いますわ。……それでは殿下、よろしくお願いいたします」
深々と礼をして、席を立ち、食堂を後にした。それを咎める者は誰一人としていなかった。
自室のソファーに力なく座り込む。背もたれに頭を乗せ、右腕で視界を遮る。そんな私に誰かが近づいてきた。
「……クロエ様」
マルコ様だ。
「……わかってる。言い過ぎたわ。ちゃんと明日、殿下には謝罪をするわ」
夕食での会話を思い出す。
沢山の人を振り回したくせに、全く理解してない二人にイライラした。ダメだわ。こんな事では。
「お茶を用意させましょうか?」
「……いいえ。少し飲みたい気分だわ。ワインを用意するように伝えてくれる?」
「畏まりました」
「ねぇ、マルコ。少し付き合ってくれない?」
「まだ、私は勤務中なので……」
「……そうね。ごめんなさい。無茶を言ったわ。忘れてちょうだい」
少しの間、沈黙が降る。マルコ様の真面目な声が、少しだけ柔らかくなる。
「クロエ様。私はもう少しで交代なのですが……その後に私もお酒を飲みたい気分なのです。良かったら付き合って頂けませんか?」
「……いいの?」
「もちろんです。クロエ様が許可してくださるなら、ですが」
私はそこで初めてマルコ様の顔を見た。そこには少し微笑んだマルコ様がいた。
マルコ様は約束通り、交代を終え、少しラフな格好でやってきた。
私は湯浴みを済ませて、シンプルなワンピースに着替えた。当然すっぴんだ。でも、今更化粧をするのも、なんか気合いが入り過ぎて見えないか心配で、結局出来なかった。
「ありがとう。マルコ」
「いえ。私が飲みたかったんです。街に出て飲むより、良い酒が飲めて、私としては有難い限りですよ」
そう言って二人でワインを飲み始めた。
部屋には今は私達だけだ。扉は少し開けてあるし、部屋のすぐ外には護衛の姿もある。メイドもちょこちょこと様子を見に来てはくれるが……二人きりだ。
緊張からか、飲むペースが少し早くなる。
「今日はみっともない所を見せたわ。ごめんなさい」
「何故、クロエ様が謝るのですか? 私も今回の事には、思うところがあります。クロエ様は間違った事は言っておりません」
「でも、私は自分でこの事を受け入れたの。それなのに……八つ当たりよね。文句を言って良いのは、エリザベート様だけだわ」
「いえ。クロエ様にもその権利はありますよ。巻き込まれた張本人ではないですか」
「そうね。確かにそうだわ。でも……」
「『でも』は無しです。きっと、殿下もクロエ様のお気持ちを理解されたと思いますよ。もう一人の方には……無理かもしれませんが」
私を肯定してくれるマルコ様の気持ちが今の私には有り難かった。
「そうだといいな……と思うわ」
「……クロエ様は、デイビット殿下の事が、お好きだったのですか?」
突然のマルコ様の質問に、私はしばし無言になった。一呼吸置いて、ゆっくりと答える。
「どうかしら? 私、デイビット殿下の婚約者候補だったの。知ってるわよね?」
「はい」
「候補者の時は王子妃教育が嫌で嫌で。これ以上辛い思いをするなら、婚約者に選ばれたくないってそう思ってたわ。でも、エリザベート様が婚約者に選ばれた時、少しだけ胸が痛んだの。それが恋と呼ばれるような気持ちなのか、それとも母に失望される恐れなのか、その時はわからなかった」
少し酔ってきたのだろうか……何故か私は素直な気持ちを吐露していた。
「でも、最近、ライラ妃陛下とデイビット殿下の事をお話する機会が増えて、あの時を思い出すと……もしかしたら、あれは私の初恋だったのかもって思う。それに私、殿下が羨ましかったの」
「羨ましい、ですか?」
「そう。王子妃教育の中で、私は自分の感情を表に出さない事に慣れてきたわ。でも、デイビット殿下は違った。王太子には相応しくない事だけど、すぐに表情に出ちゃうの。だから顔を見れば今の気持ちを知る事が出来た。言葉の裏を探らなくても良かった。そんな殿下と一緒に居るのは楽だったし、自分に無いものを持っている殿下が羨ましかったの」
「そうでしたか」
マルコ様は私の言葉を静かに聞いてくれる。
「殿下はね……心が綺麗だったの。だから、好きというより憧れに近い気持ちだったのかもしれない。そう思うわ。隙を見せれば、足の引っ張り合い。そんな貴族の姿に自分が近づいている事がどうしようもなく嫌だと思った時があった。幼かったのね。私も」
すっかり貴族として生きていく事に慣れた今の自分を、デイビット殿下はどう思うのだろう……
「さぁ、もう湿っぽい話はやめましょう。マルコ、おかわりはどう?」
私は敢えて気持ちを切り替えるように、明るく声をかける。
「いただきます。でも、クロエ様は大丈夫ですか? もうかなり飲まれているようですが……」
「平気! そうだ、とっておきのワインがあるの。私の産まれた年のワインでね」
そう言って私はメイドに隣の部屋からワインを持って来させた。
そのワインのボトルが空になる頃、あることを思い出す。
「あのねぇ、わたくし、マルコにぃ、わたしたいもろがあるの」
「クロエ様、もう飲んではいけません。さぁ、グラスを置いて下さい。呂律が怪しくなっておりますよ?」
「そぉ? わかった、わかった。もうのまにゃい。でも、わたすもの、もってくるから、まって?ね?」
私は覚束ない足取りで、チェストから一枚のハンカチを取り出した。
「これ! まえに、ハンカチ……マルコにもらっちゃったれしょ? これはおれい。わたくしがししゅう……したのよ?」
私はマルコ様にハンカチを手渡した。
そこまではなんとなく覚えてる……ような気がする。
……しかし、その後のマルコ様の言葉はほとんど聞こえていなかった。
マルコ様にハンカチを渡してホッとしたのか、そのままソファーに座って眠ってしまった。
「クロエ様……貴女は騎士に自ら刺したハンカチを送る意味をご存知なのか? ……可愛いひとだ」
その呟きは、誰の耳にも届く事はなかった。
「あぁ……やってしまった……」
翌朝、私は酷い頭痛に襲われていた。完全に二日酔いだ。
私はいつの間にか、自室のベッドに横になっていた。ここにどうやって来たのか……覚えてないし、知るのが怖い。
なんとなく覚えているのは、ワインを開けた所ぐらいまでだ。あとは……マルコ様にハンカチを渡した気がする。本当ならもう少しちゃんと渡したかった。
……どうしよう。推しに醜態を晒してしまった。だって二人でお酒飲めるなんて、この先もうそんなチャンスがないだろうと思ったら、浮かれちゃったんだもん。
私は二日酔いによく効くという薬を処方してもらい、怠い身体を引きずりながら厨房へ行く。殿下へ謝罪するのにサンドイッチを作って昼食を一緒にしようと考えていた。
私は前世の記憶のおかげで料理は一通り出来る。前世と同じ食材がないときは工夫が必要だが、サンドイッチぐらいならどこでも作れる。
私は料理長に驚かれながらも自ら作ったサンドイッチをバスケットに入れ、それを抱えて王宮の執務室へ向かった。殿下は昼食をいつも執務室で取るらしい。王宮に向かう私を護衛してくれるのは、今日はレイブンという騎士だ。マルコ様は今日は夜の護衛につくとの事で、顔を合わせる事が恥ずかしかった私にはこのシフトは有り難かった。
殿下の侍従に執務室へ案内される。
入室の許可を得て、私が執務室へ入ると目を丸くした殿下が私へ声をかけた。
「オーヴェル嬢……今日はどういったご用件で?」
……言葉遣いがおかしい。挙動不審にも程がある。
「殿下。まずは昨日の私の発言の謝罪を。自分で決め受け入れた事に、八つ当たりのような真似をしてしまいました。大変申し訳ありません」
私はそう言って頭を下げた。
「オーヴェル嬢、頭を上げてくれ! あれは私が悪かったのだ。貴女は少しも謝る必要はない」
「いえ、私は明らかに言い過ぎました。お二人の事に私が口を挟む権利はございませんでした」
「……いや。私は昨日、オーヴェル嬢に言われた事をあれからずっと考えていた。そして、自分がどれほど周りに迷惑をかけたのか、きちんと理解してなかった事に改めて気づいたんだ。立ち話もなんだから、そこに座って話そう」
殿下に促され、席につく。
「私の方こそ、謝らなければならないと思っていた。セリーナに出会って、自分が自由になれた気がした。恋をした事などなかったし、する事もないと思っていたから……舞い上がってしまった。でも軽率だった」
殿下。一応、私が言った事、考えてくれていたのね……
「セリーナに妾になれとは言えなかった。身分なら、なんとかなるんじゃないかと、甘い考えを持った事も事実だ。婚約解消を申し出された時には、もちろん焦ったよ。セリーナは単純に喜んでいたけれどね。オーヴェル嬢には、本当に申し訳なく思っている。セドリックにもだ。こうして考えると、私はどれだけの人に迷惑をかけているのだろうな」
「私は昨日の事について踏み込み過ぎたと反省しております。しかしながら、こうして殿下に考えていただける切っ掛けとなったのであれば、光栄にございます」
「君のおかげだ。ありがとう」
殿下だけがわかってもダメなんだけどね。まあ、一歩前進ではあるか。
「いえ。で、今日は謝罪に伺ったのですが、ついでに殿下と昼食を、と思いまして。サンドイッチを持って参りましたの。ご一緒にいかがでしょうか?」
「わざわざ持ってきてくれたのかい? ありがとう。ちょうどお腹も空いてきた頃だ。では、一緒に食べよう」
「はい。私が作った物ですので、お口に合うかどうか。あ、私が先に食べますので、ご安心下さい」
「オーヴェル嬢が私に毒を盛るとは思ってないよ。でも、これ全部君が作ったのかい?」
「ええ。大した事はしておりませんが。殿下、お茶を入れ直していただきましょう」
私はメイドにお茶を頼み、殿下の方へ顔を向けると、殿下は早速サンドイッチを手に取っていた。
二人でサンドイッチを頬張る。
「美味い! これは美味しいよ」
「お口に合ったようで、ようございました」
「オーヴェル嬢は料理も出来るのかい?」
頷こうとして、ふと気付いたことを指摘する。
「殿下、クロエですわ」
「ん?」
「もう婚約者になったのですから、家名で呼ぶのはおかしいかと」
「クロエ嬢……」
「クロエで結構ですわ」
「クロエ」
「はい。殿下。もうひとつお食べになりませんか?」
「ああ。いただこう」
私達は昨日の蟠りが溶けるように、穏やかに昼食を終えた。
殿下も、悪い人ではないのよね。恋は人をダメにするって、本当だわ。
私は心の中でため息をついた。
早いもので、私が王太子宮へ来てから一ヶ月半になろうとしていた。
ライラ様のおかげで王太子妃教育はつつがなく終了し、すでに王妃教育に取りかかっている。
マルコ様には、お酒での失態を詫びたが、「私も随分飲みましたので、少し酔っていたようです。でも、ハンカチはちゃんと受けとりました。大切にいたします。ありがとうございます」と、私が失態を気に病まないようにとの配慮がふんだんに含まれているであろうお言葉を頂いた。
あれから、殿下は週に三回程、私と一緒にランチをするようになった。何故か私の作ったサンドイッチを甚くお気に召したようで、リクエストをされるようになったのだ。その上、何故か週に一回程度の割合で夕食も王太子宮で召し上がるようになった。まぁ、業務連絡に使っているが。
そして、結婚式を後半月程に控えた今日、私のウェディングドレスが出来上がったとの連絡を受けた。このドレス、本当ならあと十か月後に挙げるはずだったセドリックとの結婚式で着る予定だった物だ。
あの後、うちのジュリエッタとライル様との婚約は無事に成立したらしい。らしいというのは、実家からは何も言ってこなかったからだ。聞いたのは殿下から。さすが私に無関心なだけある。まぁ、母は、はりきってお茶会でマウントをとっているようだが、勝手にすれば良いと思っている。
ドレスの準備も出来たし、後は本番を待つだけね~なんて思っていたら、来ましたよ。例のあの人が………懲りないわね、まったく。
「セリーナ・ロッテン子爵令嬢がおみえです」
「先触れは?」
「ありません」
「そう……では追い返してちょうだい」
「畏まりました」
このやり取り、今日で三日目。
本当なら王太子宮に来る事も控えるべきだ。私はそう殿下に伝えているし、殿下も釘を刺したと言っていた。でも、私も鬼ではない。せめて先触れがあれば会っても良いと思っているし、毎回護衛にもそう伝えてもらうように指示している。それでも、先触れもなしにやって来る。
……理解不能だ。先触れをすると死ぬ呪いにでも、かかってるの?
今日もギャーギャーと喚いていたようだが、無事追い返す事が出来たらしい。
「毎日、毎日これでは、護衛も疲れます。やはり殿下へ相談いたしましょう」
マルコ様がそう言うのも、もっともだ。私もそろそろ我慢の限界だし。
「そうね、明日、ランチのついでに相談してくるわ」
きっと殿下は言い聞かせているはずなのよね。好きな人の言う事ぐらい、ちゃんと聞けば良いのに……私ならマルコ様の言い付けを破るような事は絶対しないわ。絶対よ!
そう思っていたが、殿下に相談する機会がすぐにやってきた。今日は夕食を王太子宮で取るという。なんというタイミング。夕食が不味くなりそうだが、この話を殿下にするしかなさそうだ。
「……というわけなのです」
私はここ三日間のロッテン様の奇行について殿下へ相談を持ちかけた。
「……実はな。セリーナが結婚式に出席したいと言い出したんだ」
「へ?」
驚き過ぎて素が出た。
「申し訳ありません、殿下。その……聞き間違えでなければ、ロッテン様が、私達の結婚式に出席を希望していると、そう聞こえたのですが……」
「クロエの耳は確かだ。私はそう言った」
聞き間違いなら良かったのに。
「……ロッテン様はどのお立場で出席を?」
親族枠? 違うよね?
「私の側妃として出席したいと……」
確かに婚約解消をし、ロッテン様を側妃候補として後宮へ住まわせている事は、この国に住む貴族なら知ってる者も多い。しかし、この措置ははっきり言って異例中の異例。しかも王太子が結婚前から側妃を持つ事自体が異常なのだ。本来なら婚約者の私を馬鹿にしているに等しい行為である。
「殿下……。その願いが馬鹿げているものである事は、ご理解されておりますか?」
「も、もちろん。だから私はダメだと、はっきり断った。だが、セリーナは何故ダメなのか……理解できていないようだ」
……脳ミソ、お母さんのお腹の中に置いてきたのかな?
「この件に関しては、私も承知する事はできません。他の国からの来賓も多くございます。恥を晒す気ですか?」
「……恥……」
「それ以外になんと表現すればよろしいのですか? とにかく。王太子としての外交も兼ねた式です。殿下もそれはご理解頂けていますでしょう?」
「もちろんだ。わかっている」
「であれば、しっかりとロッテン様を説得なさって下さい。殿下がしっかり手綱を引いて頂かないと困ります」
暴れ馬かよ。この日の夕食は私が殿下に説教をする形で終わってしまった。
結婚式まで後一週間と迫ったある日、私は王妃教育の後のお茶会でライラ様の顔色が優れない事に気がついた。
「妃陛下、お顔の色が優れないようですが……体調がお悪いのではないですか?」
心配する私に、ライラ様は、意を決した様子で口を開く。
「ねぇ。もうすぐ私の義娘になる貴女に聞いて貰いたい事があるの……私の秘密について」
これは、聞かない方が良いと私の本能が告げている、超絶聞きたくない。
「私なんかにお話しして大丈夫なのでしょうか?」
「ええ。貴女だから聞いて欲しいの」
……断るって選択肢はきっとないんですよね?
私が小さく頷くと、ライラ様は侍女と護衛を話し声の聞こえない距離まで遠ざけた。
「陛下がまだ王太子だった頃、私と陛下はお互い想い合う関係であった……そんな話、聞いたことあるでしょう?」
答え難い。その話は知っているけど、つまり当時から陛下と王妃陛下の仲は冷え切っていたと言うも同然で……これ、肯定していいの?
「あれね……嘘なの」
「はい?」
嘘? 嘘って言った?
明言には躊躇するけど、この国のほとんどの人が知ってる話だ。悲恋の恋を実らせて、側妃として、健気に陛下を支えるライラ様の話は、歌劇の題材にもなった程だ。それが……嘘?
「陛下が在学中に好きだったのは、私の妹ルネよ。私は只の隠れ蓑。私とルネは一つ違いで、容姿は良く似ていたの」
「……何故隠れ蓑になど?」
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