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其の十三
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凍てつくような寒気が降りてくる夜明け前、桂祐は旭丸に促されて牛車の外へ出た。
まだ光の差さぬ闇の中、西の空に残る有明の月が冴え冴えと美しい。じっと立って耳を澄ませていると、通りの向こうから軽い足音が聞こえてきた。
「狐?」
怪異を見通す桂祐の目には、闇の中に大きな狐が黄色く光って見えた。随分と立派な薯蕷を背負って、口には色づいた紅葉の枝を咥え、真っ直ぐに堀川邸へと駆けてくる。
狐は門の前に立つ二人に気づき、歩を止めた。
『なんだ、お前達』
敵意を示すように歯を剥き出して唸り、旭丸と同じように念で話す。
「宮に文を参らせているのはお前か」
桂祐が質すと、大狐は鼻面に皺を寄せて激しい威嚇を見せてくる。
『侮る気か、人風情が……我は伏見の狐よりも古くから京の北山を守る天狐一族の長ぞ。我が愛姫の門前を不当に占拠するつもりならば、一息に噛み殺してくれる!』
勢い込む狐に桂祐は苦笑し、旭丸はつまらなさそうにそっぽを向いて欠伸を漏らした。狐は旭丸の方へと一歩踏み出し、
『そこな狗、人如きに繋がれて神霊の矜恃は何処へやった。まずはお前から噛んでやろうか……』
と牙を見せて凄む。
『その人如きに惚れて、返事もないのに阿呆な贈り物を続けている狐には言われたくないな』
『なんだと。無礼な狗め!』
獣二匹が鼻面を付き合わせて唸り始め、桂祐は慌てて旭丸の首に繋いだ紐を引いた。
「止せ、馬鹿! そちらの天狐殿も牙を収められよ。私は宮様からの返事をお渡しするよう言いつかって、貴殿が来るのを待っていたのだ」
『へ……返事……?』
狐があんぐりと口を開け、咥えていた枝がポトリと地面に落ちた。
「なんだ。文を送っておきながら、返事が来るとは思わなかったのか? そら、これだ」
桂祐が袂に入れていた文を狐に渡すと、狐は前足で器用にそれを解いて書かれた和歌にに目を落とし、困ったように首を傾げた。
『これは、どういう意味だ……?』
貴人は歌で気持ちを伝えようとするが、狐は歌を解さないのだろう。
「まあ……大体『ずうずうしく毎日文を送ってくるくせに、忍んでくる勇気がないとは、剛毅なのは手蹟だけですか。本当はきっと私に会いたいとも思っていないのでしょうね』という感じのお歌だな」
『まさか! そんなわけはないだろう!』
狼狽して飛び上がる狐が可笑しい。桂祐が小さく笑いを漏らすと、旭丸が不満げに吠えた。
「高貴な方々の恋歌では、最初の返歌はこんな風に突き放すのが常識なんだよ。どうする。返事は今書くか?」
『勿論、早速お返事参らせたいが、ここでは書けぬ。一度山へ戻らねば……』
「筆なら貸してもいいぞ。いやしかしその前足では筆は持てないか。いつもどうやって文を書いているんだ?」
『人に化けて書く。しかしここで化けるのは……』
「往来で人になるのに障りがあるのなら、そこの牛車の中で書くか?」
桂祐が提案すると、
『……お主、思ったより良い男だな』
狐は足元で飛び上がってくるりと一回転し、せかせかと牛車に乗り込んだ。
のんきな遣り取りをしている間に東の空は明るくなり始めている。桂祐は狐が落とした薯蕷と紅葉の枝を拾い、
「狐の妻問いか。哀れだなあ。宮様相手に叶う想いでもあるまいに……」
と首を振った。
『叶わぬか』
桂祐の脚にすり寄った旭丸は問う。
「叶わぬだろう。いくら神性があろうと獣と人だ。交わる縁ではない」
『人を恋う神は多い。昔話に語られるように、手を伸ばし合えば結ぶ縁もある。神が人になることもあれば、人が神になる事もある。なぜ手を取ってはくれぬのか』
旭丸はじっと桂祐を見つめた。白々とした冬の朝日に照らされて金赤の目が静かに輝いている。
桂祐は旭丸が自分の事を言っていると分かった上で、
「さあ、宮様次第であろうな。犬が好きだと仰っていたから、狐のまま飼われれば良いのではないか?」
わざととぼけて肩を竦めた。旭丸はじっと桂祐に視線を向けたまま動かず、桂祐は気まずさを誤魔化すように手に持った紅葉の枝をもてあそぶ。
「……神霊の世界とはどんなものなのだろうな……」
ぽつりと漏らした声に旭丸は一つ大きく尾を振った。
『人の世と変わりはない。ただ時間がずっと長い。病や飢えはない。死ぬことも、ほぼない』
「極楽浄土のようなものか」
『さあ。仏と会ったことも無いから、浄土がどのような場所かは知らん』
身体ごと桂祐にすり寄り、旭丸は懇願するように何度も額を相手の腹にこすりつける。
『……一人きりでは寂しい世界だ』
ポツリと言う旭丸の背後から、初冬の朝日が昇ってくる。旭丸の瞳と毛色が燃えるように輝く。その横にふわさしい相手がいて欲しい、と桂祐は切に願う。旭丸のために、自分があの銀の龍を探してやらねば、と痛む胸を抱えてそう思った。
程なくして、牛車の御簾の間から剥き出しの男の手が覗き、
『書けた!』
と狐の声が頭に響いた。
「あ、ああ! ではそれもこの枝に括れ」
桂祐は持っていた紅葉を御簾の内へと入れてやる。
中を覗くと男が不器用そうな手つきで文を枝に括ろうと苦戦していた。年は二十代半ばほどか。長身だ。幅の広い背に、狐の毛と同じ金色の髪を垂らしている。振り返った顔は逆立った太い眉と眦のつり上がった大きな目のおかげでいささか派手過ぎる印象だが、整ってはいる。
「では、頼む。薯蕷は精が付く。姫は身体が弱っているから、すりおろして粥にして食ってくれと下女に伝えてくれ」
ぽん、と軽い鼓のような音がして男は狐へと戻った。
「それは良いが、宮様からまたお返事があればどうする。何処へ届けさせれば良いのだ」
桂祐が尋ねると、狐は困ったように前足で顔を洗い始めた。
『我の住み処は沢山ある故、何処と問われても……』
そこへ桂祐の脇から旭丸が顔を出し、二匹は険悪に睨み合った。
『なんだ、犬! 覗くな、無礼者!』
『俺がただの犬に見えているような未熟者に無礼を咎められる謂れはない。桂祐の筆を粗雑に扱うな、田舎狐め』
『なんだと、田舎狐とは聞き捨てならぬ! 私は京の北方を守る由緒正しき祠の主であり、数多の眷属を従えた……』
『祠は崩れ、一族はすべて伏見の狐に取られたろう』
口上を遮った旭丸の指摘に、狐は愕然と口を開けた。
『うぬ……っ! 何故それを知っている……?』
「成る程。それで住み処が定まらないのか」
桂祐が気の毒そうに言うと、
『住み処はある。しかし姫の使いに見せられるような社ではないのだ……』
狐はしょげかえって鼻先を立派な尾に埋めた。
「何か使いの小動物とかはおらんのか?」
『うーむ、眷属はみな取られてしまったし……』
『そこの紅葉の葉で鳥でも作れ。文を運ぶ程度なら保つだろう』
旭丸がそっぽを向いたままボソリと言う。
『おお、確かに! それなら何とかなりそうだ! 犬め、良いことを思いついたな』
狐は嬉しそうに跳ね上がり、文をくくりつけた紅葉の枝から大きめの葉を一枚千切った。それを前足で器用に挟んで何事か唱えると、雀ほどの大きさの赤い小鳥が現れる。楓の葉の形の尾羽がついた小鳥は、音もなく羽ばたいて文の結ばれた枝に止まった。
『もしも姫から返事があれば、これに咥えさせて飛ばしてくれ』
「随分小さいが、大丈夫か?」
『狐の王を侮るつもりか? 大丈夫に決まっている』
「わかった。では、私はこれから宮様に文を渡しに参る故、お前は一度住み処へ帰れ」
『ここで待っていても良いのだが……』
「返事がもらえるかは分からないぞ。お前のような古狐がいつまでも門の前にいたら、宮様におかしな噂が立つだろう。人目に付かぬうちに、帰れ」
桂祐がシッシッと手を振り、旭丸が低く唸ると、狐はようやく諦めたようで、脇目も振らずに一目散に山へと駆けだした。
狐が見えなくなるまで見送った桂祐は、小鳥と文の付いた紅葉の枝を持ち、門を潜った。
「旭丸、ありがとうな」
横を歩く旭丸の額を掻いてやると、何のことだと言いたげに見上げてくる。
「狐に助言してくれたろう?」
『……憐れに思っただけだ。好いた相手に想いを伝えられないのは辛い』
それだけ言って旭丸は桂祐の脛に鼻先をこすりつけ、朝焼けの光が霜を輝かせる庭をどんどん先へと行ってしまう。桂祐は慌てて後を追いかけた。
まだ光の差さぬ闇の中、西の空に残る有明の月が冴え冴えと美しい。じっと立って耳を澄ませていると、通りの向こうから軽い足音が聞こえてきた。
「狐?」
怪異を見通す桂祐の目には、闇の中に大きな狐が黄色く光って見えた。随分と立派な薯蕷を背負って、口には色づいた紅葉の枝を咥え、真っ直ぐに堀川邸へと駆けてくる。
狐は門の前に立つ二人に気づき、歩を止めた。
『なんだ、お前達』
敵意を示すように歯を剥き出して唸り、旭丸と同じように念で話す。
「宮に文を参らせているのはお前か」
桂祐が質すと、大狐は鼻面に皺を寄せて激しい威嚇を見せてくる。
『侮る気か、人風情が……我は伏見の狐よりも古くから京の北山を守る天狐一族の長ぞ。我が愛姫の門前を不当に占拠するつもりならば、一息に噛み殺してくれる!』
勢い込む狐に桂祐は苦笑し、旭丸はつまらなさそうにそっぽを向いて欠伸を漏らした。狐は旭丸の方へと一歩踏み出し、
『そこな狗、人如きに繋がれて神霊の矜恃は何処へやった。まずはお前から噛んでやろうか……』
と牙を見せて凄む。
『その人如きに惚れて、返事もないのに阿呆な贈り物を続けている狐には言われたくないな』
『なんだと。無礼な狗め!』
獣二匹が鼻面を付き合わせて唸り始め、桂祐は慌てて旭丸の首に繋いだ紐を引いた。
「止せ、馬鹿! そちらの天狐殿も牙を収められよ。私は宮様からの返事をお渡しするよう言いつかって、貴殿が来るのを待っていたのだ」
『へ……返事……?』
狐があんぐりと口を開け、咥えていた枝がポトリと地面に落ちた。
「なんだ。文を送っておきながら、返事が来るとは思わなかったのか? そら、これだ」
桂祐が袂に入れていた文を狐に渡すと、狐は前足で器用にそれを解いて書かれた和歌にに目を落とし、困ったように首を傾げた。
『これは、どういう意味だ……?』
貴人は歌で気持ちを伝えようとするが、狐は歌を解さないのだろう。
「まあ……大体『ずうずうしく毎日文を送ってくるくせに、忍んでくる勇気がないとは、剛毅なのは手蹟だけですか。本当はきっと私に会いたいとも思っていないのでしょうね』という感じのお歌だな」
『まさか! そんなわけはないだろう!』
狼狽して飛び上がる狐が可笑しい。桂祐が小さく笑いを漏らすと、旭丸が不満げに吠えた。
「高貴な方々の恋歌では、最初の返歌はこんな風に突き放すのが常識なんだよ。どうする。返事は今書くか?」
『勿論、早速お返事参らせたいが、ここでは書けぬ。一度山へ戻らねば……』
「筆なら貸してもいいぞ。いやしかしその前足では筆は持てないか。いつもどうやって文を書いているんだ?」
『人に化けて書く。しかしここで化けるのは……』
「往来で人になるのに障りがあるのなら、そこの牛車の中で書くか?」
桂祐が提案すると、
『……お主、思ったより良い男だな』
狐は足元で飛び上がってくるりと一回転し、せかせかと牛車に乗り込んだ。
のんきな遣り取りをしている間に東の空は明るくなり始めている。桂祐は狐が落とした薯蕷と紅葉の枝を拾い、
「狐の妻問いか。哀れだなあ。宮様相手に叶う想いでもあるまいに……」
と首を振った。
『叶わぬか』
桂祐の脚にすり寄った旭丸は問う。
「叶わぬだろう。いくら神性があろうと獣と人だ。交わる縁ではない」
『人を恋う神は多い。昔話に語られるように、手を伸ばし合えば結ぶ縁もある。神が人になることもあれば、人が神になる事もある。なぜ手を取ってはくれぬのか』
旭丸はじっと桂祐を見つめた。白々とした冬の朝日に照らされて金赤の目が静かに輝いている。
桂祐は旭丸が自分の事を言っていると分かった上で、
「さあ、宮様次第であろうな。犬が好きだと仰っていたから、狐のまま飼われれば良いのではないか?」
わざととぼけて肩を竦めた。旭丸はじっと桂祐に視線を向けたまま動かず、桂祐は気まずさを誤魔化すように手に持った紅葉の枝をもてあそぶ。
「……神霊の世界とはどんなものなのだろうな……」
ぽつりと漏らした声に旭丸は一つ大きく尾を振った。
『人の世と変わりはない。ただ時間がずっと長い。病や飢えはない。死ぬことも、ほぼない』
「極楽浄土のようなものか」
『さあ。仏と会ったことも無いから、浄土がどのような場所かは知らん』
身体ごと桂祐にすり寄り、旭丸は懇願するように何度も額を相手の腹にこすりつける。
『……一人きりでは寂しい世界だ』
ポツリと言う旭丸の背後から、初冬の朝日が昇ってくる。旭丸の瞳と毛色が燃えるように輝く。その横にふわさしい相手がいて欲しい、と桂祐は切に願う。旭丸のために、自分があの銀の龍を探してやらねば、と痛む胸を抱えてそう思った。
程なくして、牛車の御簾の間から剥き出しの男の手が覗き、
『書けた!』
と狐の声が頭に響いた。
「あ、ああ! ではそれもこの枝に括れ」
桂祐は持っていた紅葉を御簾の内へと入れてやる。
中を覗くと男が不器用そうな手つきで文を枝に括ろうと苦戦していた。年は二十代半ばほどか。長身だ。幅の広い背に、狐の毛と同じ金色の髪を垂らしている。振り返った顔は逆立った太い眉と眦のつり上がった大きな目のおかげでいささか派手過ぎる印象だが、整ってはいる。
「では、頼む。薯蕷は精が付く。姫は身体が弱っているから、すりおろして粥にして食ってくれと下女に伝えてくれ」
ぽん、と軽い鼓のような音がして男は狐へと戻った。
「それは良いが、宮様からまたお返事があればどうする。何処へ届けさせれば良いのだ」
桂祐が尋ねると、狐は困ったように前足で顔を洗い始めた。
『我の住み処は沢山ある故、何処と問われても……』
そこへ桂祐の脇から旭丸が顔を出し、二匹は険悪に睨み合った。
『なんだ、犬! 覗くな、無礼者!』
『俺がただの犬に見えているような未熟者に無礼を咎められる謂れはない。桂祐の筆を粗雑に扱うな、田舎狐め』
『なんだと、田舎狐とは聞き捨てならぬ! 私は京の北方を守る由緒正しき祠の主であり、数多の眷属を従えた……』
『祠は崩れ、一族はすべて伏見の狐に取られたろう』
口上を遮った旭丸の指摘に、狐は愕然と口を開けた。
『うぬ……っ! 何故それを知っている……?』
「成る程。それで住み処が定まらないのか」
桂祐が気の毒そうに言うと、
『住み処はある。しかし姫の使いに見せられるような社ではないのだ……』
狐はしょげかえって鼻先を立派な尾に埋めた。
「何か使いの小動物とかはおらんのか?」
『うーむ、眷属はみな取られてしまったし……』
『そこの紅葉の葉で鳥でも作れ。文を運ぶ程度なら保つだろう』
旭丸がそっぽを向いたままボソリと言う。
『おお、確かに! それなら何とかなりそうだ! 犬め、良いことを思いついたな』
狐は嬉しそうに跳ね上がり、文をくくりつけた紅葉の枝から大きめの葉を一枚千切った。それを前足で器用に挟んで何事か唱えると、雀ほどの大きさの赤い小鳥が現れる。楓の葉の形の尾羽がついた小鳥は、音もなく羽ばたいて文の結ばれた枝に止まった。
『もしも姫から返事があれば、これに咥えさせて飛ばしてくれ』
「随分小さいが、大丈夫か?」
『狐の王を侮るつもりか? 大丈夫に決まっている』
「わかった。では、私はこれから宮様に文を渡しに参る故、お前は一度住み処へ帰れ」
『ここで待っていても良いのだが……』
「返事がもらえるかは分からないぞ。お前のような古狐がいつまでも門の前にいたら、宮様におかしな噂が立つだろう。人目に付かぬうちに、帰れ」
桂祐がシッシッと手を振り、旭丸が低く唸ると、狐はようやく諦めたようで、脇目も振らずに一目散に山へと駆けだした。
狐が見えなくなるまで見送った桂祐は、小鳥と文の付いた紅葉の枝を持ち、門を潜った。
「旭丸、ありがとうな」
横を歩く旭丸の額を掻いてやると、何のことだと言いたげに見上げてくる。
「狐に助言してくれたろう?」
『……憐れに思っただけだ。好いた相手に想いを伝えられないのは辛い』
それだけ言って旭丸は桂祐の脛に鼻先をこすりつけ、朝焼けの光が霜を輝かせる庭をどんどん先へと行ってしまう。桂祐は慌てて後を追いかけた。
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