薔薇の香に溶かす

たまむし

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薔薇の香に溶かす

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 広場は人でごった返していた。月に一度の市が開かれる日だ。人がようやくすれ違えるほどの隙間をかろうじて空けて、露店がひしめき合っている。
 店先に並ぶのは、近隣の田園部から朝一で運ばれてきた新鮮な野菜に果物。焼きたてのパンや菓子に、その場で調理される肉や魚……。肉や魚の塩漬け等の保存食料品に、衣類や小間物、生きたままの家禽までが売られていた。

 マルティン・オコンノリーは人混みをかき分けながら、一月分の食料を買い込んでいく。
 マルティンの主は食が細い。というか、仕事に没頭すると寝食を忘れる質だから、食事の内容には気を遣う。なるべく少量でも滋養の取れる、食べやすいものが良い。

 片手でつまめる小さな菓子を売っている店で砂糖衣のついたナッツを一袋選び、代金を支払おうとすると、

「やあ、兄さん! さては女房がおめでただね?」

と、唐突に声をかけられ、マルティンは目を丸くした。
 人懐っこそうな中年の店主は、マルティンの抱える食料の山を指差して、にこやかにまくし立てる。

「ナッツに、山羊のチーズ、ショウガの根、糖蜜パンに乾燥フェアリーリーフ……私も女房が初めての子を身籠ったときは買い込みましたよ!」

 マルティンは抱えた荷物を見下ろして、「なるほど……」と小さく独りごちた。主のために選んだ食材は、確かに妊婦に良いとされる物ばかりだ。

「おや、そうなのかい? だったらウチの花も買っていってあげなよ。 ご祝儀代わりに安くしとくよ!」

 隣の露店で花を売っている女も会話に入ってきた。

「そりゃいい! 兄さん、是非買っていくと良いよ。身ごもってる女ってのは、気が立ってるもんだからな。花でも飾ってやりゃ、きっと喜ぶぜ」

 ナッツ売りと花屋は一緒になってはやし立てる。マルティンは勝手に話を進められて困惑したが、花を買うことは悪くないと思った。

 主の屋敷は森の奥にひっそりと建っている。針葉樹の森は一年中薄暗く、下生えの植物にも色は少ない。店先に並んでいる花々の見事な色合いは、ひどく魅力的に映った。花は贅沢品だが、自分の給金から払うなら構わないだろう。

「そうだな……いくつかもらおうかな。三シルヴァ分くらいなら払える」
「あいよっ! 三シルヴァね。おまかせで良いかい?」

 花屋は慣れた手つきで花を選んで束を作る。カラフルな八重咲きのキンポウゲやユーストマで作られた花束をそのまま受け取りかけ、マルティンはふと我に返った。

「いや……、やっぱり薔薇が良い。すまないが、そっちの薔薇をくれ。香り高いものがいい」
「バラ? アンタわかってないねえ。孕み女は匂いに弱いもんなんだよ。香りの薄い、見た目のキレイな花にしときな。それにバラは高いんだ。三シルヴァだと五本も買えないよ」

 マルティンは財布から銀貨をもう二枚追加して、

「待ってるのは私の妻ではなく、主なので」

 と白いバラを自分で選んだ。

「あるじ……って。アンタ、どっかの御令嬢の下男かなんかなのかい?」

 マルティンは詮索好きな花屋の言葉に苦笑し、何も答えずに買った花を持って露店を離れた。


「なんだい、ありゃ。見た目は良い男だけど変わってるね」

 花屋の女は、去って行く青年の後ろ姿を見送って呆れたように首を振る。
 ごった返す市の中でも、マルティンの短く切った赤毛の頭は飛び抜けて目立っていた。長身なのだ。着ているものは農民風のシャツとズボンで目立ったところはないが、貴族の側仕えにしてはしょぼくれていて、立派な体躯に比べると見劣りする。

「マルティンか? アイツは森ン中に住み着いてる法術使いに雇われてるんだよ」

 そう花屋に教えたのは、向かいの露店で小物を売っている親父だった。

「法術使い? 何の?」
「知らねえ。なにせ森から一切でてこねえんだ。もう一年近く前から居着いてるが、男か女かもわからん。市の立つ日にマルティンだけが買い出しに来る。アイツも余所モンだから、誰も詳しいことを知らねえ。森はウィンドフェルガー様の土地だ。そこに住んでるんだから、あの家に関係あるんだろ。近寄らねえ方が良い。触らぬ神にたたり無しってヤツだ」
「へえ……」

 ウィンドフェルガーはこの辺り一帯を治める領主で、あまり良い噂のない家だ。小物屋の説明に、花屋とナッツ屋は目を見合わせて肩をすくめる。マルティンの赤毛はもう人混みに紛れて見えなくなっていた。

--------------

 必要なものを買い終えたマルティンは、日の沈む前に街を出た。一月分の食料を詰め込んだ鞄は大きく膨らんでいるが、重くはなかった。鞄には重さを半減させる術がかかっているからだ。術を掛けたのはマルティンの主、ラファエリ・ウィンドフェルガー。
 主の屋敷は街の外にある。深い森の奥深く、人目から隠れるように建てられた石造りの屋敷には、今はマルティンとその主の二人だけが住んでいる。

 マルティンは軽い荷の上に薔薇の花束を載せ直し、森の中を進む。薄暗い木立が急に途切れ、背の高い円形の塔とさほど大きくはない屋敷が屋敷が現れた。塀や門はない。そんな物で囲わなくても、主が望まない生き物は屋敷に近づくことができないからだ。

 玄関扉を開けて中へ入ると、吹き抜けの小さなホールになっている。右手には台所と食事室が並び、奥には階段があった。
 マルティンはひとまず台所のテーブルに買い込んだ食料を置き、花を質素な素焼きの壺に活けた。その壺を持って二階へ上がる。二階は主のための寝室と、マルティンが寝起きする召使い室があり、奥の扉を開けると塔へと繋がる渡り廊下がある。

 主寝室のドアは開けっぱなしだった。部屋は無人で、寝台は乱れたままになっている。マルティンが街へと出かける前に、サイドテーブルに用意していった朝食の皿も、空になったまま置きっぱなしだった。南向きの窓からは一日中日が入っていたようで、室内には温かい空気が澱んでいる。
 マルティンは上げ下げ式の窓を開け、その前に抱えていた花を置いた。夕暮れの風が白い花をわずかに揺らす。
 寝台を整え、曲がっていたラグや、引いたままの椅子、室内履きやその他、投げ出しっぱなしのを小物を、きちんといつもと同じ場所へ置き直していると、塔へ繋がる廊下の方から軽い足音が近づいて来るのに気がついた。

「ラファ、今日は随分早いですね」

 名を呼びながら振り返ると、屋敷の主が驚いたように眉を上げて戸口に立っていた。

「おや、君は相変わらず敏いね」

 ラファエリはおどけた口調で言い、整えたばかりの椅子を引いてそこへ腰を下ろす。マルティンはすぐにテーブルの上に置いたままだった朝食の盆を持ち上げた。ラファエリの細い指がテーブルの上を探る。

「ここに、飲み残したミルクがあるはずなんだけど……」
「朝のですよ? 今頃飲んだら腹を下します」
「そう? じゃあ新しいのを入れてきておくれ。どうも塔の中は暑すぎて集中できない」

 ラファエリは起きてから寝るまで、ほとんどの時間を塔で過ごす。塔には魔術的な何かがあって、主はそこでマルティンにはわからない仕事をしているのだという。

「ああ、だから今日は早く切り上げたんですか。きちんと水分を取ってください。そのうち干からびますよ」

 マルティンは心配と苛立ちを込めて、水を入れたゴブレットを主の手に押しつけた。ラファエリはそれを一息に飲み干して、ほうと息を吐く。

「そんなに簡単に干からびたりはしないよ。今日はお天気が良かったのかい?」
「ええ、とても。市も賑わっていました」
「それはいい。ほどよく活力に満ちている状態は良い」

 そう言ってラファエリは形の良い薄い唇を笑みの形にする。

 ラファエリは美しい青年だった。色白の細面で眉は優美な曲線を描き、細く通った鼻梁に続く。頬骨の主張は薄く、顎の線も細い。薄明に光の筋が入ったような複雑な色の髪を長く伸ばし、ほっそりとした項で一つに括っている。
 全てが繊細で、女性的にも見える美しさだが、それを否定するように、ラファエリの目元は黒い布で覆われていた。わずかにズレた布の隙間からは、引き攣れた傷跡が覗いている。
 ラファエリは過去に事故に遭い、視力を失ったのだ。法術による事故だったとマルティンは聞かされているが、本当かどうかは疑わしかった。ラファエリは嘘は言わないが、不都合な真実も口にしないからだ。

「マルティン、悪いが目隠しを巻き直してくれるかい? 自分でやるとすぐに緩くなってしまっていけないね」

 ラファエリは解けかかった目元の布を押さえてマルティンを呼んだ。
 マルティンは言われたとおりに主の背後に回り、布を結び直す。結び目に巻き込んでしまわないよう髪をかき分け、布が耳を押さえないよう注意して、きつくも緩くもなりすぎないように。そして、主の肌に触れる指が震えてしまわないように。

「ああ、ありがとう。君がいるとやはり助かるね」

 長い髪を一度だけ撫で、名残惜しさを堪えて手を離すと、主に柔らかく笑いかけられてマルティンの鼓動は早くなった。
 視覚を失った分、ラファエリは気配に敏感だ。主の身体の一部に触れる度、この人は自分が胸の底に隠した想いをとっくに知っているのではないかと、いつも微かな恐れを感じてしまう。
 マルティンは主の腰掛けた椅子の背を両手で掴み、何もかもを打ち明けてしまいたい欲望にじっと耐えた。

「良い香りがする」

 マルティンの葛藤を知ってか知らずか、ラファエリは香りの出所を探すように鼻をひくつかせながら立ち上がって、窓辺に寄った。片手を彷徨わせ、そっと花に触れる。

「白い薔薇です。棘があるので気をつけて」

 茎に触れようとする指先をマルティンは止めた。

「君が飾ったのかい? この近くに薔薇が咲く場所なんてあったかな?」
「市で買ったんです」

 マルティンが言うと、ラファエリは呆れたように声を上げた。

「わざわざ買った? 君が? なんとまあ。僕は見えないんだから、飾っても仕方がないよ。君の部屋に置きなさい」
「でも、香りはわかるでしょう? 薔薇の香りは嫌いですか?」

 ラファエリは何も言わず肩をすくめる。主が嫌いな物は嫌いだとはっきり言う人だと知っているマルティンは、その仕草を拒絶だとは受け取らない。

「薔薇はここへ置いておきます。夕食は階下で?」
「うん。下で摂ろう」
「では支度ができたらお呼びします」
「僕は少し休むよ。眠っていたら起こしてくれ」

 ラファエリはそう言ってマルティンが整えた寝台に上がる。

 彼はこの屋敷の中では目が見えているかのように振る舞うことができる。マルティンが、主が覚えているとおりに全ての物の位置を少しの狂いもなく整えているからだ。

───いつか、あの美しい人が、自分無しでは生きていけなくなれば良い……

 自分の願いが人の道を踏み外したものだとマルティンは知っている。踏み外した先で、自分が彼に何をしたいかも、わかっている。
 名残惜しげに寝台の上を一瞥したマルティンは、静かに扉を閉めて部屋を後にした。


 一人になったラファエリは、目隠しの薄い布の下で瞼を閉じ、深い呼吸を繰り返した。窓辺からは徐々に冷えてくる空気と共に薔薇の甘い香りが漂ってくる。マルティンがわざわざ自分の為にそれを買ったのだと思うと、嬉しくもあり辛くもあった。
 マルティンは元は騎士だ。盲の自分の従者になど本来なるはずのない人物なのだ。彼の罪悪感と優しさにつけ込んでいつまでも献身を強いている自分は、どうしようもないロクデナシだ。

 ラファエリそっと両手で鼻と口を覆う。いくらふさいでも指の隙間から薔薇の甘い香りは忍び込む。
 まるでいつの間にか自分の生活に入り込んで、抗いがたい安らぎを勝手に与えてくるマルティンのように。

「──追い出せないものは嫌いだよ……」

 ポツリと呟いた言葉は、行き場を失って甘い花の香りに溶けた。


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