翼の統べる国

たまむし

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17.一夜の慰め-3※

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 ウムトは細い銀糸の間に鼻を埋めて、うっとりするような幸せと、どうしようもない寂しさに引き裂かれそうになっていた。
 少し温度の低いさらりとした肌も、柔らかくはない身体の輪郭も、自分と同じように分かりやすい快楽の印も、少し意地悪で器用な手も、挑発的に動く脚も、奥にある未知の場所も、全部愛しくてたまらない。自分だけのものにして愛したい。
しかしオティアンは遠からず自分の元を去ってしまう。それが既に耐えがたい。明日の朝に別れることすら嫌だ。

 一時の慰めのために相手をしてくれたことは分かっている。最初にそう言われたし、自分もそれを承知で肌に触れた。けれど、触れてしまった後は、渇きはますますひどくなった。

 ─ 初めて心から欲しいと思った人。触れさせてはくれるけれど、求めてはくれない酷い人。腕の中にいるのに、どこか遠くに離れているような気がする。

 瞬きすると涙で睫毛が濡れた。ウムトは溢れそうな気持ちをこらえようと、すぐ目の前にある首と肩の付け根を軽く噛む。乾いた汗と、冷たい花のような香りがする。何度も食んでいると、オティアンがくすぐったげに肩をすくめた。

「こら、噛み跡を残すなよ」

「……オティアン、オレのものになって」

 肩に頭をこすりつけながら甘えるように言うと、鼻で笑われて腕から逃げられてしまう。薄い毛布を羽織ってベッドの上であぐらをかくオティアンは、ウムトの目にはどんな美姫より蠱惑的に思えた。

「今夜は君のものだよ。慰めが必要になれば、いつでもここに来れば良い。次は最後までしてみる?」

「そうじゃなくて……」

 一夜だけではなくて、ずっと、身体だけではなくて心ごと欲しい、と言いかけてやめる。彼の心が自分に向いてないのは少し考えれば分かることだった。

「……あなたは優しいけど、ひどい人だね。好きにさせるくせに、オレのことは好きになってくれない」

 溜息と共に吐き出すと、オティアンは軽い調子で

「おや、オレも君が好きだよ。嫌な相手に触れさせるほど酔狂じゃない」

 と返してくる。ウムトは恨めしそうな上目遣いで、

「そういうところがヒドいんだ」

 と言いつつ、オティアンの膝に頭を乗せた。

 ウムトの、甘えはするが深追いしてこない態度は、彼がこれまで諦めてきた物の多さを暗示するようで、オティアンは若干良心が痛むのを感じた。
 柔らかな癖毛を撫でてやって、ベッドサイドのランプを吹き消すと、長い手が伸びてきて抱き込まれる。窮屈だが、せめてもの罪滅ぼしに今夜は大人しく抱き枕になってやろうと、軽く息をついて目を閉じた。




 短い夜が明ける頃、歓楽街の広場には澄んだベルの音が鳴り響く。それに続いて、各娼家でもベルが鳴る。一夜の終わりを告げる音が、透明な夜明けの空気の中を寂しく漂っていく。
 美しいベルの音は、この後も娼婦の部屋に居続ければ別料金がかかるという現実的な知らせでもあった。

 もう耳慣れたその音で目を覚ましたオティアンは、腹の上に乗っていたウムトの手をどけてベッドを下り、部屋着を身につけて窓を細く開けた。冷たい風が部屋にこもった酒精の匂いと温気を洗い流していく。

「……オティアン?」

 眠たげな声に振り返ると、ウムトが目を擦りながら身を起こしたところだった。

ハディおはよう、ウムト。朝食はどうする?」

「……腹は減ってない。それより、こっちに来て」

 眠そうな顔で手招きされたが、オティアンは窓際に立ったまま笑って首を振った。

「夜はもうおしまい。君のお客人は明るくなる前に帰るみたいだよ」

 窓の隙間から見えている広場では、昨夜ウムトが連れてきた客の男二人が馬車に乗り込んでいる。レムリとハリファ、アイシェが並んでそれを丁重に見送っているのが見えた。
 ウムトは溜息をついてクシャクシャの髪を両手でかき上げ、昨晩脱ぎ散らかした衣服を身につけながら窓に寄った。しかし外をチラリと見ただけで閉めてしまい、オティアンに抱きつく。

「戻りたくない」

「それは困った。オレが君をたぶらかしたとムディク殿が怒るだろう」

「嘘。本当は困ってないくせに」

 ウムトはむっと唇をとがらせてオティアンに口づける。オティアンが片頬だけで笑うと、溜息をついて肩口に顔を埋めた。

「嫌だな……そういう意地悪な顔も好きだと思ってしまう」

「ハハ、ずいぶん好かれてしまったね」

「オレも驚いてる。こんな風に人を欲しいと思うのは初めてだから」

 切なげに揺れる榛色の目に間近からのぞき込まれ、オティアンは腹の底がくすぐったくなるのを感じた。
 駆け引きができないわけでもないだろうに、何の衒いもなく真っ正直に気持ちを告げるのは若さのせいか、それともそういう性分なのか。よく躾けられた人懐こい犬のようだ。慕われて悪い気はしない。

「またいつでもおいで。この国にいる間は、オレは君のものだ」

 幼い子にするように頬にキスしてやると、恨めしげに睨まれて、噛みつくように口づけられた。舌を引っ張り出されて前歯で噛まれ、口の中を滅茶苦茶に舐め回される。
 朝には到底ふさわしくない口づけを解くと、唇の間には唾液の糸がかかり、二人とも軽く息が上がっていた。

「アマジヤにいる間はオレのものでいてくれると言うなら、一緒に来てよ。ずっととは言わないから、いられる間は側にいて」

 ウムトは濡れた唇同士を擦りあわせるようにしながら囁く。

「どこに? 君の邸にか?」

皇都ラウズィムに」

「都? どういうことだ?」

 オティアンが怪訝そうに眉をひそめると、ウムトは額同士を押しつけるようにしながら囁く。

「父上の誕生を祝う祭りと、フズル兄上の出陣式があるんだ。オレも姉上も呼ばれてて、出ないわけにはいかない。だけど、気が重くて。あなたが一緒に来てくれたら、行き先が宮殿でも楽しい旅になる」

 それを聞いて、オティアンの意識がパチンと音を立てて切り替わった。
 ファタリタに戻る前にアマジヤの都を見たいと思っていたのだ。ウムトの誘いは渡りに船だった。出陣式もあるのなら、軍備の様子も見られるだろうから、一石二鳥だ。

「その祭りは調査船が出発する前にあるのか?」

「うん。暗黒海の調査は、父上の生誕祝賀事業の一つってことになってるから」

 ウムトは憂鬱そうに溜息をこぼしたが、オティアンは内心踊りだしたいような気分だった。

「是非連れて行って欲しい。君の国の都をこの目で見てみたい」

 そう言って目をのぞき込むと、ウムトは嬉しそうに頬を緩めて

ありがとうダルミーヤ

 とオティアンの薄い唇に自分の唇を押し当てた。
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