翼の統べる国

たまむし

文字の大きさ
上 下
14 / 19

12.ウムトとムディク

しおりを挟む
 兄のようでもあり、無二の友でもあるムディクとは、もうずいぶん長い付き合いだ。
 出会ったのはウムトが三歳の頃だった。
 アマジヤの後宮で心を病んだ母がファナに戻されることになり、幼いウムトもそれについて行くことになったのだ。

 皇都ラウズィムから小さな船でファナへ向かい、見慣れたアマジヤ風の港の城壁を出た途端、眼前に広がった砂の海に幼いウムトはひどく怯えた。母エシンの出身地までは、ラクダに乗って三日もかかる。ラウズィムの宮殿にいた訓練された馬に比べると、気に入らないことがあるとすぐに唾を飛ばすラクダはひどく野蛮な動物に思えて、ウムトは乗っている間中、母の腕にしがみついていた。
 母の部族は、砂漠に点在する小さなオアシスにしがみつくように暮らしている集団だった。ファナの気候は気まぐれで、季節によって雨が降る場所と降らない場所の差が激しい。各部族は水と草のある場所を追って砂の海を移動しながら暮らす。
 ファナの部族は、かつてはラクダで隊商を組み、アマジヤと東の国々との交易を仲立ちすることで栄えていたのだが、東の情勢が悪化して隊商路が途絶えたことで、暮らしが立ち行かなくなったのだ。
 幼いウムトには、そんなことは理解できない。贅沢な宮殿とはまるで違う粗末な天幕暮らしになじめなかった。

 故郷に帰った母は、すぐに心の病のほかに体の病も得て寝付いてしまった。今から思えば、そのとき周りの人々はそれなりに親切だったのだが、今まで何くれとなく世話を焼いてくれていた侍女たちのいない生活はつらく、ウムトは泣いてばかりいた。
 その日も、誰も食べさせてくれない朝食の皿と格闘して汁をひっくり返してしまったウムトが、汚れた服をつまんで泣いていると、少し年上の少年が現れて、

「何で泣くの?」

 と声をかけてきたのだ。やせっぽちでファナ人としても色の黒い少年は、頭髪をすべて剃り上げて綺麗な形の頭部を露わにしている。

「ふくがよごれたの。だれも おきがえをもってきてくれない」

 ウムトがしゃくり上げながら訴えると、少年はまるでわからないというように首を傾げる。

「脱いで洗えば?」

「おきがえは?」

「いや、だから洗うんだって」

 少年は水差しからほんのわずかな水を桶に移してウムトの服を脱がせ、汚れた部分だけを丁寧にすすいだ。濡れたままの服を着せられたウムトは、またべそをかく。

「きもちわるいよぅ……」

「すぐ乾くってば! ほらおいで。水は使った分足さないといけない」

 少年は汚れた水の桶をもって天幕を出て行く。ウムトは濡れた服地が肌につかないよう指でつまみ上げたまま後を追う。少年は天幕の側につながれていたラクダの前に桶を置いて、ウムトを手招いている。ラクダはあっという間に水を飲み干し、長い舌で口の周りを舐めている。ラクダが怖いウムトは天幕の中に逃げ帰ろうとしたが、少年に手を捕まれてラクダの側に連れて行かれた。

「お前が怖がるからラクダも怖いんだよ。別に怖くないって!」

 無理矢理手を捕まれて、汚れた黄色い毛皮に触らされる。触ってみると、それほど嫌な感触ではなかった。よく見てみると、大きな瞳と長いまつげがかわいらしいような気もする。

「平気だろ? こいつは一番大人しいヤツだから、こんなことしても怒らない」

 少年はそう言って、ラクダの長い首に飛びついて喉元の長い毛を乱暴になで回した。ラクダは諦めたような顔でじっとしていたが、あまりにしつこく触られて怒ったのか、突然大きく首を振って少年を地面に突き飛ばし、ベッと唾を吐きかけた。
 少年は頬についた唾を片手で拭い、

「……まあ、やり過ぎるとこうなるけど」

 と顔をしかめる。ウムトは思わず笑ってしまった。

「よくも笑ったな! でも泣いてるよりは良い。お前が泣いてばっかりだと、母ちゃんも悲しくなるだろ」

 少年はそう言って、ウムトの巻き毛をくしゃりと撫でる。その手がラクダ臭くて、ウムトはまた泣きそうになってしまったが、ぐっと唇を噛んで耐えてうなずいた。

「よし、じゃあ水を汲みに行こう。オレはムディク。お前は?」

「……ウムト」

 ウムトはぽつりと答える。そういえば、ここに来てから名を聞かれるのは初めてだった。みな、トラブルになるのが怖くて、エシンが連れ帰ってきた皇帝の子を避けていたのだ。

希望ウムトかあ。そうなれるように頑張れよ」

 ウムトが見上げた少年の顔は、ファナの過酷な太陽を背にして濃い影に縁取られていた。

 ムディクと知り合って間を置かず、ウムトの母エシンは静かにこの世を去った。誰かがラウズィムの宮殿まで知らせたようで、皇帝からわずかばかりの弔い料が送られてきたが、ウムトを迎えに来る者はいなかった。
 ウムトはムディクの家に引き取られ、ただのファナの少年としてのびのびと暮らした。身の回りのことから、子ども同士の礼儀、遊びのルール、大人の仕事の手伝い方、生きるために必要なことは全部ムディクが教えてくれた。弟を亡くしたばかりだったムディクには、ウムトが弟のように思えていたのかもしれない。ウムトにとっても、ムディクは初めて対等に接してくれた友であり、兄だった。
 ムディクの父は医術を専らとしていて、部族の中でも一目置かれる存在だった。五つ年上のムディクもゆくゆくは家業を継ぐつもりで、早くから頭を丸めて父親の手伝いに精を出していたが、ウムトが十歳になったとき、転機が訪れた。
 異母姉エルヴィラがヴィリスのディラードに嫁ぐことになり、急に異母弟の存在を思い出したように遣いをよこしたのだ。すっかりただの孤児としてファナに馴染んでいたウムトは、最初は姉の呼び出しにひどく戸惑った。しかし、姉の心細さを思うと断ることもできず、ムディクの父の説得もあって、結局はヴィリスへと向かうことになる。

 ヴィリス行きを決めた日の夜、多くはない荷物をまとめているウムトの元に、思い詰めたような顔をしたムディクが姿を見せた。

「オレも行く」

 何を言われているのか理解できなかったウムトが首を傾げていると、ムディクは膝をついて深々と頭を下げ、

「私ムディク・テジェンを、ウムト・アマジヤ・アミラートゥトの陰なる杖にしてください。私は殿下の行く先に必ず付き従い、御身を守りお支えいたします」

 と臣下の誓いを口にした。ついさっきまでは気安くじゃれ合っていた友が、急に改まった態度を取るので、ウムトは

「ムディク? どうしたの? なんかの冗談?」

 と目を白黒させたが、ムディクは顔を上げないまま首を振った。

「オレはファナを出たい。でも、ただ無鉄砲にここから飛び出しても、ファナ人はアマジヤの最下層から這い上がれない。だが、お前の臣下としてなら、最初から身分が保障される。移動も自由にできるし、公の施設にも、学府にも入れる」

 そこでムディクは耐えかねたように顔を上げ、ウムトの足下に悲痛な表情ですがりついた。

「ごめん、ウムト……! オレは最初からそのつもりでお前に近づいた。いつかお前が皇都ラウズィムに戻るとき、一緒に連れて行ってもらえるんじゃないかと思って、お前に優しくした。本当にごめん!」

 ウムトは目も口もぽかんと丸くして、ムディクをただ見下ろしていた。
 初めてできた友達で、兄と慕う人が、見たこともない顔で跪いて自分に頼み事をしている。ムディクがウムト自身を頼りにしてくれているのなら、これほど嬉しいことはなかったが、彼は今ウムトの身分に跪いている。誇り高いファナ人の兄が、ウムトの体の半分を流れる血を通してアマジヤ皇帝に膝をついている。
 ウムトは直感的にそれを理解して、深い悲しみに打たれた。
 ムディクと一緒にヴィリスへ行けるのは嬉しいし、心強くもある。しかし、対等な友としては行けないのだ。ファナ人とアマジヤ人の間にはそれほど深い溝があるのだった。

「……ムディク、謝らないでよ。君にどんな目的があってオレと親しくしてくれたのかは、オレには関係ない。オレは君の弟になれて嬉しかった。兄の君が、これからは臣下になってくれるんなら、すごく心強いよ。これからもよろしくね」

 ウムトはムディクの肩に右手を添えてそう言った。ムディクは一瞬顔をゆがめて唇を噛み、すぐに俯いて

「本当にごめん……ウムト」

 と震える声で呟いた。

 その後、ウムトと友にヴィリスに移ったムディクは、医者になることを諦め、占術師の道へと進んだ。ファナ人の医者に診てもらいたがるアマジヤ人は少ないからだ。成人した皇族は専属の占術師を抱えるが、ウムトの専属になりたがる占術師がいなかったからというのもある。


 ウムトは窓から差し込む月明かりを頼りにグラスに酒を注ぎ、ゆっくりと舐めた。
 兄と敬い友と慕う人にひざまずかれ、臣下の誓いを受けた日の嬉しさと寂しさを、ウムトは今も鮮明に思い出すことができる。思い出すたびに、自分の中にある深い溝についても思いを巡らせてしまう。

 ──混ざり合わないはずの二つの血が、自分にも姉のエルヴィラの身にも流れている……

 月明かりが窓から差し込むだけの薄暗い部屋の中、ムディクの肌は影と同じくらいに黒い。自分の肌はそれよりは少し明るいが、月明かりを跳ね返すほど白くはない。
 暗い肌はファナの印だ。皇帝がファナの側妃を召しても、法がファナ人への差別を禁じても、アマジヤ人がファナの民を見る目は冷たい。

 ファナは苦境に立たされている。
 東方との交易路はたたれたままで、土地は痩せて食料は乏しく、部族同士はしょっちゅう小競り合いを繰り返してまとまることがない。金銀を産する山はあるが、採掘と製錬はアマジヤの技師に頼り切りで、流通もアマジヤ頼み。ファナ人は鉱夫として安く使われるばかりだ。
 独立するべきだという考えは理解できる。しかしアマジヤとの関係なしでは、ファナが立ち行かないのもまた事実なのだ。
 アマジヤとファナ、両方の間でウムトは身動きが取れない。しかし、いつかどちらかを選ばなくてはいけない日が来る。

「……オレはどっちの道を行くべきなんだろうか?」

 苦しげなウムトの問いを聞く者は誰もいない。窓の外には、いつの間にか夜明けの気配が漂い始めていた。ウムトは酔い覚ましに少し散歩しようと、ムディクの私室を後にして、まだ暗い外へと出て行った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

いじめっこ令息に転生したけど、いじめなかったのに義弟が酷い。

えっしゃー(エミリオ猫)
BL
オレはデニス=アッカー伯爵令息(18才)。成績が悪くて跡継ぎから外された一人息子だ。跡継ぎに養子に来た義弟アルフ(15才)を、グレていじめる令息…の予定だったが、ここが物語の中で、義弟いじめの途中に事故で亡くなる事を思いだした。死にたくないので、優しい兄を目指してるのに、義弟はなかなか義兄上大好き!と言ってくれません。反抗期?思春期かな? そして今日も何故かオレの服が脱げそうです? そんなある日、義弟の親友と出会って…。

精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる

風見鶏ーKazamidoriー
BL
 秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。  ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。 ※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。

エロゲ世界のモブに転生したオレの一生のお願い!

たまむし
BL
大学受験に失敗して引きこもりニートになっていた湯島秋央は、二階の自室から転落して死んだ……はずが、直前までプレイしていたR18ゲームの世界に転移してしまった! せっかくの異世界なのに、アキオは主人公のイケメン騎士でもヒロインでもなく、ゲーム序盤で退場するモブになっていて、いきなり投獄されてしまう。 失意の中、アキオは自分の身体から大事なもの(ち●ちん)がなくなっていることに気付く。 「オレは大事なものを取り戻して、エロゲの世界で女の子とエッチなことをする!」 アキオは固い決意を胸に、獄中で知り合った男と協力して牢を抜け出し、冒険の旅に出る。 でも、なぜかお色気イベントは全部男相手に発生するし、モブのはずが世界の命運を変えるアイテムを手にしてしまう。 ちん●んと世界、男と女、どっちを選ぶ? どうする、アキオ!? 完結済み番外編、連載中続編があります。「ファタリタ物語」でタグ検索していただければ出てきますので、そちらもどうぞ! ※同一内容をムーンライトノベルズにも投稿しています※ pixivリクエストボックスでイメージイラストを依頼して描いていただきました。 https://www.pixiv.net/artworks/105819552

ハッピーエンドのために妹に代わって惚れ薬を飲んだ悪役兄の101回目

カギカッコ「」
BL
ヤられて不幸になる妹のハッピーエンドのため、リバース転生し続けている兄は我が身を犠牲にする。妹が飲むはずだった惚れ薬を代わりに飲んで。

【完結】お嬢様の身代わりで冷酷公爵閣下とのお見合いに参加した僕だけど、公爵閣下は僕を離しません

八神紫音
BL
 やりたい放題のわがままお嬢様。そんなお嬢様の付き人……いや、下僕をしている僕は、毎日お嬢様に虐げられる日々。  そんなお嬢様のために、旦那様は王族である公爵閣下との縁談を持ってくるが、それは初めから叶わない縁談。それに気付いたプライドの高いお嬢様は、振られるくらいなら、と僕に女装をしてお嬢様の代わりを果たすよう命令を下す。

神獣の僕、ついに人化できることがバレました。

猫いちご
BL
神獣フェンリルのハクです! 片思いの皇子に人化できるとバレました! 突然思いついた作品なので軽い気持ちで読んでくださると幸いです。 好評だった場合、番外編やエロエロを書こうかなと考えています! 本編二話完結。以降番外編。

イケメン王子四兄弟に捕まって、女にされました。

天災
BL
 イケメン王子四兄弟に捕まりました。  僕は、女にされました。

陛下の失われしイチモツをみつけた者を妃とする!………え、ヤバいどうしよう!?

ミクリ21
BL
主人公がヤバいことしてしまいました。

処理中です...