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2.モブ、旅立ちを決意する
幕間 ─カレル
しおりを挟む急に何の反応もなくなったアキオに驚いたオレは、のし掛かっていた華奢な身体の上から慌てて飛び退き、呼吸を確かめた。
「すー……すー……」
息はしている。薄い胸もゆっくりと上下に動いている。アキオは小さな子どものようなあどけない顔で眠っていた。
良かった。うっかり押しつぶしてしまってはいなかったようだ。
オレは安堵して、顔にかかっていたうっとうしい髪を掻き上げ、一度深く呼吸をした。どっと疲れが押し寄せてくる。
全く、人騒がせなヤツだ。
オレは怪しい茶を半分程度しか飲まなかったが、コイツはコップ一杯飲んでいた。急に昏睡したのは過剰摂取の結果だろう。
あの茶には身体を弛緩させる成分と性的に興奮させる成分とが入っていたようだが、アキオには弛緩剤として強く効いた様子だ。死ぬようなものでは無いから、明日の朝には効果は消えているだろう。
月灯りに照らされ、アキオの口の辺りが濡れて光っているのが見える。オレはさっきまで交わしていた濃厚すぎる口づけを思いだし、下腹が重くうずくのを感じた。
忌々しい薬茶のせいで、下腹の熱はしばらく去りそうにない。ろくでもないタイミングで、そういう対象にしたくない相手から、やっかいな欲望をかき立てられてしまった。
「チッ」
欲を誤魔化すように舌打ちし、アキオの口元を指で乱暴に拭い、中途半端に捲れ上がったシャツを下ろしてやる。多少身じろいでも肌が見えないようにしっかり毛布で全身を包んだ後、オレはなるべくアキオから離れた壁際に背中を預けて座り、深く溜息をついた。
目だけを動かして、よく眠っているアキオをチラリと見る。
取り立てて美しくも逞しくもない、どこにでもいそうなファタリタの若者だが、平凡な見た目に反してアキオは希有な存在だ。
しゃべると子どもっぽく世間知らずだが、しかし時折、賢者のような言葉で語る。焦茶色の瞳には思慮深さと無邪気さが同時に存在して、それがくるくると入れ替わった。
臆病なくせに、獣化したオレを見ても怯えない豪胆さも持ち合わせている。危うい状況でも喜怒哀楽を表すことをためらわず、大聖女を平然と呼び捨てにし、オレのような外れ者や、ルチアーノのような身分の高い人間にも怖じ気づくことがない。
善良なファタリタ人の顔をしているくせに、命願教の聖地の湖では、何の躊躇いもなく神聖なボートを乗っ取った。では柔な見かけは目くらましで、実は性根の座った悪党なのかとも思ったが、奪ったボートの上から必死に差し伸べられた手がそうではないと語っていた。ファタリタでは迫害される異邦人のオレと連れ立つより、そのまま一人で逃げた方が都合が良かったろうに、そうしようとはしなかった。
誰も彼もが命願教の毒に侵されているファタリタで、オレがアキオのような存在と出会えたことは、ほとんど奇跡だった。
ムニャムニャ言いながら寝返りを打つアキオを、月明かりが優しく照らしている。敷布に投げ出された腕は、頼りなく細い。力仕事をする手ではない。
大聖堂で下働きをしていたと言っていたが、だったら階下で行われていたあの儀式について知らないはずはない。年からしてすでに参加していてもおかしくはないし、薬茶の効能についても知っていそうなものだが、アキオは本当に知らなかったのだろうか。
それに、あの光る石。
普通の人間が偶然手にできるとは思えない。
あの石について知っているのは、この国の上層部でも数えるほどだろう。それをアキオが持っていて、本人も持っていることを知らなかった様子なのは何故なのか。
アキオには、どうも得体の知れないところがある。
この国は、命願教という宗教が全てを牛耳っている。
命願教は、神から分け与えられた命を宿しているが故に、全ての人間は尊いと説く。だから動物の命を持つ混ざり者は忌避される。
元々はファタリタ大陸では混ざり者と人間が共に暮らしていたのだが、命願教が広まってからは、混ざり者は西の島と北の外れへと追いやられた。
棲み分けがなされている間は平和だったのだが、ここ数十年で両者の間柄は状況は急激に悪化していた。混ざり者がファタリタへ無理に連行され、ほとんど奴隷のような扱いを受けるようになっているのだ。
オレは、ファタリタで何が起こっているのかを確かめるためにここへ来た。
連れてこられた同胞たちは命願教によって洗脳され、自ら望んでファタリタ人に奉仕しているのだと思い込まされている。オレは洗脳を解く手がかりを探そうと大聖堂の書庫へと忍び込み、古い記録を探っている最中に下手を打って捕まった。
捕まった当初は、牢を抜けるのなど簡単だと高をくくっていた。熊になって暴れれば、鉄の格子も岩の壁も大した障害じゃなくなるからだ。
しかし、敵はオレの知らない術を使って獣化を阻んだ。どういうカラクリかはわからない。尋問前に香を嗅がされ、鞭打たれる度に傷口に何かを擦り込まれると、どうもがいても身体が変化しなくなった。
洗脳された同胞たちが獣化できなくなっていた事から、危険を予測しておくべきだった。ファタリタの衛兵如きに何ができると、慢心していたのもあった。
獣化できないオレは、牢で完全に手詰まりになっていた。
そして、じわじわと弱って死ぬしかないのかと諦めかけていた時、アキオが来たのだ。
それ以前にも、ファタリタ人の犯罪者が投獄されることはあった。しかし、彼らはオレを恐れ、話しかけても答えが返ってくることはなかった。まともに話ができたのはアキオが初めてだった。
得体の知れない薬草で手当された時は、感謝はしたが効果には対して期待していなかった。アキオの手つきはいかにも覚束なかったし、血を見るのも初めてらしく、真っ青になって震えていたからだ。
なのに、効果は絶大だった。
たった一晩の眠りで、投獄されてからずっと霧がかかったようだった思考が明確になり、獣の魂を呼び覚ませるようになっていたのだ。
アキオはオレの命の恩人になった。
命の恩は、命を賭けて返すものだ。オレはアキオの命の安全が確保されるまでは、彼を守ると決めた。
──けれど、そう決めたが故に、オレはアキオに深入りしたくない。
なぜなら、オレの本性の半分が獣だからだ。
熊は元来、執着の深い生き物だ。
一度獲物と認識したら、手に入れるまで執拗に付け狙う。手に入れたら懐に囲い込み、誰にも見せず、骨になるまでしゃぶり尽くす。
平常時は、オレの中で熊の本能が優位になる事はない。たとえ身体が獣化していても、意識は人のままだ。ただし、一度感情が暴走してしまうと、どうなるかは分からない。
そして、たいていの場合、暴走のきっかけになるのは発情なのだ。
相手が同種なら問題ないが、万が一アキオを番う相手だと思い込んでしまったら、守るどころではなくなる。旅の目的も何もかも投げ出して抱き潰すだろう。アキオは男だが、混ざり者にとって肉体の雌雄はあまり問題にならない。
既にアキオはオレにとって特別な存在だ。そこに性的な接触が加われば、いつスイッチが入ってしまってもおかしくない。
オレにも、アキオにも、それぞれ別の思惑と目的がある。
獣の本能に引きずられて、それらを達成できなくなるようなことは、絶対に避けたかった。
「うう~~~ん……へへへ……おっぱい……」
間の抜けた声を上げ、アキオが寝返りをうつ。豚の女の胸を揉んでいる夢でも見ているのだろうかと思うと、胸の底がチリと焦げた。
「チッ! お前がくだらない薬でラリったせいで面倒な事になったんだぞ」
オレは片手だけ伸ばし、脳天気なアキオの額を緩く弾く。
「うぅ……」
アキオは眠ったまま小さく呻き、眉を寄せて毛布の中で丸まった。オレは伸ばした手を強く握って、湧き上がる衝動を押し殺す。
ギュッとつむった目を開くと、窓からは夜明けの光がうっすらと差し込み始めていた。長いような短いような夜が明けたのだ。
今更とても眠れそうもないが、オレは壁際で座ったままじっと目を閉じた。
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