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1.異世界のモブ、牢から逃げる

1-7.モブ、脱獄する

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 硬い毛で覆われた背中は乗り心地最悪で臭いも酷いが、ここで落ちたらきっと死ぬ。オレは振り落とされないよう必死で背中にへばりついた。
 熊はすごい勢いで地上へ続く石段を駆け上がり、四隅を鉄で補強された重そうな扉を殴りつけて開けた。途端に眩しい光に目を灼かれる。熊も目が眩んだのか、足を緩めて頭を振っている。

 何度か瞬きして目が慣れると、荷車で石を運んでいる人夫と目が合った。人夫は恐怖に顔を歪めて大きく口を開け、

「牢破りだ! 騎士団に知らせろー!」

 と叫んで駆けだした。熊は全身の毛を逆立て、それを追おうとする。オレは必死で止めた。

「やめろよ、あの人は関係ないだろ! それより逃げるんだ! 湖は左だ!」

 そこだけ妙に可愛らしい丸っこい耳を全力で引っ張ると、熊は恐ろしい声で吼えてから、左に向かって駆け出した。

 地下牢の上には、大聖堂で働く下僕達の宿舎がある。大聖堂とは比べものにならない粗末な平屋の建物を回り込み、低い石垣を越えると昨夜見た東屋が見えた。

「あっち! あの東屋の向こうにボートが繋いであるはずだ!」

 耳元で叫ぶと、熊は一つ咆吼して走るスピードを上げた。


 薔薇の絡んだアーチをぶち壊しながら東屋へ飛び込むと、小さな桟橋が湖の方へ伸びていた。その先に優雅な形のボートが繋いである。
 あんな華奢なボートにこの熊が乗り込めるかな……。
 不安に思っていると、しがみついていた熊の首が急にボリュームダウンし、オレは獣の背中から滑り落ちて桟橋横の浅瀬に着水した。

「冷てえっ!」

 湖の水は凍るほどに冷たい。脛まで水に浸かってしまったオレは桟橋の上に跳び上がったが、人型に戻ったカレルは再びオレを水の中に突き飛ばした。

「オイッ! 何するんだよっ!」
 浅瀬に尻餅をついて怒鳴ると、桟橋の上のカレルはオレに背を向けて東屋のほうへ向かって構えていた。
 隙の無い姿勢なんだけど、さっき巨大熊に変身して服がはじけ飛んだせいで全裸なんだよなあ……。伸び放題の髪で背中は半分隠れてるけど、ケツは丸出し。

 男のケツは見たくないなあと視線を動かすと、東屋に一人の騎士がいることに気がついた。
 金髪長身、髭一つ無い清潔そうな整った白い顔。
 主人公のアイツだ。

 騎士は鋭い剣の切っ先を熊男に向け、

「穢らわしい混ざり者め、丸腰でどうするつもりだ」

 と冷たい声で言い放った。

「人間の一人や二人、武器が無くてもひねれるさ」

 カレルが馬鹿にしたように小首を傾げて答えると、

「……ならば手加減しない」

 騎士は剣を振り上げてカレルに飛びかかった。

 オレはビビって思わず二人の戦闘からは目を背けてしまう。オレを助けてくれたカレルが剣で傷つけられて血を流すところは見たくなかった。

 一刻も早くここを離れるため、浅瀬を必死で走って桟橋の先にあるボートを目指す。ここで逃げ切れなかったら確実に殺されるという恐怖と興奮で身体の感覚が麻痺して、水の冷たさは感じなかった。

 湖は途中から急に深くなる。オレは半分泳ぎながらボートの縁にしがみついた。揺れる船縁に手をかけ、腕の力で身体を舟の上に引き上げる。
 鉄棒で逆上がりもできないオレの身体のどこにそんな力があったのか分からないが、とにかく舟に乗り込んだオレは、ボートを繋いでいるロープを外した。

「おーい! カレル、こっち!」

 桟橋の先端を思いっきり蹴って沖へとボートを進めながら、オレは岸へ向かって声を張り上げる。騎士の打撃をギリギリでかわしたカレルは、チラリとオレの方を向いて頷いた後、躊躇いなく湖に飛び込んだ。

「貴様! 神聖な湖に裸で飛び込むとは、なんたる狼藉!」

 騎士は桟橋を走りながら叫んだが、カレルは取り合わずに抜き手を切って泳ぎ、あっという間にボートに辿り着く。

「やった! これで逃げ切れる!」

 オレがびしょ濡れの熊男を引っ張り上げながらガッツポーズを取ると、桟橋の突端に立ち尽くしてオレたちを睨んでいた騎士は、すごい形相で片手に持っていた剣をボートに向かって投げつけてきた。

「ギャーッ!?」

 恐ろしい勢いで飛んできた剣は、鈍い音を立ててボートの縁に突き刺さる。

「あっぶないだろ!? 刺さって死んだらどうするんだ!?」

 騎士はオレの抗議を無視して、身につけている金属製の防具を外し始めた。

「ヤバっ! あいつこっちに乗り込んでくるつもりだ!」

 オレは船尾に付いていたオールを持って闇雲にこぎ出したが、ボートを動かすのなんか生まれて初めてだから、まともに進まずその場でゆっくり弧を描いて岸へと近づいてしまう。

「馬鹿! 何をやってるんだ」

 びしょ濡れでしゃがみ込んでいたカレルがオレの後ろから手を伸ばし、オールを一緒に握って動かし始めた。途端にボートはすごい早さで沖へ進みだし、オレは尊敬の瞳でカレルを見上げてしまう。

「アンタ、すごいなあ。熊になれるし、素手で剣持った騎士と渡り合うし、舟も漕げるんだ……」
「感心してる場合か。向こうが舟を出したらすぐに追いつかれるぞ。どっちへ進めば良いのか、お前が案内しろ!」

 ボートは既に桟橋からは相当離れている。
 橋の先端で防具を外していた騎士は、流石に泳いで追いかけてくるのは諦めたのか、姿が見えなくなっていた。代わりに岸辺を十数人ほどの騎士達が走っているのが見える。他の船着き場から舟を出すつもりなのだろう。

 オレは慌てて舳先へ回り、対岸へと目を凝らした。
 しかし、急に霧が出てきて見通しが悪くなってきている。左右を確かめると、ついさっきまで見えていた岸が霧で見えなくなっていた。風はそよとも吹かず、周囲は真っ白な闇に閉ざされている。その中で、ボートは相変わらずかなりの速度で進んでいるようだった。

「ちょっと方角がわかんないから漕ぐのやめてもらって良い?」
「とっくに漕いでない。勝手に流れているんだ」

声をかけると、船尾のカレルは両手の平を上に向けて肩をすくめて見せた。オールは完全に手から離れて舟淵で止まっている。

「え、コワ! なんで?」
「知るか。何も起きなければ良いがな……」

 カレルは船縁に刺さったままだった騎士の剣を抜き、すぐに手に取れるよう傍に置いて船尾に座った。

 オレたちを取り囲む霧はどんどん濃くなり、手を伸ばせば触れられる距離にいるはずのカレルの顔すら、よく見えなくなってしまった。
 風がないのにボートは微かな水音を立てながらどこかへ進んでいく。聞こえる物音と言えばそれくらいで、追っ手の声や他の音は一切聞こえない。

「なあ、そこにいるよな……?」

 船尾の方へ手を伸ばすと、太い腕が伸びてきてギュッと手首を握られた。

「いる。この霧は自然のものとは思えない。気をつけろ」
「うん」

 オレは警戒しながら頷いたけど、刺激の無い時間が続くと段々眠くなってしまって、気がつけばいつの間にか眠りの底へと落ちていってしまった───

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