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【二年前】原田

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 清高はムシャクシャした気分のまま電車に飛び乗り、原田の店へと向かった。不定休の店が開いているかどうかは賭けだが、閉まっていればそのまま帰るだけだ。
 土曜日の昼下がり、工場町は人気もなく静かだ。空には、今にも雨が降りそうな雲が重く垂れ下がっている。
 原田の店はトタン張りの倉庫を改装したもので、元の倉庫の半分が店、半分がガレージになっている。店の方のシャッターは半分だけ開いていた。何度か叩いても応答はなく、清高は腰を屈めて中を覗き込む。ショーケースの灯りはついていなかったが、カウンターの奥は明るかった。作業中だろうか。
 中へ入ろうか迷っていると、ガレージ側のシャッターが内側から乱暴に押し開けられ、スマホを耳に当て、怒りも露わに外国語でまくし立てている原田が姿を見せた。
 原田は店の前に立っている清高を認めた途端、目を丸くしてすぐに通話を切り、

「どうした? 今日は呼んでないよ」

 と薄い唇を笑みの形にした。声はいつも通り優しいが、切れ長の細い目は笑っていない。

「オレはデリヘルじゃねーし、呼ばれてなくても来て良いでしょ。しばらく泊めてよ」

 清高はいつもと違う居心地悪さを感じつつ、軽い調子で頼む。原田は蛇のような目で清高を上から下まで一瞥し、

「良いけど……オレは今日は用があるから相手はできない」

 と肩をすくめた。

「いい。寝るとこ探してるだけだから」

「家は?」

「帰りたくない。姉貴が帰ってきてて、寝る場所ない」

「はは……家出少年か。いいよ、上使って」

 原田は片手で店のシャッターを上げる。ダボッとした白いトレーナーの袖口から、複雑な模様のタトゥーが覗く。清高が促されるまま中へ入ると、微かな腐臭がした。

「臭う? ごめんな、この間ゴミを出し忘れてさ。今から捨てに行くから気にすんなよ」

 清高がわずかに顔をしかめたのに目ざとく気付いた原田が、先回りして言い訳する。
 原田がここで水以外のものを口にするのを見たことがない清高は少し驚いたが、二階へ上がると臭いは薄れたので、あまり気にしないことにした。

 清高が服のまま仮眠用のベッドに潜り込むと、原田は

「おやすみ」

と声を掛けて階下へと戻っていく。
 耳を澄ませると、原田が電話する低い声が聞こえ、しばらく後にシャッターを開け閉めする音がして、車のエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえた。
 そういえば、清高は原田が車庫から車を出すところを見たことがない。二人で出かけることなど一度もなかったから当然だ。
 それどころか、一緒にメシを食ったこともない。住処すら知らない。知っているのは、この店の中で働く姿と、ベッドの上の振る舞いだけだ。

───カタギと思わん方がええぞ……

 宮脇の心配そうな顔が脳裏によみがえってくる。

「うっせ……」

 清高は微かな不安をかき消すように、一言呟いて眠りに落ちた。


 目覚めた時は真っ暗だった。ポケットに入れたままだったスマホを見ると、夜中の十一時時だ。ここへ来たのが三時頃だったから、八時間も眠っていた計算になる。
 画面には姉からの着信通知が一件。宮脇からメッセージが一件。どちらも無視してスマホを枕元に放り投げ、トイレへ向かう。暗い中を手探りで移動していると、足先が何かにぶつかり、ドサドサと物が落ちる音がした。

「ヤッベ……」

 慌てて作業机の上にある電気スタンドのスイッチをひねる。小ぶりの段ボールが横倒しになっているのが黄色い光に照らされた。段ボールからは、ショップのロゴが入った名刺大のカードがあふれている。慌てて拾い集めようとしゃがむと、

「何をしてる?」

 と背後から急に原田の声がして、清高は口から心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
 原田は片手に弁当屋のロゴの入ったビニール袋をぶら下げ、いつも通りの薄笑いを浮かべている。

「っ! ごめん! 寝ぼけてこの箱蹴り倒しちゃって……!」

 清高が大急ぎで散らばったカードをかき集めていると、原田は清高の手からそれを取り上げて乱暴に箱に押し込み、

「気にしないで良い。どうせ捨てるものだから。それより腹減ってないか?」

 と片手にぶら下げた弁当屋の袋を揺らした。

「減ってるけど……ここは飲食禁止って言ってなかった?」

「ああ、もういい。ここは引き払おうと思ってるから」

 原田はさらりと言い、自分の分の弁当を持ってベッドに腰掛けた。思いもよらない言葉に、清高は驚いて何度も目を瞬かせてしまう。

「引き払う? 店は? 移転すんの?」

「移転は考えてない。しばらくは海外でのんびりしようと思って」

 原田は平然と言い、スプーンで米をすくって口に運ぶ。清高はなんだか裏切られたような気分になった。
 一応それなりに長く親しい付き合いをしてきたつもりではあったし、不定期のアルバイトとは言え店を手伝ってきたという気持ちもあったから、閉店の予定を聞かされていなかったのはショックだ。
 清高が生温かい弁当の容器を抱えて立ち竦んでいると、原田は

「そこに座って食いなよ」

 とスプーンで作業台の前の椅子を示した。いつもなら工具や材料が整然と並んでいるはずの作業台の上は、ほとんど空っぽになっている。原田は本気でここから出て行くつもりのようだ。

「……閉めるんなら、先に知らせてくれても良かったじゃん」

 釈然としないまま清高は椅子に腰掛け、恨み言に聞こえないよう努めて軽い調子で言った。原田はチラリと清高に視線を向け、

「寂しいか?」

 と口元を歪める。

「別に。違うバイト探さなきゃなと思っただけ」

「強がるなよ。寂しいだろ?」

 原田は空になった弁当箱を袋に突っ込み、ベッドから立ち上がって清高の前に立つ。原田は痩身で背もそれほど高くはないが、鋭い目で見下ろされるとひどく圧迫感があった。顎に手をかけて上を向かされる。清高が首を横に向けて逃げると、原田は短く笑いを漏らした。

「オレがどこ行くか聞かねえの?」

 原田の指が清高の耳をくすぐり、髪を撫でる。この男はいつもこういうやり方で清高を煽る。ほのめかしで気を引いて、こっちが反応するのを待っている。卑怯だと思うが、上手くかわせるほど清高は大人ではなかった。
 精一杯の意趣返しのつもりで、

「……Princesa王女様のとこだろ」

 と原田を睨む。なるべくさらりと聞こえるように言ったつもりだったが、語尾が微かに震えてしまって悔しかった。

Princesa王女様?」

 原田は笑い含みに問い返してくる。清高は舌打ちして髪に絡んだ原田の指を振り払った。

「知ってんだよ! アンタがずっと連絡してる女がいるのは! オレは外国語は分かんねえけど、何回も何回も聞かされたら、”Princesa"の一言くらいは聞き取れる。アンタがオレの相手したのは単なる気まぐれなのは分かってるけど……っ!」

 まくし立てると、頬を両手で挟まれて上を向かされ、口づけられた。近すぎてぼやけた視界で、原田が元々細い目を更に細めている。
 押しつけられた薄い唇は、何度か清高の唇を噛むようにした後、アッサリと離れた。

「おまえは可愛いねえ、もとい

 原田は腰を屈めて清高の頬を両手で包んだまま、底の見えない笑みを浮かべて言う。

「……ご機嫌取りのつもりかよ?」

「はは……そう怒るなよ。ご機嫌取りくらいさせてくれよ。オレはお前が思うより、お前を好きなんだぜ?」

「るっせぇ! 捨てるつもりなのに、こんなコトすんな!」

 清高が頬を掴む原田の手を振り払おうとすると、素早く腕をひねり上げられ、再び顎をガッチリと掴まれた。痛みに思わず眉が寄る。

「基、オレはお前に良くしてやって来ただろ? お前が望むことは全部教えてやったし、お前がして欲しいように相手をしてやった。お前の秘密の恋人ごっこにも付き合ってやったよな?」

 形だけは笑っているが、原田の三日月のように細い目には酷薄な光が浮かんでいる。清高は眉間に皺を寄せたままそれを無言でにらみ返したが、胸には『恋人ごっこ』の一言が深々と刺さっていた。

「Princesa、Princesa……Querida princesa愛しい王女様! 王女様には逆らえない。お前が何を誤解してるのか知らないが、王女様はオレの女なんかじゃない」

 原田は歌うように囁く。優しげな笑みを浮かべた顔とは裏腹に、清高の顎を掴む指にはますます力が入って、顎関節が軋み出した。手首を掴んで引き剥がそうとしても、原田の手はびくともしない。細い腕のどこからそんな力が出てくるのか。痛みと恐怖で清高の息が荒くなり始めると、顎を砕きそうだった原田の手はアッサリ離れた。

「正体が知りたいか?」

 清高は掴まれていた場所を何度も手で擦って痛みを散らしつつ、原田を睨む。

「……知りたいっつったら教えてくれんのかよ?」

「教えてやっても良い。だけど、知ったらもうお前は戻れない。覚悟はあるか?」

 原田は薄く笑ったまま言って、屈んだままだった腰を伸ばした。清高は嫌な緊張感に襲われて、ゴクリと唾を飲み込む。頭の隅に警告灯が灯った。聞かない方が良い、このまま何も知らずに別れた方が良い。そう思うのに、口は勝手に疑問を発してしまう。

「……どういうこと?」

 硬い顔で尋ねる清高に向かって、原田は嗜虐と満足の入り交じった笑みを見せた。

「オレはね、基、お前の事を買ってるんだよ。お前は他の馬鹿なチンピラと違って頭が良い。入っちゃいけない領分をちゃんと弁えてる。”普通”が何か分かってる。そういう感覚が大事なんだよ」

 原田は節の目立つ細長い人差し指で清高の額を押し、そのまま指を真っ直ぐに滑らせる。鼻から顎、首、胸へとラインを引くようになぞり、心臓の位置で止める。
 何を言われているのか分からず、清高は原田の指を見下ろして当惑した。

「境界線を理解してる人間しか、線を跳び越えることはできない。わかってねえ奴らはフラフラ深みにはまり込んで破滅する。お前は違う。この三年、オレの回りをうろちょろして、もう分かってんだろ? オレの商売が単なるアクセサリー屋じゃねえのはよ?」

 ぐいと胸を押されて、清高は息を呑んだ。
 『そんな事は知らない』。そう言いたかった。けれど、言えなかった。
 原田に裏の顔があるのは、とっくに勘づいていた。危ないと本能が告げているのに、理性でそれを押さえつけて、見ない振りをしていたのだ。原田が知らせなかったから、信じる振りをしていただけだ。
 本当に愛されるほど近づけば、知ってはいけない事を知ってしまう予感があったから、ただの便利なセフレ止まりで居続けたのだ。

 原田は今、清高に選択を迫っている。
 境界線を跳び越えて暗い淵に身を投げるか、永遠に黙ったまま離れてしまうか。

 清高は緊張とプレッシャーで小さく喘ぐ。見えない手で首元を締められているように息苦しかった。

「決められないか? ああ、いや、責めてるわけじゃない。お前のその用心深さと、鼻が利くところは長所だよ」

 原田は薄笑いのままそう言ってベッドに腰掛け、ジャケットの内ポケットから取り出した煙草に火をつけた。美味そうに深く吸って、煙を吐き出す。嗅いだことのない嫌な臭いの煙草だ。

「でももう恋人ごっこはもうおしまいだよ。オレはお前を選んだ。次はお前が選ぶ番だ。どうする、Mi Chiquitoぼっちゃん?」

 原田は再び大量の煙を吐き出す。窓のない部屋に煙が充満して、清高の呼吸はさらに苦しくなった。

「選ぶって、何をだよ?」

 分からない振りをして清高は椅子から立ち上がった。

「オレは普通の高校生だよ。アンタが何をしてるのかなんて分からない。もう帰る」

 清高が階段へ向かおうとすると、原田はサッと立ち上がって投げ捨てた煙草を靴の踵で踏み潰し、逃げようとする清高の両腕を掴んだ。揉み合いになって、あっという間にベッドへ押し倒される。
 本気になった原田は、ゾッとするほど人の身体の自由を奪う技に長けていた。
 清高は動けないように巧みに四肢を押さえ込まれ、マウントを取られる。上から薄笑いの顔が近づいてきて、思わず顔を背けた。

「もうすぐ女王が死ぬ。そしたら王女様の時代だ。今が肝心なんだ。オレは本国に戻らなきゃなんねえ。その間、こっちで動く半身が要る。警察のマークのついてない、普通の人間がいい。基、お前がピッタリだ。オマエは頭が良い。胆力もある。その顔で女も男もたらし込める。オレはお前が欲しいんだよ……」

 無理矢理顔を正面に向けられ、真っ直ぐに見下ろされた。鋭いカミソリで切ったような細い一重の奥で、小さい黒目が異様な光に輝いている。じっと睨み返していると激しく頭が痛み、目眩がした。

「アンタはオレに……何になれって言ってんの……?」

 息を喘がせながら清高が言うと、原田はギラつく目をほんの少し遠くして、

「一心同体、運命共同体、夜にしか飛べない比翼の鳥、地獄の道を這う双頭の蛇……Entra por sangre y sale por sangre……」

 と歌うように囁いた。

「なにいってんのかわからねえ……」

 段々と身体から力が抜けて、思考が散漫になってくる。

「考えなくて良い。SiはいNoいいえで答えりゃ良いんだ」

 甘やかすように首筋を撫でられる。清高が目を瞑ったまま首を横に振ると、原田が笑う気配がした。

「ゆっくり考えな。オレが待ってる答えはSiだけだ」

 脳髄に染みこむような甘い声を最後に、清高の意識は闇に落ちた。
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