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【二年前】接近.2
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肩を組んでバカみたいに笑いながら、二人は宮脇のアパートへ向かう。
宮脇の自宅は、二階建てアパートのぐらつく外階段を上ってすぐの場所だ。錆の浮いた古い玄関ドアを開けると、小さな三和土に女物の靴と大きなスリッパ。短い廊下の向こうには可愛らしいビーズを繋いだのれんがかかっている。
「ヒュー! 良い感じじゃん」
のれんを何度も手でかき分けてジャラジャラ音を立て、清高は上機嫌だ。
畳敷きの居間は、食卓と小さなドレッサー、テレビ台で一杯で、その向こうに二間ある。宮脇はサッと狭い居間を横切って、妹と母の部屋の襖を閉めた。
「宮脇の部屋こっち?」
清高は勝手に半開きの襖を開けて宮脇の私室に入っている。
こちらも狭かった。家具はゴチャゴチャに衣服が掛かったハンガーラックと、雑に窓辺に並べられたトレーニング用グッズ、あまり開いた形跡のない勉強道具が積み上がった小さなローテーブルだけで、空いた場所は寝乱れたままの布団が占領している。
「布団で寝て構わんぞ」
宮脇が言う前に清高は布団に転がっていた。
「わー、他人の二オイする~」
などと言って枕を抱いて笑っている。
「アホ! やめぇ!」
宮脇が赤面して枕を取り上げると、
「あ、枕いるって! イイじゃん、くせえとは言ってないって!」
と寝転がったまま両手を伸ばされた。ムッとして顔めがけて枕を投げつけると、
「あ、やっぱちょっとクセェな」
と笑い出すので、横っ腹を軽く蹴る。清高は腰を捩ってそれを避け、布団の上で伸びをした。
「じゃ、親切に甘えて寝さしてもらうわ」
「おう」
「……宮脇は? 一緒に寝る?」
清高はもぞもぞ動いて布団にスペースを作る。
「キッショ! アホ言うとらんと早よ寝ろ」
宮脇はニヤニヤ笑う顔めがけて毛布を投げつけ、居間の方へと足を向けた。
清高は他人の枕に悠々と頭を乗せて、半分閉じた目で宮脇を追う。キッチンで冷蔵庫をバタバタと開け閉めした宮脇は、デカイ手に包丁を握っていた。
「料理すんの?」
「おう。帰ってきて晩飯出来とったら嬉しいやろ」
フラットな声音で答えが返ってくる。普段からやっているのだろう。ジャガイモの皮をむく手つきにはよどみがない。
「今日はお母さんと良子ちゃんはお出かけ?」
「良子”ちゃん”? エラい馴れ馴れしいやないか」
「ああ~、そこ怒りポイントなんだ? じゃあ妹さん。今日はどっか行ってるの?」
「映画や。何や知らんけど、二人とも好きなアイドルがでとるんやて。……しゃべっとらんで、はよ寝ろや」
清高はクスクス笑って目を閉じる。
人が台所で立ち働く気配を感じながら眠るのは、なんだか贅沢な気分だった。
姉が家を出てからは、清高家のキッチンはほぼ使われていなかった。母はすでに亡くなっているし、ほとんど家に帰らない会社人間の父は元々料理をしない。清高も自炊はしたくないから、食事はほとんど外食か惣菜だ。家で食べ物の匂いを嗅ぐことはあまりない。
タマネギと肉を炒める香ばしい匂いに囲まれながら、清高はフワフワと安らかな気持ちで眠りに落ちた。
宮脇は手早くカレーの下ごしらえを終えて、炊飯器に米をセットした。一旦いつも通りの量を計り、もしかしたら清高も食べて行くかも知れないと考え直す。
しかし夕飯時には母と妹も帰ってくる。アイツは他人の家族と食卓を囲むのは嫌だろうか? そう考えながら、開けっぱなしの襖の奥に目をやると、清高はぴくりとも動かず眠っていた。
「まあエエか……余ったら弁当にしたらエエし」
宮脇は誰にともなく言い訳するように呟き、一合余計に炊くことにした。
調理器具を洗ってカゴに伏せ、手を洗ってしまうとやることがない。
何となくテレビの前に座った宮脇は、音量を絞って大して興味もない競馬中継にチャンネルを合わせた。
バイト先はむさ苦しい男ばかりで、話題の八割が競馬か野球かパチンコだ。話に着いていくために、有名どころの馬の名前くらい覚えてみようと思うものの、意識は自室で眠ったままの清高の方へ向いてしまう。
ここへ引っ越してきてから、誰かを家に招くのは清高が初めてだった。しかも、自分から招いた。警戒心の強い自分にとっては異例の事態だ。
清高は気がつくと宮脇の心の内側に住み着いていた。向こうから強引にアプローチされた感じはないのに、いつの間にか好感を抱かされて、構いたくなってしまう。
半グレに詐欺犯罪のスカウトをされたと言っていたのも納得だ。ほとんどの人間は、欺されたと思う暇もなく欺されるだろう。ツラの良さもあるから、優秀な女衒にもなれそうだ。
いつの間にかテレビの競馬中継は終了して、夕方のニュースが流れていた。ボンヤリ考え事をしていたので、結局メインレースでどの馬が勝ったのかも分からないままだ。
西向きの自室の窓からは、強い光が斜めに差し込み始めている。
宮脇はカーテンを引こうと立ち上がって、布団の縁を踏んで窓の方へと足を向け、夕陽に染まった清高の寝顔に目を奪われた。
宮脇はあまり人の顔の美醜にこだわりはない方だが、それでも息を呑むほど美しかった。
同じ男なのにヒゲなど一本も生えなさそうな滑らかな頬が、西日に照らされて柔らかい象牙色に光っている。寝乱れた金の毛先が枕に散って後光のようだ。生え際の髪は茶色い。形のいい細い眉も、薄い瞼を縁取る長い睫毛も茶だ。元々色素が薄いのかもしれない。
形の良い薄い耳。横を向いているせいで左側しか見えないが、小さなピアスが三つ。投げ出された腕や力の抜けた指にもいくつかアクセサリーがついている。小指には、この間宮脇が返した細い指輪が元通りはまっていた。
あの店の主、原田竜弥と言ったか。清高とどういう関係なのだろう。あの晩、あの店はもう閉店だったのに、どうして清高はあそこへ向かおうとしていたのだろう。
店主はカタギだと清高は笑っていたが、宮脇にはどうもそうとは思えなかった。
原田という男からは、父の元を度々訪れた筋モノと同じ気配がした。
ああいうヤカラは、正体をはっきり告げたりしない。利用しようとする相手にはすこぶる優しく、思いやりがあるように振る舞うのだ。いくら要領よく対応したとしても、標的にされればいずれ絡め取られる。父もそうだった。
言い方は悪いが、上手く使えば優秀な駒になりそうな清高を、ああいう男が構っているというのは、嫌な感じだ。
宮脇はなんとなく布団の縁に膝をつき、清高の髪に手を伸ばす。美しい見た目を裏切るパサついた感触。手入れの悪い指先が髪に引っかかった。傷つけないよう軽く手を握って、指の背でそっと頬に触れる。こっちは見た目の通り滑らかだ。薄い唇の端に指が触れると、口角がキュッと上がった。
慌てて手を離すと、
「何?」
切れ長の目が薄く開いて、笑っていた。
「す、すまん! もうそろそろ夕方やから……」
「ああ、ホントだ。ふわぁあ~! よく寝た……」
清高は布団の上で大きく伸びをして、ヒョイと身を起こす。窓から入る光はもう消えて、空は薄紫に染まっていた。
「お前、知らん人間の家でよう熟睡できるなあ」
「宮脇が誘ったんじゃん。知らない人間じゃないし。サンキュ。ちょっと楽になった」
起き上がった清高と間近で目があって、宮脇の心臓は大きく跳ねる。
清高はふと目を伏せた。色の薄い長い睫毛が頬骨の隆起に繊細な影を落とす。薄い唇がわずかに開いて、桃色の舌先が覗く。
何か一つきっかけがあれば、とんでもない方に転がっていってしまいそうな予感がして、宮脇はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あのさ、」
「ただいま~!」
清高が何か言葉を口に出す前に、玄関の方から賑やかな声がして、二人の間の微妙な緊張は破られた。
「映画すっごい良かった~! おみやげ買ってきたから……あれ? お客さん?」
ビーズの珠暖簾を潜って少女が顔を出す。
「良子、先に手を洗って……あら、珍し。大志のお友達? なにアンタ、お友達来てるのに布団も出しっぱなしで、だらしない!」
後から今に入ってきたのは、カールさせた髪を首元でくくった中年の女性だった。宮脇の母だろう。
「勝手にお邪魔してすみません。ミヤワキクンと親しくさせてもらってる清高と言います」
清高が如才なく言って愛想笑いで会釈すると、女二人は驚いたようにポカンと口を開けて固まった。
「あらまあ……」
「え、おにーちゃんの友達……?」
「ジロジロ見るなや。失礼やろ」
宮脇が間に割って入ると、二人は慌てたように動き出す。
「あらあら、ごめんなさいねえ! 大志が友達連れてくるの初めてやからビックリして……。ドーナツ買って来たんやけど、お友達も一緒に食べる?」
母親がどこにでもあるチェーン店のロゴが入った箱を掲げると、宮脇は鬱陶しそうに首を振った。
「いらん、いらん。もう帰るし」
「ウソ、ハロウィンの限定のヤツ買ったのに? じゃあアタシがおにーちゃんのも食べちゃお!」
「いや、ワシは食うがな!」
宮脇は良子と言い合いを始める。
「帰った方が良いなら帰るけど、オレもドーナツ食いたい」
清高は笑いながら兄妹の間に割り込んだ。
「お前は遠慮っちゅーモンないんかい!」
「ないねえ。良子ちゃんとおかーさんどれ選ぶ? オレこれ」
さっさとホワイトチョコレートでお化け風にデコレーションされたドーナツを選ぶ清高に、良子はちょっと目を瞠ってから頬を染めた。
「オイ……」
妹の表情に気付いて顔を強ばらせている宮脇に、母親がヤカンを押しつける。
「大志、お茶入れて。おかーさんはどれにしようかな。大志はどれがいい?」
「余ったヤツでエエ。キヨ、おまえ晩飯は?」
ヤカンを火にかけるついでに、鍋も温め始めた宮脇が聞く。清高は囓りかけていたドーナツから一旦口を離して首を傾げた。
「んー、帰りにどっかで食って帰るつもりだけど」
「ほなワシが作ったカレーで良かったら、ついでに食うて行けや」
なるべくさりげなく言ったつもりだったが、宮脇は内心妙に緊張していた。清高は驚いたように目を瞬かせ、
「いいのかな? 迷惑じゃない?」
と呟く。
「いいわよ。大志はカレーだけは作るの上手いから安心して。ねえ良子?」
「う、うん! 食べていって下さい。多分美味しいから」
沸騰したヤカンがピーピー鳴く。
「多分て何やねん。何飲む? インスタントのコーヒーか紅茶、ほうじ茶もあるけど」
「お母さん、コーヒー。クリープいれてな」
「アタシ紅茶! クリープいれてな」
「はいはい知ってる知ってる。キヨに聞いとるんや」
「なんでもいーよ。宮脇と一緒で良い」
「じゃあほうじ茶だ」
「マジで!? ドーナツにほうじ茶!? 意外過ぎだろ!」
「だよね!? ほらー、おにーちゃん変だって」
「うるさい。ほな何にすんねん! はよ決めろや」
「いや、良いよ、ほうじ茶で」
清高はへにゃりと眉を下げて笑っている。宮脇は憮然としつつも全員分のお茶を用意した。ついでに煮たった鍋にカレールーを放り込み、火を止めておく。
部屋の中はドーナツの甘い香りとコーヒー、紅茶、カレーの匂いで混沌とした。
「お兄ちゃん、晩ご飯作ってくれるのは良いけど、カレーはもうちょっと後の方が良かったよ」
良子がドーナツを食べながらぶー垂れる。
「べつにエエやろ。味は変わらん」
「窓開けとこか」
母親が立って窓を開けに行く。ついでに狭いベランダに出て洗濯物を取り込んでいるようだ。
「家族仲良いんだね」
清高がほうじ茶の入ったカップを両手で包んで笑うと、良子は頬を染めつつ
「そんな事ないです」
と俯いた。
「オイお前。良子の方向くな」
宮脇は妹と清高の間に割って入って凄む。
「何、嫉妬?」
「あぁん?」
良子は清高にメンチを切る兄を押しのけ、
「おにーちゃんは過保護すぎ。あっ、そのリング……」
と清高の左小指にはまったシルバーリングを指さした。
「あ、コレ? 昔もらったヤツでさ、今のオレにはちょっともう似合わないんだけど、何となく無いと落ち着かないからつけてんの」
清高は小指からリングを外し、良子の手につけてやる。清高の小指サイズのリングは、良子の中指にはめても少し緩いくらいだった。
「これ、前にお兄ちゃんが持って帰ってきちゃったヤツだよね。可愛いなあ。こういうシンプルでオシャレなの、あんまり女の子向けの安いお店になくて……」
うっとりした顔でリングのはまった自分の指を眺め回す。
「マジ? じゃあ今度一緒に見に行く?」
「ホントですか!?」
良子は色めきたって、両手で頬を押さえて飛び上がった。
「待て! 待て待て待て! それは許さん!」
再び宮脇が鬼の形相で間に割り込んでくる。清高は思わず吹き出した。
「オレ年下は対象外だってば。心配なら宮脇も一緒に来ればいーじゃん」
「ちゃうわボケ! あの店に良子連れて行くんは誰が一緒でも許さんわい!」
「ああ……竜弥さんとこは高いから無理でしょ。ショッピングモールの中のもっと安いとこだよ。女の子同士だと入りにくいメンズ向けとかあるし」
そう言われた宮脇は、何度も妹と清高の顔を見比べて、それでも首を横に振った。
「それでも、なんかアカン。許しがたい」
「ヒャハハ! なんでよ!? 過保護~!」
「ですよね!? お兄ちゃん過保護なの! 一人で外出るなとか言うし!」
兄に向かって唇を尖らせる良子の横顔を見て、清高は少し黙り込んだ。
この子が被害に遭ったから、宮脇は自分を殴りに来たのだ。あの事件は解決済みとは言え、清高が良からぬ輩の怨みを買っていることは事実だ。
「あ~……そうね、確かに、今オレと外でツルむのはあんま良くないかも」
ポツリと言った清高に良子がいぶかしむような目を向けた。宮脇は難しい顔をしてこっちを見ている。
「よし、じゃあオレとおにーちゃんの二人で買いに行こうか!」
清高は二人の心配を打ち消すように、ニッと笑って両手を景気よく打ち合わせた。
「なんでそうなる!?」
「いーじゃん、宮脇は妹になんかあげたいんでしょ?」
「いや……は? なんで知っとんねん」
「店でカワイ目の小物おいてるショーケースずっと見てたじゃん」
宮脇は清高の抜け目の無さに舌を巻く。確かに竜弥の店に呼び出された時、宮脇は妹に似合いそうな小物を目で探していた。その目線に気付いて今まで覚えている敏さには恐れ入る。
「ウソ、おにいちゃん、ホントに誕生日プレゼントにアクセサリーくれるつもりだったんだ?」
良子は感激した様子で両手を組み合わせている。
「まあ……その……」
「じゃあアタシ楽しみに待ってる! お兄ちゃんのセンスはちょっと……信用できないけど、お友達さんが一緒なら素敵なの選んでくれそうだし!」
妹の期待に満ちた笑顔に引っ込みがつかなくなって、宮脇は
「まあ楽しみにしとってくれや……」
と歯切れ悪く言ってしまい、おもしろがるようにニヤニヤ笑いながらドーナツを頬ばる清高を、怨みを込めてじっとり睨んだ。
宮脇の自宅は、二階建てアパートのぐらつく外階段を上ってすぐの場所だ。錆の浮いた古い玄関ドアを開けると、小さな三和土に女物の靴と大きなスリッパ。短い廊下の向こうには可愛らしいビーズを繋いだのれんがかかっている。
「ヒュー! 良い感じじゃん」
のれんを何度も手でかき分けてジャラジャラ音を立て、清高は上機嫌だ。
畳敷きの居間は、食卓と小さなドレッサー、テレビ台で一杯で、その向こうに二間ある。宮脇はサッと狭い居間を横切って、妹と母の部屋の襖を閉めた。
「宮脇の部屋こっち?」
清高は勝手に半開きの襖を開けて宮脇の私室に入っている。
こちらも狭かった。家具はゴチャゴチャに衣服が掛かったハンガーラックと、雑に窓辺に並べられたトレーニング用グッズ、あまり開いた形跡のない勉強道具が積み上がった小さなローテーブルだけで、空いた場所は寝乱れたままの布団が占領している。
「布団で寝て構わんぞ」
宮脇が言う前に清高は布団に転がっていた。
「わー、他人の二オイする~」
などと言って枕を抱いて笑っている。
「アホ! やめぇ!」
宮脇が赤面して枕を取り上げると、
「あ、枕いるって! イイじゃん、くせえとは言ってないって!」
と寝転がったまま両手を伸ばされた。ムッとして顔めがけて枕を投げつけると、
「あ、やっぱちょっとクセェな」
と笑い出すので、横っ腹を軽く蹴る。清高は腰を捩ってそれを避け、布団の上で伸びをした。
「じゃ、親切に甘えて寝さしてもらうわ」
「おう」
「……宮脇は? 一緒に寝る?」
清高はもぞもぞ動いて布団にスペースを作る。
「キッショ! アホ言うとらんと早よ寝ろ」
宮脇はニヤニヤ笑う顔めがけて毛布を投げつけ、居間の方へと足を向けた。
清高は他人の枕に悠々と頭を乗せて、半分閉じた目で宮脇を追う。キッチンで冷蔵庫をバタバタと開け閉めした宮脇は、デカイ手に包丁を握っていた。
「料理すんの?」
「おう。帰ってきて晩飯出来とったら嬉しいやろ」
フラットな声音で答えが返ってくる。普段からやっているのだろう。ジャガイモの皮をむく手つきにはよどみがない。
「今日はお母さんと良子ちゃんはお出かけ?」
「良子”ちゃん”? エラい馴れ馴れしいやないか」
「ああ~、そこ怒りポイントなんだ? じゃあ妹さん。今日はどっか行ってるの?」
「映画や。何や知らんけど、二人とも好きなアイドルがでとるんやて。……しゃべっとらんで、はよ寝ろや」
清高はクスクス笑って目を閉じる。
人が台所で立ち働く気配を感じながら眠るのは、なんだか贅沢な気分だった。
姉が家を出てからは、清高家のキッチンはほぼ使われていなかった。母はすでに亡くなっているし、ほとんど家に帰らない会社人間の父は元々料理をしない。清高も自炊はしたくないから、食事はほとんど外食か惣菜だ。家で食べ物の匂いを嗅ぐことはあまりない。
タマネギと肉を炒める香ばしい匂いに囲まれながら、清高はフワフワと安らかな気持ちで眠りに落ちた。
宮脇は手早くカレーの下ごしらえを終えて、炊飯器に米をセットした。一旦いつも通りの量を計り、もしかしたら清高も食べて行くかも知れないと考え直す。
しかし夕飯時には母と妹も帰ってくる。アイツは他人の家族と食卓を囲むのは嫌だろうか? そう考えながら、開けっぱなしの襖の奥に目をやると、清高はぴくりとも動かず眠っていた。
「まあエエか……余ったら弁当にしたらエエし」
宮脇は誰にともなく言い訳するように呟き、一合余計に炊くことにした。
調理器具を洗ってカゴに伏せ、手を洗ってしまうとやることがない。
何となくテレビの前に座った宮脇は、音量を絞って大して興味もない競馬中継にチャンネルを合わせた。
バイト先はむさ苦しい男ばかりで、話題の八割が競馬か野球かパチンコだ。話に着いていくために、有名どころの馬の名前くらい覚えてみようと思うものの、意識は自室で眠ったままの清高の方へ向いてしまう。
ここへ引っ越してきてから、誰かを家に招くのは清高が初めてだった。しかも、自分から招いた。警戒心の強い自分にとっては異例の事態だ。
清高は気がつくと宮脇の心の内側に住み着いていた。向こうから強引にアプローチされた感じはないのに、いつの間にか好感を抱かされて、構いたくなってしまう。
半グレに詐欺犯罪のスカウトをされたと言っていたのも納得だ。ほとんどの人間は、欺されたと思う暇もなく欺されるだろう。ツラの良さもあるから、優秀な女衒にもなれそうだ。
いつの間にかテレビの競馬中継は終了して、夕方のニュースが流れていた。ボンヤリ考え事をしていたので、結局メインレースでどの馬が勝ったのかも分からないままだ。
西向きの自室の窓からは、強い光が斜めに差し込み始めている。
宮脇はカーテンを引こうと立ち上がって、布団の縁を踏んで窓の方へと足を向け、夕陽に染まった清高の寝顔に目を奪われた。
宮脇はあまり人の顔の美醜にこだわりはない方だが、それでも息を呑むほど美しかった。
同じ男なのにヒゲなど一本も生えなさそうな滑らかな頬が、西日に照らされて柔らかい象牙色に光っている。寝乱れた金の毛先が枕に散って後光のようだ。生え際の髪は茶色い。形のいい細い眉も、薄い瞼を縁取る長い睫毛も茶だ。元々色素が薄いのかもしれない。
形の良い薄い耳。横を向いているせいで左側しか見えないが、小さなピアスが三つ。投げ出された腕や力の抜けた指にもいくつかアクセサリーがついている。小指には、この間宮脇が返した細い指輪が元通りはまっていた。
あの店の主、原田竜弥と言ったか。清高とどういう関係なのだろう。あの晩、あの店はもう閉店だったのに、どうして清高はあそこへ向かおうとしていたのだろう。
店主はカタギだと清高は笑っていたが、宮脇にはどうもそうとは思えなかった。
原田という男からは、父の元を度々訪れた筋モノと同じ気配がした。
ああいうヤカラは、正体をはっきり告げたりしない。利用しようとする相手にはすこぶる優しく、思いやりがあるように振る舞うのだ。いくら要領よく対応したとしても、標的にされればいずれ絡め取られる。父もそうだった。
言い方は悪いが、上手く使えば優秀な駒になりそうな清高を、ああいう男が構っているというのは、嫌な感じだ。
宮脇はなんとなく布団の縁に膝をつき、清高の髪に手を伸ばす。美しい見た目を裏切るパサついた感触。手入れの悪い指先が髪に引っかかった。傷つけないよう軽く手を握って、指の背でそっと頬に触れる。こっちは見た目の通り滑らかだ。薄い唇の端に指が触れると、口角がキュッと上がった。
慌てて手を離すと、
「何?」
切れ長の目が薄く開いて、笑っていた。
「す、すまん! もうそろそろ夕方やから……」
「ああ、ホントだ。ふわぁあ~! よく寝た……」
清高は布団の上で大きく伸びをして、ヒョイと身を起こす。窓から入る光はもう消えて、空は薄紫に染まっていた。
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「宮脇が誘ったんじゃん。知らない人間じゃないし。サンキュ。ちょっと楽になった」
起き上がった清高と間近で目があって、宮脇の心臓は大きく跳ねる。
清高はふと目を伏せた。色の薄い長い睫毛が頬骨の隆起に繊細な影を落とす。薄い唇がわずかに開いて、桃色の舌先が覗く。
何か一つきっかけがあれば、とんでもない方に転がっていってしまいそうな予感がして、宮脇はゴクリと唾を飲み込んだ。
「あのさ、」
「ただいま~!」
清高が何か言葉を口に出す前に、玄関の方から賑やかな声がして、二人の間の微妙な緊張は破られた。
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ビーズの珠暖簾を潜って少女が顔を出す。
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「あらまあ……」
「え、おにーちゃんの友達……?」
「ジロジロ見るなや。失礼やろ」
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「あらあら、ごめんなさいねえ! 大志が友達連れてくるの初めてやからビックリして……。ドーナツ買って来たんやけど、お友達も一緒に食べる?」
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「いらん、いらん。もう帰るし」
「ウソ、ハロウィンの限定のヤツ買ったのに? じゃあアタシがおにーちゃんのも食べちゃお!」
「いや、ワシは食うがな!」
宮脇は良子と言い合いを始める。
「帰った方が良いなら帰るけど、オレもドーナツ食いたい」
清高は笑いながら兄妹の間に割り込んだ。
「お前は遠慮っちゅーモンないんかい!」
「ないねえ。良子ちゃんとおかーさんどれ選ぶ? オレこれ」
さっさとホワイトチョコレートでお化け風にデコレーションされたドーナツを選ぶ清高に、良子はちょっと目を瞠ってから頬を染めた。
「オイ……」
妹の表情に気付いて顔を強ばらせている宮脇に、母親がヤカンを押しつける。
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「余ったヤツでエエ。キヨ、おまえ晩飯は?」
ヤカンを火にかけるついでに、鍋も温め始めた宮脇が聞く。清高は囓りかけていたドーナツから一旦口を離して首を傾げた。
「んー、帰りにどっかで食って帰るつもりだけど」
「ほなワシが作ったカレーで良かったら、ついでに食うて行けや」
なるべくさりげなく言ったつもりだったが、宮脇は内心妙に緊張していた。清高は驚いたように目を瞬かせ、
「いいのかな? 迷惑じゃない?」
と呟く。
「いいわよ。大志はカレーだけは作るの上手いから安心して。ねえ良子?」
「う、うん! 食べていって下さい。多分美味しいから」
沸騰したヤカンがピーピー鳴く。
「多分て何やねん。何飲む? インスタントのコーヒーか紅茶、ほうじ茶もあるけど」
「お母さん、コーヒー。クリープいれてな」
「アタシ紅茶! クリープいれてな」
「はいはい知ってる知ってる。キヨに聞いとるんや」
「なんでもいーよ。宮脇と一緒で良い」
「じゃあほうじ茶だ」
「マジで!? ドーナツにほうじ茶!? 意外過ぎだろ!」
「だよね!? ほらー、おにーちゃん変だって」
「うるさい。ほな何にすんねん! はよ決めろや」
「いや、良いよ、ほうじ茶で」
清高はへにゃりと眉を下げて笑っている。宮脇は憮然としつつも全員分のお茶を用意した。ついでに煮たった鍋にカレールーを放り込み、火を止めておく。
部屋の中はドーナツの甘い香りとコーヒー、紅茶、カレーの匂いで混沌とした。
「お兄ちゃん、晩ご飯作ってくれるのは良いけど、カレーはもうちょっと後の方が良かったよ」
良子がドーナツを食べながらぶー垂れる。
「べつにエエやろ。味は変わらん」
「窓開けとこか」
母親が立って窓を開けに行く。ついでに狭いベランダに出て洗濯物を取り込んでいるようだ。
「家族仲良いんだね」
清高がほうじ茶の入ったカップを両手で包んで笑うと、良子は頬を染めつつ
「そんな事ないです」
と俯いた。
「オイお前。良子の方向くな」
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「何、嫉妬?」
「あぁん?」
良子は清高にメンチを切る兄を押しのけ、
「おにーちゃんは過保護すぎ。あっ、そのリング……」
と清高の左小指にはまったシルバーリングを指さした。
「あ、コレ? 昔もらったヤツでさ、今のオレにはちょっともう似合わないんだけど、何となく無いと落ち着かないからつけてんの」
清高は小指からリングを外し、良子の手につけてやる。清高の小指サイズのリングは、良子の中指にはめても少し緩いくらいだった。
「これ、前にお兄ちゃんが持って帰ってきちゃったヤツだよね。可愛いなあ。こういうシンプルでオシャレなの、あんまり女の子向けの安いお店になくて……」
うっとりした顔でリングのはまった自分の指を眺め回す。
「マジ? じゃあ今度一緒に見に行く?」
「ホントですか!?」
良子は色めきたって、両手で頬を押さえて飛び上がった。
「待て! 待て待て待て! それは許さん!」
再び宮脇が鬼の形相で間に割り込んでくる。清高は思わず吹き出した。
「オレ年下は対象外だってば。心配なら宮脇も一緒に来ればいーじゃん」
「ちゃうわボケ! あの店に良子連れて行くんは誰が一緒でも許さんわい!」
「ああ……竜弥さんとこは高いから無理でしょ。ショッピングモールの中のもっと安いとこだよ。女の子同士だと入りにくいメンズ向けとかあるし」
そう言われた宮脇は、何度も妹と清高の顔を見比べて、それでも首を横に振った。
「それでも、なんかアカン。許しがたい」
「ヒャハハ! なんでよ!? 過保護~!」
「ですよね!? お兄ちゃん過保護なの! 一人で外出るなとか言うし!」
兄に向かって唇を尖らせる良子の横顔を見て、清高は少し黙り込んだ。
この子が被害に遭ったから、宮脇は自分を殴りに来たのだ。あの事件は解決済みとは言え、清高が良からぬ輩の怨みを買っていることは事実だ。
「あ~……そうね、確かに、今オレと外でツルむのはあんま良くないかも」
ポツリと言った清高に良子がいぶかしむような目を向けた。宮脇は難しい顔をしてこっちを見ている。
「よし、じゃあオレとおにーちゃんの二人で買いに行こうか!」
清高は二人の心配を打ち消すように、ニッと笑って両手を景気よく打ち合わせた。
「なんでそうなる!?」
「いーじゃん、宮脇は妹になんかあげたいんでしょ?」
「いや……は? なんで知っとんねん」
「店でカワイ目の小物おいてるショーケースずっと見てたじゃん」
宮脇は清高の抜け目の無さに舌を巻く。確かに竜弥の店に呼び出された時、宮脇は妹に似合いそうな小物を目で探していた。その目線に気付いて今まで覚えている敏さには恐れ入る。
「ウソ、おにいちゃん、ホントに誕生日プレゼントにアクセサリーくれるつもりだったんだ?」
良子は感激した様子で両手を組み合わせている。
「まあ……その……」
「じゃあアタシ楽しみに待ってる! お兄ちゃんのセンスはちょっと……信用できないけど、お友達さんが一緒なら素敵なの選んでくれそうだし!」
妹の期待に満ちた笑顔に引っ込みがつかなくなって、宮脇は
「まあ楽しみにしとってくれや……」
と歯切れ悪く言ってしまい、おもしろがるようにニヤニヤ笑いながらドーナツを頬ばる清高を、怨みを込めてじっとり睨んだ。
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BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。
彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。
そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。
社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。
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気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました
海野幻創
BL
【陽気な庶民✕引っ込み思案の御曹司】
これまで何人の女性を相手にしてきたか数えてもいない生田雅紀(いくたまさき)は、整った容姿と人好きのする性格から、男女問わず常に誰かしらに囲まれて、暇をつぶす相手に困らない生活を送っていた。
それゆえ過去に囚われることもなく、未来のことも考えず、だからこそ生きている実感もないままに、ただただ楽しむだけの享楽的な日々を過ごしていた。
そんな日々が彼に出会って一変する。
自分をも凌ぐ美貌を持つだけでなく、スラリとした長身とスタイルの良さも傘にせず、御曹司であることも口重く言うほどの淑やかさを持ちながら、伏し目がちにおどおどとして、自信もなく気弱な男、久世透。
自分のような人間を相手にするレベルの人ではない。
そのはずが、なにやら友情以上の何かを感じてならない。
というか、自分の中にこれまで他人に抱いたことのない感情が見え隠れし始めている。
↓この作品は下記作品の改稿版です↓
【その溺愛は伝わりづらい!気弱なスパダリ御曹司にノンケの僕は落とされました】
https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/33887994
主な改稿点は、コミカル度をあげたことと生田の視点に固定したこと、そしてキャラの受攻に関する部分です。
その他に新キャラを二人出したこと、エピソードや展開をいじりました。
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塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる
風見鶏ーKazamidoriー
BL
秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。
ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。
※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。
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