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【二年前】再会

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「お兄ちゃん、制服脱ぎっぱなしにしないでって言ってるでしょ!」

 年々母親に似てくる妹の良子が脱いだ学ランを片手に怒っている。
 バイトに出かける前に急いで夕食を掻き込んでいた宮脇は「ああ、すまん」と謝って椅子から立ち上がった。

「あれ? ポケットになんか入ってるよ?」

 止める前に良子は内ポケットを探って中身を引っ張り出す。
 出てきたのは新品のように磨かれたチェーンネックレスと、小さなシルバーのリングだった。この間、清高に渡されたまま忘れていた。

「やだ! この指輪かわいい! これお兄ちゃんのサイズじゃないよね?」

「いや、それは……知り合いの」

 モゴモゴと言うと、妹は目を輝かせて兄を振り返った。

「知り合い? え、もしかしてカノジョ?」

「なんでやねん。男や。返せ」

「えーウソ、これメンズなんだ? お兄ちゃんの知り合いがつけるにしてはキレイなデザインじゃない? 女の子のほうが似合いそう。つけてみても良い?」

 良子は宮脇が許可を出す前にリングを指にはめ、うっとりと眺めている。

「小指にはめとったから細いんやろ」

「いーなー、大人っぽくてオシャレで……こういうの、欲しいな……」

 私もうすぐ誕生日なんだけどな、と妹に見上げられ、宮脇はウッと言葉に詰まった。

 宮脇は妹に甘い。
 母が酒乱の父親と離婚した後、母方の縁を頼って母子三人でこの街へ引っ越して以来、家族分の食い扶持を稼ぐのに必死で家を開けがちの母に代わって、主に家事を引き受けているのは良子だ。
 宮脇には、荒れて勝手ばかりしてきた自分が、妹に苦労をかけているという自覚があった。何か欲しいものがあるのなら何でも買ってやりたいし、自分にできることなら何でもしてやりたい。
 しかしその指輪は清高の物なのだ。人のものを勝手に妹にやるわけにはいかない。

「よし分かった! それは返さなアカンけど、オマエもうすぐ誕生日やから、同じようなん買ったるわ」

 良子は優しい兄に向かってはにかむように笑い、

「無理しなくて良いよ。ちょっと困らせたかっただけ」

 とリングを返した。

「いや、買うたるから。楽しみにしとけ」

 宮脇が受けとったチェーンとリングを無造作にズボンのポケットに入れて笑いかけると、良子は

「期待せずに待っとくね」

 と頷き、空いた食卓に教科書を広げて宿題に取りかかった。


 宮脇が食器を洗い始めると、

「お兄ちゃん、やっぱり大阪に帰りたいん?」

 とノートに目を向けたままの妹が問いかけてくる。良子は、普段は完璧に標準語のイントネーションで話すが、たまに家族の前でだけ西の訛りが顔を出す。
 宮脇はちょっと黙って考え込み、

「まあ……いや、そうでもない。なんでや?」

 と聞き返した。

「だって、いつまでもコッテコテの関西弁だし。馴染む気ないのかなって」

「いや別にそんなつもりやないけど……」

 宮脇は、生まれた町にとりわけ深い思い入れがあるわけではない。酒乱の父親の暴力に怯えながら暮らした大阪の家には、むしろ嫌な思い出が多かった。

 けれど、今住んでいる場所に馴染めないのも事実だ。
 五年前、この目立たない地方都市の一つに越してきた時、宮脇は今の良子と同じ中二だったが、あの頃は思い出すのも嫌なくらいに荒んでいた。絶対に回りに馴染むものかと頑なになって、生活態度も言葉も、意地でも変えるものかと突っ張っていた。
 そのまま突っ張り続けて惰性で今に至っているだけだが、そろそろ意地のようにしがみついてきた生まれ故郷の言葉の抑揚にも、ケンカばかりの馬鹿な生活にも別れを告げるべき時なのかもしれない。

「あんまりこだわっても、いいこと無いと思う」

 静かに指摘され、宮脇はぐっと言葉に詰まった。五つも年下なのに、妹は馬鹿な自分より余程大人だ。

「まあ、そうかもしれんな。ほな……じゃあ、行ってきます」

 少し打ちのめされた気分でバイト用の作業服を羽織って玄関に向かうと、妹の「気をつけて」という声が小さく聞こえた。


 駐輪場から引っ張り出した錆びた自転車に跨がると、ポケットの中でチェーンが金属質の音を立てた。

「あ……コレ返さなアカンな」

 スマホで時間を確認すると、バイトの出勤時間まではまだ猶予があった。
 あの店はバイト先の配送倉庫と場所的に近い。出勤前についでに寄っていくかと、宮脇は軋むペダルを勢いよく踏んだ。

 紫がかった薄闇の中、ガタつく自転車を飛ばして、小さな工場が群れる前を通り過ぎていく。町工場のほとんどは既にシャッターを下ろして沈黙しており、狭い路地に人通りは多くない。時折遠くで電車の音がするだけで、町は既に眠ったように静かだった。

 キンモクセイの香りに鼻先をくすぐられ、ふと宮脇の脳裏には清高の整った白い面が浮かぶ。
 手先が器用で頭が回る優男。噂通りに女衒まがいの卑怯者なら納得できたが、実物はそうじゃなかった。表面上はヘラヘラしてるが、短い間に垣間見えた芯の部分は、真っ当すぎるほどに真っ当だった。
 アイツはどうして不良になったのだろう? 理由が知りたいと思った。


 宮脇は一度も迷わず、数日前に訪れたばかりの小さなシルバーショップの前に辿り着いた。店先には小さな灯りが灯っていて、まだ開いているようだ。狭い歩道の端に自転車を停めた宮脇は、【OPEN】の札のかかったドアをそっと開ける。

「こんばんは」

 暗いカウンターの中から声を掛けてきたのは、清高ではなかった。
 まだ若い男だ。右の首筋からこめかみまでびっしりと彫られたトライバル柄のタトゥーが目立つ。半袖の腕にも黒一色の彫り物が絡みついている。短い黒い髪、薄く色のついた丸眼鏡、耳や顔の随所にぶら下がる銀のピアス。
 宮脇は一瞬気圧されたが、すぐに気を取り直して、

「これ、キヨタカ君に返したいんですけど」

 とポケットから取り出したリングをカウンターに乗せた。
 店主と思しきタトゥーの男は

「ああ、モトイのトモダチ? もうすぐ来るから直接返せば?」

 と眼鏡の奥の目を面白がるように細める。

「別にトモダチって訳でもないです。待ってる時間はないんで、申し訳ないっすけど渡しておいてください」

 宮脇が軽く会釈して出て行こうとすると、

「わざわざどうも。……これね、オレがモトイに会った頃に作ってやったヤツなの。無くされたらショックだから、戻ってきて良かったよ。君、名前は?」

 と店主の声が追ってきた。垂れた目尻と相反するように色つき眼鏡の奥は笑っていない。
 宮脇は何故だかとてつもなく不愉快になった。清高を親しげに「モトイ」と呼ぶのが不愉快なのか、試すようにこっちを見る目が不愉快なのか。

 宮脇は問いに答えないまま、店主を睨め付けるように頭を下げて店を出た。

 店を後にした宮脇は、イライラしながら自転車を走らせた。なんだか無性にムカついて、サドルから半分尻を浮かせ、全力でペダルを漕ぐ。
 あの店主は良くないと勘が告げている。刺青のせいではない。あの目付きと、押しつけがましい口調が、嫌な記憶を蘇らせるのだ。

 スピードを緩めないまま、無人の児童公園の角を急角度で曲がると、ちょうど角にさしかかっていた歩行者とぶつかりかけた。宮脇は慌てて両手でブレーキを握りしめ、両足の裏を地面に擦り付ける。正面衝突直前でギリギリ車体が止まった。

「……ッブねーだろ! 気をつけろボケッ!」

 自転車を避けようと生け垣に身体を半分めり込ませて、勢いよく罵声を浴びせかけてきた歩行者は、清高だった。

「あれ? 宮脇? 何してんの、こんなとこで」

 自転車に乗っているのが宮脇だと気がついて、目をぱちくりさせている。

「指輪返しに来た。……前に会った時、一緒に持って帰ってしもたから」

「え、わざわざ? 今度会う時で良かったのに」

「いつ顔会わすかわからんやろが」

「それもそうか。じゃあ、はい」

 清高は生け垣の茂みから身を起こして、ズイと手を伸ばしてくる。宮脇は首を振った。

「もう店に返した」

 清高は一瞬目を丸くし、その後複雑そうな顔で口元をモニョモニョと歪ませた。

「もしかして、竜弥さんに渡した?」

「名前は知らんけど、店におった刺青の人に渡した。あれカタギの店なんか?」

「あー、それが竜弥さんだよ。カタギカタギ。アーティストってヤツ」

 清高はヘラリと笑い、

「宮脇はそんなシブい服着てどこ行くの? バイト?」

 と宮脇の作業服の襟を指で弾く。

「バイト。荷物の仕分け。ほな、ワシもう行くわ」

 宮脇は作業服の裾を伸ばして、再びペダルに足を乗せた。が、動かない。どうやら、さっき急ブレーキをかけた時にチェーンが外れてしまったようだ。

「あー結構重症じゃね? こっちで直せば?」

 舌打ちしてサドルを降りた宮脇に、清高は生け垣の向こうの公園を指さす。宮脇が素直に提案に従って、自転車を持ち上げて無人の公園へ運ぶと、何故か清高も後についてきた。

「お前もバイト違うんか?」

「いや、バイトじゃないし、時間も約束してないから別に良い。ほら、早く直せよ」

 清高は自分のスマホのライトをつけて、自転車の外れたチェーンを照らす。一応手助けするつもりのようだ。

 宮脇は黙々と故障を調べたが、10分ほど粘って、

「アカンわ。お手上げや」

 と音を上げた。錆びたチェーンは完全にギアから外れてしまっていて工具なしでは直せそうもない。
 隣に並んでしゃがみ、手元を照らしていた清高は「エエ~」と意味の無い声を上げ、

「じゃあどうすんの?」

 と立ち上がって壊れた自転車と宮脇を見下ろした。

「バイト先に遅刻するって連絡入れて、コレ持って歩いていくしかない。歩きで15分くらいやから、どないかなるやろ」

「マジかよ。どんな苦行よ。ここに放置していったら?」

「そらアカンやろ。盗まれる」

「……ん~……じゃあ竜弥さんの店のガレージ借りる? 多分工具もあるし……」

 清高は歯切れ悪く言う。宮脇はキッパリ首を横に振って立ち上がった。

「遠慮する。ワシあの人ちょっと苦手や」

「ハハ……ビビってんの?」

「ちゃうわ。ああいうのに借り作りたないだけや」

「ああ……そりゃ正解」

 清高は両手をポケットに突っ込んで俯き加減に笑った。時折明滅する薄暗い街灯が整った顔を青白く照らす。

「……カタギなんやんな?」

「カタギでもコワい人は居るからネ」

「なんか脅されてるんか?」

 様子のおかしい清高に一歩近寄ると、

「まさか! んなわけねえ」

 と一笑された。

「それやったらエエけど。なんかあったら言えや。ワシで力になれることあったら聞くし」

 宮脇が言うと、清高ははにかんだように笑った。

「何それ。オレらいつからそんな仲良くなったの」

「知らんけど。ほんなら、またな」

 宮脇は壊れた自転車をヒョイと持ち上げて公園を出て行く。作業服の背中が遠ざかるのに向かって、清高は

「なあ! 今度ホントにどっか遊びに行こうぜ!」

 と声を掛けた。宮脇は振り向かないまま

「おう」

 と返した。


 無人の児童公園にポツリと残された清高は、月のない夜空を見上げて一つ溜息をついた。
 小さなブランコに腰を下ろしてスマホを確認すると、ついさっきのタイムスタンプで竜弥からの着信が一軒。
 彼からの連絡はいつも音声だ。メッセージアプリのIDは知らされていない。そんなにオレを記録に残したくないのかよ、と気が滅入る。

 清高が原田竜弥と知り合ったのは、中学の頃だった。
 近所のショッピングモールのイベントに、原田が店を出していたのだ。女性向けのキラキラしたアクセサリーショップが集められた中で、彼のブースだけが異彩を放っていた。
 偶然に有香に連れられてイベントを訪れた清高は、最初は作品に惹かれて足を止めたのだ。どれも中学生の小遣いで買えるような値段ではなかったが、冷やかし客の清高にも原田は丁寧に接してくれた。
『高校生になったら、ピアス開けなよ。きっと似合う』
 耳朶を指先でくすぐられ、薄く色のついたレンズ越しに意味深に見つめられて、幼い清高の鼓動は止まりそうになった。どうしようもない一目惚れだった。

 有香には止められたが、翌日から、清高は原田の店に通い詰めた。
 どういう意図があったのかは分からないが、原田は商売の邪魔にしかならない中学生一人を見習いとして受け入れ、アクセサリーの手入れの仕方や簡単な修理方法を教えてくれた。
 そして、清高が中学を卒業する日、『今までのバイト代』と、リングをくれたのだ。丁度薬指にぴったりのサイズの銀の輪。
 当時の自分の舞い上がりっぷりを思い出すと、清高は今でも羞恥で死にたくなる。しかし、舞い上がりきって幼い恋心を告白した清高を、当時の原田は笑わずに受け入れてくれた。
 清高は知らなかった快感を教えられ、満たされなかった部分を埋めてもらって、有頂天になった。その時、竜弥に愛されていると信じた清高は、確かに幸せだったのだ。

 しかし幸福だったのは、最初の半年程度だった。
 原田には既に別のパートナーがいて、自分がただの暇つぶし兼、性欲発散用の愛人だと、勘の良い清高は気付いてしまった。
 原田は清高を遊び相手にしたことについて、悪びれた様子を見せることはなかった。
『嫌なら別れるよ』
 と、冷たいほど穏やかに笑う男を、清高はどうしても嫌いになれなかった。

 自分の性癖を打ち明けることができたのも、それを受け入れてくれたのも彼だけなのだ。簡単には切り捨てられれば苦労はしない。
 しかし、気まぐれに呼び出される度にやりきれなさは募って、そろそろ我慢の限界を超えそうだ。

 このまま帰ってやろうかなとブランコを小さく揺らしていると、握った手の中でスマホが震えた。原田からの着信だった。

「はい?」

『無事?』

「はは、無事っすよ。何?」

『待ってても中々来ないから心配した。今日は止めとく?』

 通話口から聞こえてくるのは、優しくて中身のない声だ。

「どーしよっかな……」

 清高は何も考えないまま呟く。実際、どうでも良かった。

『さっきキミのトモダチが来たよ。リング間違って持って帰っちゃったからって、わざわざ返しに来た』

 宮脇のことだろう。清高はうっすら気分が悪くなった。

「レジんとこに置いといてよ。明日店開けに行った時に持って帰るから」

『取りにおいで。でないと間違って坩堝るつぼで溶かすかも』

 喉奥で笑う声が聞こえる。

───別にそれでも良いんだけどな……

 清高が憂鬱な気分で顔を上げると、公園の入り口に原田が居るのが目に入った。

「なんで居るんすか」

「迎えに来た。どうせ近くに居るだろうと思って」

 原田は薄く笑って清高に手を差し伸べる。

「……ソリャドウモ」

 清高は手を取らずに立ち上がった。隣に並ぶともう背丈はほとんど変わらない。もらったリングも、今では薬指ではなく小指にしかはまらない。

「何? ご機嫌斜め?」

 恋人にするようにこめかみに唇を押しつけられると、清高の心は揺れる。

「そういうのいーよ。先シャワー借りて良い?」

 切なさを振り切るように足を速めて言うと、原田は肩を軽くすくめてから頷いた。

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