解ける夏<改稿>

たまむし

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 手術は成功したが、盛雄の意識が戻ることはなかった。
 和田盛雄は血縁者が見まもる中、数日後に静かに息を引き取った。

 急な逝去で嘉文達の対応は後手後手に回り、会葬が済むまで秘書を始め事務所のスタッフ達は眠る暇すらないくらいの慌ただしさだった。

 嘉文の妻・聡美も流石に父の葬儀には戻ってきたが、二人の間に親密な会話が交わされることはなかった。聡美は判を押した離婚届を嘉文に渡して寄越した後は、事務所にも東京のマンションにも顔を出さず終いだった。

 忙しい合間を縫って一人で離婚届を提出した嘉文は、妙にさっぱりとした気分で役所を後にした。盛雄の死の瞬間まで籍を抜かず、娘婿として義父の死に目に立ち合わせてくれた聡美には感謝したいくらいだった。
 慰謝料については今後向こうの弁護士と話し合うことになりそうだが、嘉文は言い値で払うつもりで覚悟していた。


 盛雄の葬儀自体は東京で行われたが、少し時間が経って落ち着いた頃に、地元でも「別れの会」が開かれることになった。
 嘉文は事務所のセダンに雄一を乗せ、しばらくぶりに地元へと車を走らせていた。
 だらしなく後部座席に寝転んだ雄一は眠っているようだったが、地元の県道へと入った辺りでのそりと身を起こし、携帯電話の画面に目を向けたまま
「お前、こっからどうすんの」
 と物憂げな声を投げかけてきた。嘉文は眉を寄せ、バックミラー越しに雄一を見る。
「どうとは?」
「仕事だよ。親父が死んだらお前は無職だろうが。大塚は実家に戻って結婚するってよ。事務所のおっさん連中は俺が引き継ぐ。お前もそれでいいだろ。選挙に受かるまでは給料出さねえけどな」
 雄一はつまらなさそうに携帯電話を放り投げ、ペットボトルの水に口をつけた。
 公設秘書の給与は国から出るが、私設秘書は議員の私費で雇われる。議員が逝去すれば、秘書も無職だ。嘉文はが自分の下に来ると信じて疑わない雄一の態度に、じんわりと腹が立った。
「私は民間の企業で求人を探すつもりです」
「何だそれ。俺が受かるまでの話か? 二足の草鞋でまともに動けるのかよ」
「いいえ。先生のお手伝いは今日で最後です」
「は!? テメエ、それで済むと思ってんのか。和田からどんだけ恩を受けたと思ってる? 俺に着かねえと二度と地元に戻れなくなるぞ」
 雄一は後ろから運転席のシートを蹴る。嘉文はハンドルを握り直し、
「戻る気はないので、構いません」
 とアクセルを踏み込んだ。雄一は姿勢を崩して窓に軽く頭をぶつけ、
「くそっ! 和田の家から離れて生きていけるとでも思ってんのか?」
 と悪態をつく。
「やってみなければ分かりません。私は意外と厚顔なので」
 嘉文はそう言ってスムーズに車を減速させ、会場になっている農協会館の裏口へと車を着けた。


 「別れの会」は盛況だった。

 雄一は車中で見せた態度の悪さなど微塵も出さず、不慮の死を遂げた父親の意志を継いで、政界へ打って出る若手政治家として見事なスピーチをしてみせた。原稿を書いたのは嘉文だが、来賓やら後援会の連中は、それを雄一の言葉だと思うだろう。

 嘉文もしばらくは客あしらいに精を出していたが、ふと話しかけてくる人間が居なくなったタイミングで、楽屋口から外へ出た。
 山内の爺さんの葬儀の時は真夏の日射しが脳天を焼くようだったが、今はもう秋の日の光が淡くコンクリートを温めているだけで、ジャケットの裾を揺らす風は涼しい。
 嘉文は盛雄の遺品となったジッポの表面を左手の親指で撫で、タバコに火をつけた。盛雄がかつて吸っていたのと同じ銘柄。懐かしい香りが肺を満たす。

 もう二度と会えないのが信じられなかった。
 盛雄がいなくなったなら、嘉文がもう地元にいる理由は一つもない。
 地元どころか、この世にいる理由もないように思えた。
 雄一には民間の就職先を探すと言ったが、特にこれと言った当てもなく、やりたい仕事もなければ、行きたい場所もない。糸の切れた凧のように頼りない気分だ。

 物思いに沈んでいるとタバコの火が指を焦がしそうになり、嘉文は慌てて携帯灰皿に吸い殻を押しつけた。腕につけた時計を見ると、十分以上経ってしまっている。会場の方へ戻ろうと踵を返すと、後ろから
「田辺さん!」
 と呼び止められた。

 知った声だ。
 嘉文は渋々後ろを振り返る。軽い足音を立てて目の前に駆けてきたのは、案の定、高山だった。喪服に身を包み黒いネクタイを締めた高山は、作業中とは印象がまるで違い、随分と都会的に見えた。
「……お久しぶりです」
「あ、はい。お久しぶりです……お元気でしたか?」
 自分で呼び止めたくせに高山は歯切れが悪い。
「ええ。先日は失礼しました。今日は先生の為にわざわざ足をお運び頂いて……」
「いえ、今日は田辺さんに会えるかなと思って来たんです」
 高山は屈託なく言って、一歩前へと近づいた。
「やっぱり俺、アナタのことを諦められなくて……。もう一回会いたかった」
 高山は躊躇いながらも嘉文の手を握ろうと腕を伸ばしたが、嘉文は両手をポケットに入れてそれをかわす。高山は眉を寄せ、
「別れられないのって、和田雄一とかいう若い議員ですか?」
 と、会場の方を指さした。
「雄一さんはまだ議員じゃないですよ。皆顔を立てて先生と呼びますけど」
「田辺さん、アイツの秘書なんですか?」
「いいえ。私はなくなった盛雄先生の秘書でした。雄一先生に雇われる気はないですね」
「アイツと付き合ってるんですか」
 高山は矢継ぎ早に質問を繰り出して来る。嘉文は苦い顔で首を横に振った。
「……そういう間柄ではありません」
「じゃあ今フリーですか!? 俺と付き合いません!?」
 高山はあからさまに顔に喜色を浮かべ、嘉文の手をポケットから引きずり出して握ってくる。嘉文はあまりにあっけらかんと明るい高山の様子に苦笑し、やんわりと手を離させた。
「いや……私は今日以降無職になるし、ここに戻ってくる気もないので……」
 しかし高山はしつこく手を掴みなおし、
「じゃあ俺もここ出ます。どうせ今の家の賃貸契約が年末で切れるんで、ちょっと早めに出ても構わない」
 と迫ってくる。
「いや、なんでそんな……」
「田辺さんがしばらく無職なら養ってもいいです! 俺、こう見えて腕の良い職人なんで、どこででもすぐ仕事見つかりますよ。大船に乗った気持ちでどうぞ」
「どうぞと言われても……養って頂かなくても貯金がありますし……」
 目の前で腕を広げる高山に気圧され、嘉文は後じさった。
「なんで駄目なんですか? 俺のこと嫌いですか?」
「嫌いではないけど、逆にどうしてそんなに私にこだわるんです? あなたモテるでしょう?」
「そういうチャラいのが嫌で都会を離れたんです。そしたら田辺さんに出会った。運命じゃないですか、これ!」
「運命では無いと思います」
「じゃあ付き合ってみて、合わなくなったら別れれば良いです。一回付き合ってみないと運命かどうかも分からなくないですか?」
「なんでそんなにグイグイ来るんだ」
「だって好きになったから!」
 高山は焦れたように叫んで嘉文を壁に追い詰め、両手を顔の横に突いた。
「あの時追い返されたままほったらかしにされた俺の気持ち、分かります? ずーっとアナタのことが頭から離れなくて、苦しかった! 何回電話しても繋がらないし、名刺の宛先にメールを送っても返事してくれなかったじゃないですか!」
 壁に背中を押しつけられた嘉文は、諦めの悪い高山の目から逃げるように顔を伏せた。
「田辺さんは、俺のこと一回も思い出さなかった?」
 高山は嘉文の肩口に顔を埋め、泣きそうな声で囁く。嘉文は鼻先にある高山の髪の香りを嗅いで、背を震わせた。

───思い出さないわけがない……

 まともに睡眠時間の取れない慌ただしさの中、気がつけば高山の事を考えてしまっていた。
 仮眠の度に、情熱的な指と舌で全身を愛撫され、追い詰められて快楽の渦に巻き込まれる夢を見て、息が苦しくなって飛び起きた。
 高山からメールが来ているのにも気がついていた。激務の渦中でなければ、先に「会いたい」と電話をかけたのは嘉文の方だっただろう。
「貴方との……その……、夜の事は、思い出しました。何度も」
「何度も思い出してくれたんだ……」
 高山は嬉しそうに笑う。嘉文は急に顔に血が上るのを感じた。こんな思春期のような会話は気恥ずかしくて耐えられない。
「それが何なんですか! 貴方は私の身体しか知らないでしょう。私もそうだ。よく無責任に好きだなんて言えるな」
「好きって言うのがダメなら、言い直します。俺はえっちな身体の田辺さんともっと何回も好きなだけセックスしたいし、セックス以外に何が好きか知りたいし、俺のことも知って欲しいし、田辺さんのお人柄のことも好きになりそうな予感がするから付き合ってください。はい、イェスかノーで答えて。ノーなら諦めて二度と会わないから!」
 高山は息がかかる距離で嘉文を睨み付け、早口でまくし立てた。嘉文はカッとなって高山を突き飛ばし、
「卑怯だろう、そんなの!」
 と叫んだ。突き飛ばされて尻もちをついた高山はバネ仕掛けのように跳ね起き、嘉文を思い切り抱きしめる。
「イエスですか?」
「……ノーとは言えない」
 嘉文が顔を背けながら苦々しく言うと、高山は満面の笑みを見せ嘉文にむりやり口づけた。
「ば……ここ、外っ……!」
「うん……有り難う……好き……」
「馬鹿っ!」

 二人がもみ合っていると楽屋口のドアが開き、タバコをくわえた雄一が姿を見せた。
「何やってんだ、嘉文……」
 呆気にとられた雄一の口からタバコが落ちる。嘉文は高山の腕から逃れようと藻掻いたが、高山はますます強く嘉文を抱き込み、
「田辺さんは俺が貰っていきますね!」
 と高らかに宣言し、嘉文を肩に担ぎ上げて走り出した。「はぁ!? ふざけんなよ!」と怒鳴る雄一の声があっという間に遠ざかる。

「ちょ……! 何やってんだ、下ろせ!」
 肉体労働で鍛えられた高山の身体は、嘉文が拳で叩いたくらいではびくともしない。そのまま広い駐車場の端まで走った高山は、自分のワンボックスカーの助手席に嘉文を放り込み、素早く運転席に座ってエンジンをかける。
「バカ! 下ろせ!」
「はいはい、危ないからシートベルト締めて下さい」
 ドアを開けようとする嘉文を無視し、高山は車を急発進させた。嘉文は慌ててシートベルトを締める。

 そのまま猛然と山道を半時間ほど走ると、隣で散々悪態をついていた嘉文もようやく諦めるしかないと気付いて大人しくなった。
「どこへ行く気だ?」
 疲れた顔で問いかける嘉文に、高山は
「どこへでも」
 と嬉しそうに返事する。嘉文は馬鹿馬鹿しくなって小さく笑い声を上げた。
「何なんだコレ。何もかも滅茶苦茶じゃないか」
「でも田辺さんは滅茶苦茶にされるの好きでしょ」
 しれっと返され、嘉文は赤面する。

 そのまま会話は途切れ、高山は黙ったまま機嫌良さそうに車を飛ばした。道路はいくつかトンネルを過ぎて県境を越え、下り道に入っている。
「ね、田辺さんって下の名前『よしふみ』なんですか?」
 唐突に聞かれ、嘉文は
「ええ」
 と頷いた。
「じゃあフミさんって呼んで良いですか?」
「はぁ……まあ、良いですけど。ヨシではなく?」
「ヨシは他の人にも呼ばれるでしょ。だから俺だけフミさんて呼んだら特別っぽいから」
「なるほど。そういうのを気にするんですね。じゃあ高山さんは下の名前は?」
「諒です。言偏に京都の京でリョウ。短いから呼び捨てで良いですよ」
「……りょう」
 口に出すととても舌に馴染む響きだった。
「良い名前ですね」
 そう言って運転席へ目をやると、高山は真っ赤な顔でニヤける口元を片手で押さえていた。
「やべ、なんかクるわ……嬉しい……」

 山道を下りきり、市街地を抜けた車のフロントガラスの向こうに、海が姿を現した。
「やった、海だ! 俺、海好きなんですよ」
 ハンドルを握っていた高山が明るい声を上げて窓を全開にする。温かく塩辛い風が吹き込んできて、冷房で冷えすぎた車内の空気を一掃する。

 夕陽に輝く広い海原を見た途端、嘉文はふと気が抜けるのを感じた。

 盛雄を失った悲しみがストンと心のあるべき場所に納まり、長い間心にわだかまっていた和田の家や血族に対する暗い思いが、するりと解けて消えていく。
 盛雄への愛惜を抱いたままどこへでも行けると思った。誰と抱き合っても、盛雄への思いが消えてしまうわけではない。そう素直に思え、嘉文は心地よい海風に目を細めた。

 高山はそんな嘉文を横目で見て、
「海風って気持ち良いよね。次は海の傍に住もっかな。……フミさんも一緒に住もうよ」
 と子どもっぽく冗談めかして言った。彼が何かを強請る時にその顔をすることに気がついた嘉文は、吹き出しそうになりながら
「いいね」
 と頷く。高山は
「マジで!? えっ……ほんとに……?」
 と赤い顔をして目を丸くした。

「まだ東京にも地元にも片付けることが残ってるから、少し時間はかかるけど」
「全然、全然待つ! 俺も中井さんに不義理はできないし」
「うん。しばらくは離れ離れになるけど、必ず連絡はつくようにするから……」
 嘉文が微笑んで言うと、高山は路側帯に車を停めて助手席に身体を乗り出し、笑ったままの唇に噛みついた。

「じゃあ、今後のことはひとまずおいといて、今日はそこに泊まるって事で……」
 上目遣いの視線の先を辿ると、派手な外装のホテルに行き着く。嘉文は今度こそ声を上げて笑い出し、それでも同意の印に頷いてキスを返した。


<おしまい>

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