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和田の屋敷へ到着し、門扉のセキュリティを解除して車庫に車を入れた途端、大粒の雨が降ってきた。
屋敷の敷地には、築百年ほど経つ母屋と離れの他に、庭の一部を潰して建てられた洋風二階建ての小さな家があった。ラベンダー色の屋根が乗った玩具のような家は、聡美と嘉文の為だけに建てられたものだ。
敷地内の何処にも人は住んでいない。盛雄は普段は東京の別宅で起居しているし、嘉文も同じく東京に部屋を借りている。雄一も都内のマンションで暮らしていて、聡美は海外から帰ってこない。曇天の下、無人の母屋は巨大な生き物の死骸のように見えた。
シャワーのように降り出した雨の中、嘉文は鞄を濡らさぬよう脇に抱えて自宅へ走る。滅多に使わない鍵を開け、色ガラスの嵌まった白い玄関ドアを押し開けると、籠もった熱気が押し寄せた。
嘉文は塵一つ落ちていない玄関で靴を脱ぎつつ、他人の家に勝手に上がり込むような居心地の悪さを感じた。
廊下に上がって真っ直ぐ浴室に向かい、車庫からの短い距離でも濡れてしまった喪服を脱いでシャワーを浴びる。
浴室には、妻が絶対に必要だと譲らなかったミストサウナや乾燥機能がついている。彼女がこの浴室でくつろぐことはあったのだろうか。聡美がこの家で過ごした時間はあまりにも短かった。
嘉文は、聡美の痩せぎすの身体を思い描こうとしたが、数度見ただけのそれはシャワーの湯気のように朧気だ。
子どもができていれば、また違ったのだろうか、と嘉文は熱いシャワーの下で立ち尽くしたまま考える。
───聡美との間に早々に子ができていれば、盛雄は自分を選んだだろうか?
妻のことを考えるつもりが、嘉文の思考はまた盛雄の方へと流れていく。こんな調子の自分を父に持てば、子が可哀想だ。やはり子どもはできなくて良かったのだ。
苦い気分で目の前の鏡を見ると、三十を少し過ぎてじわりと身体の線の緩み始めた男が、疲れた顔をして立っていた。
大して魅力もない中年だ。母に似た細面は、神経質そうな印象ばかりが強い。石鹸を泡立てて身体を洗っていると、
『今晩、相手してやるよ』
昼間、町内会館の裏庭で雄一から言われた言葉が耳に蘇って吐きそうになった。
雄一が嘉文にちょっかいをかけ始めたのは、高校生の頃だった。
母親を失ったばかりの嘉文は、離れに狭い自室を与えられていた。
夏の、夕暮れ時のことだった。古いレースのカーテン越しに夕陽が毛羽だった畳を赤く染めていたのを、今でもはっきりと覚えている。
『お前、親父が好きなんだろう』
ずかずかと無遠慮に嘉文の部屋に踏み込んできた雄一は、揶揄いと侮蔑をたっぷりと含んだ声でそう言った。頭を掴まれて無理矢理上を向かされた嘉文は咄嗟に何も言い返せず、ただ怯えたような目で雄一を見た。
父親代わりの盛雄に対して恋情を抱いていることは、嘉文の絶対の秘密だった。バレたら全てが終わってしまう。だから想いを口に出したことも、紙に書いたことも、一度も無い。それが何故雄一に知られたのか、全く分からなくて恐ろしかった。
『安心しろよ、俺しか気付かねえし、誰にも言わねえって』
雄一は口元を歪めて笑う。嘉文は背中に冷汗が伝うのを感じつつ、
『……もちろん、僕は盛雄先生を尊敬してるし、大好きだ。何もやましいことなんか無い』
と擦れる声で反論する。雄一の笑みがいたぶるような物に変わった。
『へえ、チンコいじりながらケツに指突っ込んで、親父の名前呼んでたのに?』
嘉文は凍り付いた。血の気が引いて視界が暗くなる。雄一の言葉は事実だった。誰にも見られぬよう細心の注意を払って耽っていたはずなのに、何故気付かれた?
『そんなことは……』
否定しようとする声が震え、雄一は嘲笑を弾けさせた。
『お前、親父に抱かれてえわけ? あんなおっさんに?』
嘉文は真っ赤な顔を俯かせ、じっと黙った。笑いを納めた雄一は、嗜虐的な顔をして嘉文を見下ろした。
『……俺が代わりにやってやるよ』
そう言った雄一のギラついた瞳に浮かんだものが、性欲だったのか、支配欲だったのか、それとも別の何かだったのか、嘉文には分からない。
雄一は嘉文を犯した。
嘉文は、抵抗しなかった。むしろ自ら進んで焼かれに行った。
それ以来、雄一は『相手をしてやる』と暗い笑みを浮かべて嘉文を誘うようになり、嘉文は誘いに乗り続けた。
拒んで盛雄にバラされるのが恐ろしかったのか、それとも心の底では喜んでいたのか、嘉文自身にも分からない。
嘉文は中学に上がる頃から、自分の性的興味が同性に向いている事を自覚していた。
誰と誰が交際してるか、誰と誰の間に肉体関係があるのかまで詳細に伝わってしまう田舎町で、嘉文の性的欲求を安全に満たしてくれるのは雄一唯一人で、踏み躙られた側の嘉文と踏み潰した側の雄一は、ある意味合意の上での共犯だったのだ。
雄一は家柄や血筋、偉大な父という重圧へのささやかな反抗として、嘉文はいくら渇望しても盛雄からは決して与えられない満足を得る代償として、二人は一緒に道を踏み外した。
考えの浅い高校生だったあの頃、自分たち二人の間にあったものは、歪んではいたが愛情に近い物であったのだろうと嘉文はボンヤリ回想する。きっとあの頃お互いがいなければ、嘉文と雄一は、この閉鎖的な町でもっと酷く人生を踏み外していただろう。
しかし、そんな危うい共犯関係は長続きしなかった。回数を重ねるごとに雄一の行為は暴力的になり、嘉文は疲弊した。雄一の渡米が決まった時、嘉文は心底安堵したのだ。
雄一がいなくなり、聡美との結婚を盛雄から勧められた時が、人生の絶頂だったと嘉文は自嘲する。それから後は、下がるばかりだ。
聡美は去り、雄一は戻ってきた。
雄一も嘉文も、今はお互い相手を選ぶ自由があるのに、いつの間にか関係は元に戻ってしまっている。惰性か、それとも別の感情があるのか、自分でも良く分からない。
それでも、シャワーの降り注ぐ下、嘉文の手は自動的に動いていく。
知った手順で尻穴をほぐし、中をすすぐ。手順が進む度に不快感と吐き気は増したが、何もせずに出向いて無理に犯されるよりはマシだ。
浴室を出た嘉文は、洗面台の鏡に映った虚ろな顔を極力見ないようにしつつ、戸棚の奥から軟膏を取り出し、あらかじめ穴に塗り込んだ。
濡れ髪のままスウェットの下だけを履いてダイニングに向かい、作り付けの酒棚から掴んだウィスキーをグラスに半分ほども注いでそのまま飲み干した。喉が灼け、胃に溜まっていた重い固まりが燃え上がる。
曇り一つ無いシンクにグラスを置いたところで、玄関が開く音がした。雄一の来訪だ。嘉文は重い足取りで彼を出迎えた。
リビングの壁際に置かれた大型テレビのスピーカーからは、悲鳴のような女の嬌声が流れ、画面には大きく脚を開かれた素裸の女性と、それに覆い被さる男の背中が映っている。
雄一が持ち込んだアダルトビデオだ。
ソファに浅く腰掛けて画面に見入る雄一の脚の間で、嘉文は床に膝をつき、彼の物を咥えていた。
まだ柔らかい肉茎を喉奥に導き、歯を立てぬよう気をつけて丁寧にしゃぶる。頭を動かす度に吐き気が増したが、きつく目を閉じてやり過ごす。雄一の反応は鈍い。画面の中の女の嬌声はますます激しくなり、肉を打つ音が被る。
───女が好きなら女を抱けば良いものを……
唾液があごを伝う感触に眉を寄せた嘉文は、胸の内で吐き捨てる。それをどう誤解したのか、雄一は
「チンポしゃぶって感じてんの。相変わらず変態だな、お前」
と嘉文の頭を小突いた。嘉文は何も言わず、機械のように口を使う。
いい加減あごが怠くなってきた頃、嘉文は髪を掴まれて動きを止めた。奉仕していた雄一のモノはようやく完全に立ち上がっていた。
促されるまま四つん這いになって尻を上げさせられ、前戯も何も無く突き入れられる。多少の準備はしてあったものの、無理に押し入られては快感などあった物ではない。
しかし雄一の身体を通して盛雄に触れているのだと思えば、嘉文の身体は簡単に高ぶった。馬鹿馬鹿しいとは分かっているが、雄一を拒めない理由の一つがそれだった。
「うぅ……」
苦しさに低く呻けば、
「声上げるなよ、気色悪い」
と臀部を強く叩かれ、嘉文は床についた自分の腕に噛みついて声を押し殺した。
雄一は目を画面に向けたまま自分勝手に腰を振り、すぐに果てた。
なんの言葉も無いまま一方的に繋がりを解かれ、嘉文は虚しさと脱力感で一杯になった胸を抱えて床に転がる。
ティッシュで雑に股間を拭った雄一は下着とズボンを引き上げ、
「ビール」
と横柄に言いつけた。
力の入らない身体を無理に起こした嘉文は、無言のまま衣服を身につけ、キッチンに向かう。
中途半端にスイッチを入れられた身体が火照って鬱陶しい。
雄一との関係は、いつもこうだ。
お互い他にやることも、言いたいこともあるはずなのに、黙ったまま不機嫌に、満足できないままのセックスを重ねる。
ビールと水を持って戻ると、テレビ画面のアダルト映像は地上波のバラエティーに変わっていた。雄一は無言で缶を受け取って一口啜り、
「お前、しばらくこっちにいるんだってな」
と言った。
「はい。母屋の修繕に立ち合いますから」
嘉文はむっつりと答える。
少し前まで母屋に住んでいた盛雄の高齢の母は、認知症が進んで介護施設へと移った。それから母屋は無人になっており、普段足を踏み入れるのは、週一回掃除にやってくる業者だけだ。その業者から雨漏りがしていると連絡があり、嘉文は修繕の立ち会いのため、しばらくここに留まることになっている。
「相変わらず貧乏くじ引いてるな」
嘲笑うような声に、
「地元関係は私の担当ですので」
と嘉文が低く答えると、雄一は声を上げて笑った。
「そうだな、親父はお前を一生ここに縛っておくつもりだろうから」
「本望です。私は一生盛雄先生のお側にお仕えするつもりですから」
嘉文が答えるのと同時に、テレビからどっと賑やかな笑い声が上がった。無関係なテレビの中の芸人にまで嘲られたようで、嘉文は顔を強ばらせた。
「くだらない」
雄一は一言吐き捨て、リモコンの電源ボタンを押した。途端に白々しい沈黙が訪れる。
嘉文は、目立つ喉仏を上下させてビールを呷る雄一の横顔をじっと見る。若い時の盛雄に似た角張った顎。ずんぐりとした猪首。敬愛する男と似ているが、瞳の色の深さがまるで違う。
盛雄の額には、常に未来を憂えるような深い縦皺があった。引き結んだ口元には、いつも強い意志が宿っていた。
嘉文はその強さに惹かれたのだ。
雄一のつるりとした顔面に、嘉文の愛する盛雄の影は見つからない。
雄一は黙ったままビールを飲み干し、空になった缶を勢いよくテーブルに叩き付けて立ち上がった。
「帰る」
「飲酒運転ですよ」
「ハッ! ビール一缶くらい飲んだ内に入らない」
雄一はさっさと部屋を出て行く。嘉文は雄一の鞄を持って先に玄関に降り、慇懃にドアを開けた。
ドアの外は日没をとうに過ぎて暗くなっている。雄一はドアを手で押さえて頭を下げている嘉文の顎に手をかけ、顔を上げさせた。
「どうせ後援会回りに行くんだろ。ちゃんと俺の名前も売っとけよ」
嘉文はそれには答えず、顎を掴む手をやんわり払いのける。掴まれた顎がむず痒くて気持ち悪い。
「私は先生の為に働くだけです」
雄一は何も言わず、嘲笑一つを残して車庫の方へ消えていった。
雨は既に止んでいたが、空には厚い雲がかかっていて星は見えず、庭のところどころに置かれたソーラーライトだけが、湿気に滲んで黄色く光っていた。
しばらくすると、屋敷の前の道を雄一のクーペのヘッドライト照らすのが見え、低いエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえた。
その夜、嘉文は眠れなかった。
雄一によって半端に煽られた身体の熱がいつまでも去らず、それを紛らわせるために強か酒を飲んだ。酔って思考が曖昧になると、胸の底に沈めた不安が泡のように意識の表層に上ってくる。盛雄に捨てられてしまうという絶望。
アルコール漬けになった嘉文の脳は、雄一、聡美、盛雄の間の迷路を何度も辿るが、結局は眠りに落ちる瞬間に唇から漏れた
「おれは、先生に愛されたいだけなんだ……」
という小さな呟きだけが真実なのだった。
屋敷の敷地には、築百年ほど経つ母屋と離れの他に、庭の一部を潰して建てられた洋風二階建ての小さな家があった。ラベンダー色の屋根が乗った玩具のような家は、聡美と嘉文の為だけに建てられたものだ。
敷地内の何処にも人は住んでいない。盛雄は普段は東京の別宅で起居しているし、嘉文も同じく東京に部屋を借りている。雄一も都内のマンションで暮らしていて、聡美は海外から帰ってこない。曇天の下、無人の母屋は巨大な生き物の死骸のように見えた。
シャワーのように降り出した雨の中、嘉文は鞄を濡らさぬよう脇に抱えて自宅へ走る。滅多に使わない鍵を開け、色ガラスの嵌まった白い玄関ドアを押し開けると、籠もった熱気が押し寄せた。
嘉文は塵一つ落ちていない玄関で靴を脱ぎつつ、他人の家に勝手に上がり込むような居心地の悪さを感じた。
廊下に上がって真っ直ぐ浴室に向かい、車庫からの短い距離でも濡れてしまった喪服を脱いでシャワーを浴びる。
浴室には、妻が絶対に必要だと譲らなかったミストサウナや乾燥機能がついている。彼女がこの浴室でくつろぐことはあったのだろうか。聡美がこの家で過ごした時間はあまりにも短かった。
嘉文は、聡美の痩せぎすの身体を思い描こうとしたが、数度見ただけのそれはシャワーの湯気のように朧気だ。
子どもができていれば、また違ったのだろうか、と嘉文は熱いシャワーの下で立ち尽くしたまま考える。
───聡美との間に早々に子ができていれば、盛雄は自分を選んだだろうか?
妻のことを考えるつもりが、嘉文の思考はまた盛雄の方へと流れていく。こんな調子の自分を父に持てば、子が可哀想だ。やはり子どもはできなくて良かったのだ。
苦い気分で目の前の鏡を見ると、三十を少し過ぎてじわりと身体の線の緩み始めた男が、疲れた顔をして立っていた。
大して魅力もない中年だ。母に似た細面は、神経質そうな印象ばかりが強い。石鹸を泡立てて身体を洗っていると、
『今晩、相手してやるよ』
昼間、町内会館の裏庭で雄一から言われた言葉が耳に蘇って吐きそうになった。
雄一が嘉文にちょっかいをかけ始めたのは、高校生の頃だった。
母親を失ったばかりの嘉文は、離れに狭い自室を与えられていた。
夏の、夕暮れ時のことだった。古いレースのカーテン越しに夕陽が毛羽だった畳を赤く染めていたのを、今でもはっきりと覚えている。
『お前、親父が好きなんだろう』
ずかずかと無遠慮に嘉文の部屋に踏み込んできた雄一は、揶揄いと侮蔑をたっぷりと含んだ声でそう言った。頭を掴まれて無理矢理上を向かされた嘉文は咄嗟に何も言い返せず、ただ怯えたような目で雄一を見た。
父親代わりの盛雄に対して恋情を抱いていることは、嘉文の絶対の秘密だった。バレたら全てが終わってしまう。だから想いを口に出したことも、紙に書いたことも、一度も無い。それが何故雄一に知られたのか、全く分からなくて恐ろしかった。
『安心しろよ、俺しか気付かねえし、誰にも言わねえって』
雄一は口元を歪めて笑う。嘉文は背中に冷汗が伝うのを感じつつ、
『……もちろん、僕は盛雄先生を尊敬してるし、大好きだ。何もやましいことなんか無い』
と擦れる声で反論する。雄一の笑みがいたぶるような物に変わった。
『へえ、チンコいじりながらケツに指突っ込んで、親父の名前呼んでたのに?』
嘉文は凍り付いた。血の気が引いて視界が暗くなる。雄一の言葉は事実だった。誰にも見られぬよう細心の注意を払って耽っていたはずなのに、何故気付かれた?
『そんなことは……』
否定しようとする声が震え、雄一は嘲笑を弾けさせた。
『お前、親父に抱かれてえわけ? あんなおっさんに?』
嘉文は真っ赤な顔を俯かせ、じっと黙った。笑いを納めた雄一は、嗜虐的な顔をして嘉文を見下ろした。
『……俺が代わりにやってやるよ』
そう言った雄一のギラついた瞳に浮かんだものが、性欲だったのか、支配欲だったのか、それとも別の何かだったのか、嘉文には分からない。
雄一は嘉文を犯した。
嘉文は、抵抗しなかった。むしろ自ら進んで焼かれに行った。
それ以来、雄一は『相手をしてやる』と暗い笑みを浮かべて嘉文を誘うようになり、嘉文は誘いに乗り続けた。
拒んで盛雄にバラされるのが恐ろしかったのか、それとも心の底では喜んでいたのか、嘉文自身にも分からない。
嘉文は中学に上がる頃から、自分の性的興味が同性に向いている事を自覚していた。
誰と誰が交際してるか、誰と誰の間に肉体関係があるのかまで詳細に伝わってしまう田舎町で、嘉文の性的欲求を安全に満たしてくれるのは雄一唯一人で、踏み躙られた側の嘉文と踏み潰した側の雄一は、ある意味合意の上での共犯だったのだ。
雄一は家柄や血筋、偉大な父という重圧へのささやかな反抗として、嘉文はいくら渇望しても盛雄からは決して与えられない満足を得る代償として、二人は一緒に道を踏み外した。
考えの浅い高校生だったあの頃、自分たち二人の間にあったものは、歪んではいたが愛情に近い物であったのだろうと嘉文はボンヤリ回想する。きっとあの頃お互いがいなければ、嘉文と雄一は、この閉鎖的な町でもっと酷く人生を踏み外していただろう。
しかし、そんな危うい共犯関係は長続きしなかった。回数を重ねるごとに雄一の行為は暴力的になり、嘉文は疲弊した。雄一の渡米が決まった時、嘉文は心底安堵したのだ。
雄一がいなくなり、聡美との結婚を盛雄から勧められた時が、人生の絶頂だったと嘉文は自嘲する。それから後は、下がるばかりだ。
聡美は去り、雄一は戻ってきた。
雄一も嘉文も、今はお互い相手を選ぶ自由があるのに、いつの間にか関係は元に戻ってしまっている。惰性か、それとも別の感情があるのか、自分でも良く分からない。
それでも、シャワーの降り注ぐ下、嘉文の手は自動的に動いていく。
知った手順で尻穴をほぐし、中をすすぐ。手順が進む度に不快感と吐き気は増したが、何もせずに出向いて無理に犯されるよりはマシだ。
浴室を出た嘉文は、洗面台の鏡に映った虚ろな顔を極力見ないようにしつつ、戸棚の奥から軟膏を取り出し、あらかじめ穴に塗り込んだ。
濡れ髪のままスウェットの下だけを履いてダイニングに向かい、作り付けの酒棚から掴んだウィスキーをグラスに半分ほども注いでそのまま飲み干した。喉が灼け、胃に溜まっていた重い固まりが燃え上がる。
曇り一つ無いシンクにグラスを置いたところで、玄関が開く音がした。雄一の来訪だ。嘉文は重い足取りで彼を出迎えた。
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雄一が持ち込んだアダルトビデオだ。
ソファに浅く腰掛けて画面に見入る雄一の脚の間で、嘉文は床に膝をつき、彼の物を咥えていた。
まだ柔らかい肉茎を喉奥に導き、歯を立てぬよう気をつけて丁寧にしゃぶる。頭を動かす度に吐き気が増したが、きつく目を閉じてやり過ごす。雄一の反応は鈍い。画面の中の女の嬌声はますます激しくなり、肉を打つ音が被る。
───女が好きなら女を抱けば良いものを……
唾液があごを伝う感触に眉を寄せた嘉文は、胸の内で吐き捨てる。それをどう誤解したのか、雄一は
「チンポしゃぶって感じてんの。相変わらず変態だな、お前」
と嘉文の頭を小突いた。嘉文は何も言わず、機械のように口を使う。
いい加減あごが怠くなってきた頃、嘉文は髪を掴まれて動きを止めた。奉仕していた雄一のモノはようやく完全に立ち上がっていた。
促されるまま四つん這いになって尻を上げさせられ、前戯も何も無く突き入れられる。多少の準備はしてあったものの、無理に押し入られては快感などあった物ではない。
しかし雄一の身体を通して盛雄に触れているのだと思えば、嘉文の身体は簡単に高ぶった。馬鹿馬鹿しいとは分かっているが、雄一を拒めない理由の一つがそれだった。
「うぅ……」
苦しさに低く呻けば、
「声上げるなよ、気色悪い」
と臀部を強く叩かれ、嘉文は床についた自分の腕に噛みついて声を押し殺した。
雄一は目を画面に向けたまま自分勝手に腰を振り、すぐに果てた。
なんの言葉も無いまま一方的に繋がりを解かれ、嘉文は虚しさと脱力感で一杯になった胸を抱えて床に転がる。
ティッシュで雑に股間を拭った雄一は下着とズボンを引き上げ、
「ビール」
と横柄に言いつけた。
力の入らない身体を無理に起こした嘉文は、無言のまま衣服を身につけ、キッチンに向かう。
中途半端にスイッチを入れられた身体が火照って鬱陶しい。
雄一との関係は、いつもこうだ。
お互い他にやることも、言いたいこともあるはずなのに、黙ったまま不機嫌に、満足できないままのセックスを重ねる。
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「お前、しばらくこっちにいるんだってな」
と言った。
「はい。母屋の修繕に立ち合いますから」
嘉文はむっつりと答える。
少し前まで母屋に住んでいた盛雄の高齢の母は、認知症が進んで介護施設へと移った。それから母屋は無人になっており、普段足を踏み入れるのは、週一回掃除にやってくる業者だけだ。その業者から雨漏りがしていると連絡があり、嘉文は修繕の立ち会いのため、しばらくここに留まることになっている。
「相変わらず貧乏くじ引いてるな」
嘲笑うような声に、
「地元関係は私の担当ですので」
と嘉文が低く答えると、雄一は声を上げて笑った。
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「本望です。私は一生盛雄先生のお側にお仕えするつもりですから」
嘉文が答えるのと同時に、テレビからどっと賑やかな笑い声が上がった。無関係なテレビの中の芸人にまで嘲られたようで、嘉文は顔を強ばらせた。
「くだらない」
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盛雄の額には、常に未来を憂えるような深い縦皺があった。引き結んだ口元には、いつも強い意志が宿っていた。
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「帰る」
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嘉文はそれには答えず、顎を掴む手をやんわり払いのける。掴まれた顎がむず痒くて気持ち悪い。
「私は先生の為に働くだけです」
雄一は何も言わず、嘲笑一つを残して車庫の方へ消えていった。
雨は既に止んでいたが、空には厚い雲がかかっていて星は見えず、庭のところどころに置かれたソーラーライトだけが、湿気に滲んで黄色く光っていた。
しばらくすると、屋敷の前の道を雄一のクーペのヘッドライト照らすのが見え、低いエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえた。
その夜、嘉文は眠れなかった。
雄一によって半端に煽られた身体の熱がいつまでも去らず、それを紛らわせるために強か酒を飲んだ。酔って思考が曖昧になると、胸の底に沈めた不安が泡のように意識の表層に上ってくる。盛雄に捨てられてしまうという絶望。
アルコール漬けになった嘉文の脳は、雄一、聡美、盛雄の間の迷路を何度も辿るが、結局は眠りに落ちる瞬間に唇から漏れた
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