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〈34〉真の目覚め

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 美琴が目覚めるとなにやら額にひんやりとしたものが乗っていた。

 手に取ればそれは濡れた手ぬぐいで。枕元には水の入った桶が置いてあった。

 場所は住み慣れた家の自室だ。小窓から見える外は明るい。

 美琴は身体を起こして記憶をたどる。

 トウヤと莉乃の最期。それから紫珱の腕の中眠ってしまったこと。

 私、どのくらい眠っていたんだろう。


「───目覚めたか、美琴」

 部屋の戸が開いて紫珱が顔を出した。

「紫珱さま……」

 傍らに座った紫珱の手が伸びて、おでこに触れた。

「熱は下がったようだな、よかった」

「熱?」

 紫珱は頷いた。

「夜明け前にここへ戻ってから、おまえは目覚めないまま熱をだしていた。疲労もそうだが精霊を扱う力に目覚めたせいもあるな。慣れない霊技は体力を消耗させる。そのせいで熱が出たんだろう」


「そうでしたか。あ……でも」


「どうした?」


「なんだか……紫珱さまと初めて逢ったときを思い出します」


 あのときも授かった霊力がまだ身体に馴染んでいないせいで熱をだしたんだ。


「あぁ、そうだったな」


 紫珱は微笑んだ。


「それじゃあこれは?」

 紫珱が服の袂から白い包みを取り出した。

 ふわりと香ったそれに美琴は微笑む。


「もちろん。林檎の焼き菓子でしょう?」


 甘く煮込んだ林檎を粉の生地に挟んで焼いたお菓子。

 あのときも、何も食べていなかった美琴に紫珱はこれと同じものを差し出したのだ。


「わざわざ買ってきてくださったんですか?」


「腹が減ってたからな。いろいろ買ってきたんだ。向こうの部屋にもまだあるぞ」


「お腹が……?あの、いま何時ですか?」


「午後の二時を過ぎた頃だ」


「えぇっ、私そんなに寝ちゃってたんですか⁉」


 紫珱のお腹が減るのも頷ける。


「すみませんっ、あの……朝ご飯とか、お昼ごはんとかは?」


 紫珱はどうしていたのだろう。


「なんだ、そんなことで謝らなくても。リンとラセツが交替でおまえの看病をしてくれたから、俺も昼前まで休んでいたし。昼飯は蜜華亭の女将に事情を話して用意してもらったよ。───そうだ、菓子より粥のほうがいいか?さっき女将が心配して様子を見にきてな、起きてから食べられそうなら作るからと言ってたぞ」


「そんな話を? 紫珱さまは女将さんとたくさんお喋りできるようになったんですね」


 ここへ来たばかりの頃、紫珱はまだ美琴以外の人間と話すときはたどたどしい不完全な言葉だった。


「そうだな。美琴のおかげだ。おまえが俺に言霊の力をたくさん分けてくれたからな。どうだ?腹は減っていないか? 粥にするか?菓子がいいならお茶をもってきてやろう」


「紫珱さま、お茶なら私が用意しますから。居間で一緒にお菓子を食べませんか?」


「だが起きて平気か?美琴の体調が心配だ。食べたらまた眠った方が……」


「大丈夫ですよ。私、紫珱さまと一緒にお菓子が食べたいです。美味しいお茶を淹れますから、待っていてください」


「そうか、わかった」

 紫珱は嬉しそうに立ち上がると、美琴が使った手ぬぐいと水桶を持ち部屋を出て行った。


 ♢♢♢


「今日はいいお天気ですね」

 冬の季節にしては珍しく陽射しが柔らかく、暖かな昼下がりだった。

 座卓の上には紫珱が蜜華亭から買ってきた菓子がいろいろと並んでいたが、さすがに種類も数も多すぎたので、いま食べるだけ一種類を選んだ。

「残りはまた夜食だな」


「寝る前に食べては虫歯になりますよ」


「ちゃんと歯磨きするから大丈夫だ」


 紫珱さまったら、本当にお菓子が大好きなんだから。子供みたい。


「───はい、どうぞ。熱いから気を付けてくださいね」


 美琴は紫珱の湯吞に濃い緑茶を注いだ。


「ふむ。良い香りだ、お茶も菓子も」

 数あるお菓子の中から本日のおやつに紫珱が選んだのは結局、あの林檎の焼き菓子だった。


 しかもこの焼き菓子はほかに買ってきたものの中でも数が多かった。


「紫珱さまはこれがお気に入りなんですね」


「うむ。毎日でも食べたいな」


「そうですか。じゃあ西の〈晶珂〉へ行ったら、私が毎日作りますね」


「うん。楽しみだ。美琴の作る菓子ならほかにもいろいろ食べてみたい」


「はい。私も紫珱さまに食べてもらうのが楽しみです」


 紫珱は微笑む美琴をじっと見つめ、そして言った。


「ありがとう、美琴」

 それはとても穏やかで幸福で心があったかくなる瞬間だった。


 昨夜のことがとても遠い出来事のように思えた。


「紫珱さまの怪我は……。ちゃんとお薬塗りましたか? 酷い傷だったから心配です」


 まるで何事もなかったように見えるが、あのときのことを思い出すだけでも胸が痛む。


「もうほとんど治りかけている。痛くないから心配するな。治癒が早いのも半減していた力が完全に戻ったからだ」


 紫珱の言葉に美琴はハッとした。


「完全に、ということは。紫珱さまに真の目覚めが?」


「ああ」


「……あの、でも……」


 ───でも。私の朱の葩印にはまだ触れてないのに?


「葩印の儀式を気にしてるのか?」


 頷く美琴を見つめながら紫珱は言葉を続けた。


「あのとき、妖魔の呪術網が解けて、美琴は俺に想いを伝えてくれた。そしておまえから俺に触れてくれた。美琴が全身全霊で伝えてくれた言霊が『真の目覚め』に繋がったのだと思う。心が繋がって、美琴と想い合えたからだと俺は思う。───嬉しかったよ、とても。本当はとても怖かったんだ。美琴に、いつか拒絶されるのではないかと思っていたから」


 お茶を口に含み、一呼吸置いてから、紫珱はまた話を続けた。


「霊獣の姿の俺に怯えないでほしいと思っていた。それから、美琴はきっと俺の花嫁になりたくないのかもと思ったり、貴族の伴侶になんてならない方がいいのかもと思ったりな。でもあのときおまえは言ってくれた、俺の全部が大好きだと」


 ふわりと空気が揺れたように思った瞬間、紫珱は霊獣の姿となっていた。

 全身を覆う、ふさふさとした銀色の毛並み。輝きの中に虹色が煌めいてとても美しい。


「おまえから、この姿の俺に触れて受け入れてくれたことに感謝している」


「感謝だなんて。───気付かせてくれたのは莉乃さんです」


「莉乃が?」


「はい。莉乃さんの存在を知って、私は嫉妬しました。それから気付いたんです。私、紫珱さまのことがとても好きになっていたことに」


「嫉妬なら俺も同じだ。おまえの見合い相手に嫉妬した。あれはとても苦しい感情なのだな。そして冷静にならないとそこから疑いの念が生まれる。信じていたものが崩れそうになる。あんな想いはもうしたくない。……だがそういう感情も人間の一部なのだとも思う」


 美琴も頷いた。

「人の心は複雑で、脆かったりします。だけど強さや優しさや美しさもあって、そういう想いを増やせていけたらって、私は思います。そういう言霊を、私は紫珱さまにたくさん伝えたいです……。私、紫珱さまの花嫁になれること、いまはとても嬉しくて幸せだから」


「美琴……」


 霊獣が近寄り、その鼻先を美琴の腕にこすり付けた。


「おひげがくすぐったいですョ、紫珱さま」


 すりすりしてくる紫珱に恥ずかしさを感じながらも、美琴はその毛並みに顔を寄せる。

 ふわふわでモフモフの感触がたまらなく心地よかった。───のだが。

 ふわりとまた空気が揺らいで、紫珱は人の姿に戻っていた。

 そしてそのまま、優しく紫珱に抱きしめられた。


「美琴がくっ付いてくるのもいいが、やはり俺はこの姿でおまえのことを抱きしめたい」


 美琴はとてもドキドキしたが、もう以前のような恐ろしさは感じなかった。


「俺に真の目覚めがあっても、葩印の儀式がなくなったわけではないぞ」


 耳元での囁きに美琴は驚いたように顔を上げた。


「おいおい、その顔。儀式はもう必要ないとか思っていたのか?」


「ぇ……と、その…………はぃ」

 美琴の頬や耳が赤く染まる。

 紫珱はそんな美琴を愛おしく思いながら言った。


「葩印の儀式は〈晶珂〉へ行って婚儀を終えてからにするよ。美琴の心がまだよくわからなかった頃は焦りもあったが、今は不思議とそれがない。〈晶珂〉での楽しみがひとつ増えたという感じだ。───でも葩印へではない口づけは我慢しないからな」


 美琴を包む紫珱の両腕にきゅっと力が込められた。

 そしてゆっくりと紫珱の顔が近付いて、唇が重なる。

 甘い蜂蜜と林檎の香りに溶かされるような感覚を、美琴は何度も受け入れた。


「紫珱さま……」


 紫珱の温かさに包まれ、幸せな余韻を感じながら美琴は言った。


「私も〈晶珂〉へ嫁ぐのが楽しみです。紫珱さまのご両親にも会えますか?」


「勿論だ。───ああ、そうだ。会うといえばもう一人、いや二人か。美琴に紹介したい者がいるんだ。明日一緒に行ってくれるか?」


「はい。でもいったいどなたですか?」


「一人は俺の兄弟……と言うには抵抗があるんだが。名は羽矢斗という。もう一人はその妻の紗由良さんだ」


「えッ、その名前。この街《沙英》を含む東方地を治める貴族の?」


「ああ、守護霊獣だ。美琴も俺の嫁に決まったことだし、そうなると貴族の一員でもあるからな。俺はべつに顔なんてださなくてもいいと思っていたのに、ラセツの奴が挨拶はしておいた方がいいとか言うから。美琴もそれでいいか?」


 美琴は「はい」と返事をした。


「紫珱さまと一緒にご挨拶に行きます」


 こうして明日、美琴は紫珱と東地の守護霊獣に会うため出かけることになった。


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