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〈8〉霊獣の帰還

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 翌日、美琴は朝からそわそわと落ち着かず、困っていた。


 これでは心の準備どころか意識しすぎだ。


 何か気の紛れることでもしていないともたない。


 美琴は考えた末、朝食を済ませてから菓子を作り始めた。


 紫珱が喜ぶだろうと穂奈美に言われたからか、紫珱に喜んでほしいからなのか。


 違う、とは言えないけれど。

 それだけのためでもない。

 自分でもよく判らない感情が確かにあるが、しばらく休んでいた店の仕事と同じ作業は美琴を落ち着かせた。


 作ったのは林檎を使った焼き菓子だった。


 あの日、体調を崩した自分を気遣い紫珱が渡してくれたものと同じお菓子を美琴は作った。



 そして菓子が出来上がった頃、そろそろ来るようにとラセツに呼ばれた。


 蜜華亭の客間から望める中庭に行くと、そこには先に来ていた穂奈美がいた。



 ───『……み、…こと……』


 それから間もなく、美琴は声を聴いた。


(シオウさま………?)


 中庭で紫珱の声を真上に感じて美琴は空を見上げた。


 昨日から続く晴天のその中に白銀の光が輝いた。


 それは光輪となって徐々に大きく広がり、粒光に虹色の輝きが重なる。


(ああ、この色……)


 真昼の光さえも霞ませる白銀。


 月光のような美しさ。


 冷たい風が美琴の髪を揺らす。


 光が近付くにつれ、それは形を成していった。


 霊獣の姿へと。


 輝く毛並みと紫の双眸。


 真っ直ぐに美琴を捉えて。

 銀の狼は地上に降りた。

 そして霊獣は人の姿へと変幻しながら美琴へと向かう。


 藍色の中に銀糸で四つ葉模様の刺繍が入った装束を纏い、肩に触れる銀の髪が眩しく揺れている。


 秀麗なだけでなく精悍さも併せ持った面差しと威圧感のある眼差し───だったはずが、今はどこか疲労感を漂わせ不機嫌な様子に見えた。



「美琴、身体の具合はもういいのか?」


 お互いの衣服が触れ合うほどの距離に来て、紫珱は美琴を見下ろした。


「は、はい」


 封じられ半減されている霊力のせいなのか、やはり紫珱の姿は全体的に鮮明さが欠けているように美琴の目には映った。───それにしても、


(ち、近すぎ……っ)



 美琴の前を遮る紫珱の身体は、まるで大きな壁のように感じる。


 射るような眼差しから美琴は瞳を逸らすこともできない。


「あっ……う、おっ、おかえりなさいっ」


 震える声でそれだけ言うのがやっとだった。


「……ただいま」


 紫珱の腕が美琴の背中を抱え込むように回された。


 その直後、頭の上がほんわかと温かくなるのを美琴は感じた。


「?」


 こ、これはもしや……?



 自分の頭に押し当てられているのは紫珱の頬なのか、それともまさか口元なのだろうか。


 顔を上げられない美琴には確認するすべもなく、自然と紫珱の腕の中に抱きすくめられていた。


(わたしっ、また気を失うかもっ……)


 そうならないように美琴はぎゅっと目を閉じ歯を食いしばる。


「美琴の「おかえりなさい」は良いな。ホッとする。それから、なんだか林檎のいい匂いがする」


 頭の上のその声はひどく疲れているように聴こえた。


「……あの、」


 息苦しさに美琴が身じろぐ。


「まだ動くな」


 背中にあった手が美琴の髪を撫でた。

 指に絡まるそれを優しく掬いながら、紫珱はゆっくりと美琴から身体を離した。


 手の中に残した髪はそのままに、紫珱はそれを自分の口元へ当てた。


「菓子の匂いがするな。……食いたい」


「えッ 、あ、あのっ」


 美琴が返答に困っていると、後ろの方で穂奈美がクスクスと笑うのが聴こえた。


「おかえりなさいませ、紫珱さま。でもここで美琴さまを食べないでくださいませね」


「霊獣が人を食べるわけないだろ。そういう意味で言ったわけではない」


「あら、そんなふうに見えましたからつい。あまり美琴さまを困らせては可哀想ですわ」


 穂奈美の言葉に紫珱は顔を顰めた。


「困っているのか、おまえ」


 いきなり訊かれて、美琴は戸惑いながらも反射的に頷いてしまった。


 そんな美琴に紫珱の顔が一層苦く変わり、そして視線は外された。


「穂奈美殿が黎彩からの使いか。紅嵐がよく許したな」


「仕方ありませんわ。これも総代の役目ですから。それより立ち話もなんですからお部屋でお茶でも」


「悪いが少し休ませてくれ」


 こう言いながら紫珱は庭から客室の縁側へ上がり、再び霊獣に変幻した。

 ふさふさとした尾がパタリと床に降りていて、元気のない感じがした。


「お疲れのご様子ですね。美琴さまに薬草茶でも用意してもらっては?」


「茶はいらない。……が、美琴はいる」


「あらまあ」


 穂奈美は苦笑いしながら美琴に寄り、そして囁いた。



「美琴さまはしばらく紫珱さまの傍にいてあげてください。それが一番のお薬になりますから」



 美琴を屋敷の中へ促しながら穂奈美は続けた。



「では紫珱さま、午後のお茶の時間にでもまた伺いますね」


 こう言って、穂奈美は中庭から出て行ってしまった。



「───美琴、おいで」



 ほんの少し振り向いてから、霊獣紫珱は部屋の奥へと入っていく。


 美琴はその後ろを不安な面持ちでついて行くしかなかった。



 ♢♢♢


 霊獣の姿になった紫珱は客間の奥、帳で隔てた寝所で横たわっていた。


 美琴が部屋へ入ると紫珱は眼をあけて言った。


「もっと傍へ」


 おずおずと寝台へ近寄り、その貌をよく見れば眉間に深い溝が刻まれている。


 疲労が溜まっているように思えて、なんだか痛々しい感じがする。


「大丈夫ですか?」


 美琴が尋ねると紫珱は溜め息のような深い呼吸の後で瞳を閉ざしたまま、ああ……とだけ返事をした。


 なんだか、大丈夫ではなさそうな気がする。


 休ませてくれというのだから、きっと本調子ではないのだろう。


 わたし、ここに居ていいのかな。


「あの……」


 …………。


 寝ちゃったのかな?



 紫珱の横たわる寝台の高さは低めで、椅子に座るより立ち膝のまま傍らに寄った方が紫珱の貌がよく見えた。


 ピクピクと動く眉間と髭。そして不規則に吐き出される苦しげな吐息。


 見ているとなんだかこちらまで苦しくなるような気がして。

 美琴はおもわず毛並みを撫でてあげたいという衝動に駆られた。


「あの……紫珱さま」


「なんだ」


 眼を開けた紫珱が苛立たしげに言い放つので、美琴はびくびくしながら尋ねる。


「……あの、その……せ、背中にっ、ふ、触れてもいいですか……?」


「べつにかまわないが」


 霊獣の眼差しに緊張しながらも、美琴は背中にそっと触れ優しく撫でた。


(───ふっ、ふかふかしてる!そしてこのもふもふ感ッ……気持ちいぃ!)


 霊獣の白銀の毛並みは美琴が思っていたよりとても柔らかい感触だった。


 驚きと今更ではあるが恥ずかしくなり、美琴はすぐに手を引っ込めたのだが。


「もっと」


 紫珱が言った。


「……え?」


「もっと撫でろと言ってる。気持ちがよいのだ。ほら、早くしろ」


「は、はい」


 ゆっくりと、何度も。


 優しく労わるように。


 美琴は白銀の獣に触れた。


 少しでも疲れが取れますように。そんな想いを込めて。


「美琴、もういい。ありがとう、よく眠れそうだ」


「そうですか。それはよかったです。ではわたしは……」


 これで失礼します、と言いかけたのだが。


「美琴、俺が目を覚ますまでずっとここにいろよ」


 感情の読めない紫の眼が美琴を見据えた。


 冷たさのあるその眼光に、美琴は身を竦ませ無言で頷くのが精一杯だった。


 沈黙と静寂の中。

 しばらくすると紫珱の呼吸は安定し、安らかな寝息へと変わった。


 そんな様子に、美琴も幾分ホッとして腰を落ち着かせる。


 室内に置かれた大きめの座布団を敷いて座り直し、椅子用の小さな座布団を膝の上で抱えながら美琴は思った。


 触れることはできたけれど。


 きっとこのくらいでは『真の目覚め』というものを促すことなどできないのだろう。


『想い』が伴わなければと。


 穂奈美は言っていたのだ。


 想いって?


 どんなふうに想ったら……。想ってあげたらいいんだろう。


 今の美琴には、まだ判らなかった。



 ♢♢♢


 紫珱が目覚めると明るい光が部屋を満たしていた。


 久しぶりに深く眠った気がすると紫珱は思った。


 ここ数日、自分を取り巻いていた騒がしさが嘘のようにここは静かで。


(……ああ、そうか)


 心地よい目覚めも疲れが取れて身体が軽くなったのも、彼女のおかげなのだと気付いて納得する。


 ───美琴。


 傍らで小座布団を抱えたまま寝台に寄りかかり眠る娘の、その存在に。


 心が不思議と温かなもので満たされてゆくような感覚を紫珱は味わった。


 それは〈言霊〉が身体に染み込むときの感覚と似ていた。


 そしてそれとは逆に、封じてある霊力が外側へ押し出されるような感覚もある。


(……不思議なものだ。とても愛しい)


 紫珱は傍らで眠る娘を見つめながら想う。


 言霊を交わしただけなのに。


 紫珱は人の姿に変幻した。そして寝台を降りると美琴へ手を伸ばした。


 我が妻。選ばれし者。


 まだ彼女の中でたくさんの戸惑いがあるのが判る。


 仕方ない、とも思う。


 でも……それでも。


 彼女はここにいる。

 自分の目の前に。


 紫珱は美琴の蜂蜜色の髪を左耳の後ろへ優しく梳いた。


 するとその首筋のやや後方に浮き上がって現れたものを目にして息を吞む。


(これは朱の葩印。……探す手間が省けてしまったな)


 美琴の身体のどこに現れたのか、じっくりと探すつもりでいたのに。


 紫珱は苦笑混じりの溜め息をついた。


 少し残念だがそれでもいい。


 大切なのはおまえが確かに生きてここにいる、ということ。


 それだけで今は充分だ。


 ───美琴。


 ずっと探していた存在。

 自分を温かなもので満たしてくれる者。


 その尊い存在を。


 紫珱は大切にそっと抱き上げた。

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