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〈1〉後宮の最下位妃、死を選ぶ
しおりを挟む宝石の付いた髪留めや首飾りの入った巾着を握らせると、珪香は首を振って返そうとしたが、苺凛はそれを強く押し止めて言った。
「いいから持っていきなさい。売ればお金になる。これからの生活に役立てて」
「苺凛様、どうか私たちと一緒にお逃げください」
「私は行かない」
苺凛はきっぱりと言った。
「後宮の隅っこにほったらかしで忘れられてるような存在だったけど。これでも一応、妃だからね。ここで最後を迎えようと思うの」
「最後だなんてそんな……」
いまにも泣きそうな顔で珪香は訴えた。
「苺凛様がこの国の犠牲になることないんですよ」
「許して、珪香。今まで従わなければならなかった生き方だったけど、最後くらい自分で決めさせて。それにあなたたちのお荷物になりたくないの」
「お荷物だなんて、そんなことありません。私がこれからも苺凛さまをお支えします。だから」
「だめよ、珪香」
厳しい声で苺凛は言った。そしてそっと珪香の腹に手を伸ばし微笑む。
「珪香にはこれから守らなければならないものがあるでしょう」
珪香はハッとした表情になった。
珪香の身体に新しい命が宿っていることを苺凛は知っていた。
「……申し訳ありません」
珪香は涙を浮かべた。
「なぜ謝るの。ちゃんと祝ってあげられないのが残念よ。ほら、早く行きなさい。彼と一緒に」
苺凛は珪香の肩を抱きながら進むと部屋の出入り口に立つ青年へ眼差しを向けた。
「珪香のこと、幸せにしないと許さないわよ」
「はい、必ず」
青年は力強く頷くと珪香の手を取った。
珪香は泣きながらも真っ直ぐに苺凛へ向き直ると深く頭を下げた。そして青年と共に背を向け、暗がりの通路の奥へ足早に消えて行った。
───これでいい。
たった一人の味方だった私の優しい侍女。
珪香、あなたには幸せになってほしい。
私の分まで。
あの青年ならば珪香を任せられる。後宮の外では兵士として働いていたのだ。
そして珪香のお腹の子の父親でもあるのだから。
息抜きに後宮をこっそり抜け出したときに出逢ったという二人の馴れ初めには仰天したが、宮殿は警備が緩かったせいもあり、二人は上手く愛を育めたのだろう。
与えられた宮殿の警備は苺凛が後宮入りした五ヶ月前から手薄だった。
苺凛は瑤華国の後宮で六番目の末妃だった。
後宮へ入ってから五ヶ月。初日の謁見以来、国王と言葉を交わす機会もなく、寵愛を受けるどころか閨を共にする『お渡り』もないまま。
妃としての位も最下位。後宮の隅っこの宮殿で、苺凛はほったらかしと言ってもいいような待遇を受けていた。
苺凛の祖国は隣国の宗葵国。
母親は王家に属してはいたが傍系の出生だった。そして早逝した顔も知らない父親は異国を渡り歩いていた商人だったと聞いている。
苺凛は姫などと呼ばれたこともなく田舎の邸で育った。
父親が残した財と、それほど広くはないが所有していた農園を営みながら、病の母親と暮らしていたのだが。半年前、十八歳の誕生日を迎えてすぐに王都から使いが来た。
使いは宗葵王の勅令だと言って苺凛に告げた。
瑤華国の王に嫁ぐようにと。
突然の縁談には理由があった。
五年ほど前から『采雅』という名の大国に近隣諸国が脅かされるようになり、大国の侵攻が進んでいくにつれ、とうとう残されたのは宗葵国と瑤華国、二つの小国だけとなった。
そこで二国は采雅国に対抗するため同盟を結んだ。
そして友好の証としてお互いの国から王家の姫を嫁がせるという決め事が交わされた。
───けれど。
なにが友好の証かと苺凛は憤った。
国同士の都合で強引に後宮へ召し上げられるのだ。結局は人質。政治の道具として使われたようなもの。
しかも自分は王家の直系ではない。血筋は薄く産まれてから一度も王宮へ行ったことがなかった身分なのだ。
そして宗葵国の王宮には由緒正しき血筋の姫が三人もいると聞いていたのに。
自分は姫たちの身代わりなのだ。
病の母を置いて嫁ぎたくない。
けれど王の命令では断ることなどできない。
苺凛は母の病が少しでも良くなるように腕の良い医者を邸へ招くこと、病状など記した手紙のやりとりができることを条件に婚姻を承諾した。
心残りはあるが仕方なく瑤華国に嫁いだ苺凛だったが数日後、祖国から信じられない手紙が届いた。
病が急変し、母親が亡くなったという知らせだった。
真実か否か、確かめようもない現実に苺凛は打ちひしがれ、夢も希望もこのときに全て消えてしまったように感じた。
そんな苺凛を支えたのが珪香だった。
苺凛より二つ年上の珪香は、両親を早くに亡くし邸で働いていた。
隣国の後宮へ入ると決まったとき、侍女として仕えると言って来てくれた珪香がいつもそばで励ましてくれたおかげで、辛い現実も少しずつ受け入れられたのだ。
母の死と悲運な自身の境遇を恨んだりもしたが、自分が瑤華国に来たことで諸々丸く収まり、情勢も良くなっていくのならと前向きに考えを転換できるようになった。
───だが、わずかに芽生えた希望は長く続くことはなかった。
苺凛が瑤華国に嫁いで二ヶ月後、宗葵国は釆雅国との戦いに敗れた。
王族は皆殺し。歯向かう者は容赦なく抹殺され、風のような速さで苺凛の祖国は釆雅国に征服された。
そして不幸の連鎖は続く。
宗葵国陥落の知らせを受けてから一ヶ月も経たないうちに瑤華の王が崩御したのだ。
もともと高齢で持病もあり、そこへきて同盟国が征圧されてしまったことによる心労も重なったのだろうと皆噂した。
国王が亡くなってから瑤華国の政情は不安定さを増した。
苺凛は思った。
同盟前からすでにこの瑤華国は脆くなっていたのかもしれない。
新しい妃を迎えても関心がなく、兵士は次々と戦場に駆り出されていた。
宮殿の警備が手薄だったことも、こういった事情からだろう。
前日までいたはずの女官や宮女たち、宦官でさえもが後宮から次々と減っていったのもこの頃からだ。
緊迫した状況にあった釆雅国との関係は好転せず。
後宮入りしてから五ヶ月が経ち、じわじわと侵攻が迫る中、王位継承権のある二人の王子の間で政権争いが起きた。
次期国王にと期待されていた王子は十日前に暗殺され、残る一人の王子も二日前に毒殺されたと聞いた。
国政も王宮も、もう何もかもぐちゃぐちゃだ。
瑤華国が亡ぶのは時間の問題だろう。
だから珪香を逃がした。
苺凛の宮殿近辺は今まで静かすぎるほどだったのに。最近はさざめき、喧騒が日に日に感じ取れる。
広大な王城内の広い広い後宮の隅っこにある小さな宮殿の中にいても、騒々しさが聞こえるくらいになった。
きっと逃げ出す者も多いのだろう。
ならば珪香たちを逃すのも今しかない。
幸い、ここは『ほったらかしの宮殿』だ。
他所よりも騒動に紛れて逃げ易いはず。
王となる者のいない城など、もう誰も護らない。
(きっともうすぐ………)
釆雅国の軍に攻め入られるだろう。
軍を率いているのは采雅王家の第二王子で、冷酷無比な将軍だと聞いている。
噂では天と地の境にあると言われる異界〈仙郷〉という地に棲む龍の血を継いでいるとか。
人のものではない血が混ざっていることで妖しげな異能も持つ半人半龍の王子は、釆雅国でも恐れられている存在だと聞く。
そんな恐ろしい者がここへ来てしまう前に。
自ら命を絶ちたい。
恐ろしい半龍になど殺されたくない。
清らかな身体のまま死にたい。
苺凛は宮殿の奥、寝室へと向かった。
♢♢♢
苺凛は部屋に入ると鏡台の引き出しの奥に隠してあったものを取り出した。
とても小さな箱の中に、それは大事に仕舞われていた。
小指の爪程の大きさのそれは赤茶けた色をしている。
これは瑤華に嫁ぐことが決まり、生まれ育った邸を去るとき母がくれた『毒』だった。
───「苺凛、後宮は華やかだけど恐ろしいところでもあるわ。争い事に巻き込まれて危険な目に合うかもしれない。……使うことがなければいいけれど、あなたの御守りになればいいと思うの。だから持って行きなさい」
こう言いながら母は語った。
───「これは花の種なの。昔は水晶の欠片みたいに光っていたのよ。でもなぜか年数が経つにつれて透明な輝きを失ってしまった。
あなたのお父様はね、いろんな国を巡っていた商人でもあったけど、この種の研究もしていたの。
種は猛毒だけど、花は美しくて薬にもなると言っていたわ。お父様はこの種の花をどうしても咲かせたかったようなの。でもいろいろ試してみても種は土から芽を出さなかった。種は土の中で数日経つと、まるで溶けてしまったように消えて、花が咲くことはなかったの。
お父様が亡くなったとき、残っていた種はもうこの一粒だけだったわ」
なぜ水晶のように透明だったものが、こんなに変色してしまったのか母には判らず、花が咲いたらその名を教えるからと言っていた父だったが、死の間際まで花の名を母に教えることはなかったという。
これを使う日がくるなんて思ってなかったけれど。
(でもこれで私も、母さんと父さんの所へ逝ける……)
苺凛は毒の種を握りしめ寝台へと上った。そして卓の上に用意した水と一緒に毒を飲み込み、ゆっくりと身体を横たえた。
夜半の部屋は薄暗いのに、天蓋に散りばめられた珠飾りが何かに反射してきらきらと光っていた。
(今夜は満月なのね)
小窓から見える銀色の月光を受けて珠が輝いているのだ。
「綺麗……」
最後に美しいものが見れてよかった。
この毒にどんな症状が出るのかは判らないけれど、苦しむのは一時だけ。
きっとすぐに楽になれる。
(───ああ、なんだか身体が熱くなってる……)
さよなら、珪香。
どうか幸せに。そして国の民の未来が少しでも希望が持てるものになりますように。
祈りながら目を閉じると、苺凛の意識は深い闇の中へ吸い込まれた。
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