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11.降りやまぬ雨
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個室の中で、暁はカラオケを熱唱していた。
女の子を口説くのに使う、甘いラブソング。
気がつくと、ナンパした女の子たちはいなくなっていた。
安っぽい合皮のソファに横になっているのは、坂下だった。
坂下の唇が、ゆっくりと動く。
「何?」
周囲の部屋から漏れ聞こえる下手糞な歌声に、坂下の言葉はかき消されて聞こえない。
よく聞こうと顔を近づけると、唇が重なった。
そのまま何度もキスを繰り返す。
暁はゆっくりと坂下の身体に覆いかぶさった。
温かくて滑らかな感触。
坂下は裸だった。
いつの間にか暁自身も服を脱ぎ捨てていた。
「俺のこと、好き?」
坂下がいたずらっぽく尋ねてくる。
暁は、全身の血が下半身に集まるのを感じた。
坂下の問いに素直に頷けない。
暁は答える代わりに、坂下の唇を吸い上げ、舌を絡めた。
坂下の腕が暁を抱きしめる。
カラオケの伴奏が終わり、スピーカーからチューニングの合わないラジオのような、ザーッとノイズが聞こえてきた。
絶え間なく続くざあーっという雨音で、暁は眼を覚ました。
窓の外は薄暗く、まだ未明かと思ったが、時刻を確認すると普段起きるはずの時間をとっくに過ぎていた。
タオルケットを蹴り上げ、一瞬固まる。
「げ。」
下着がべったりと下肢に張り付いていた。
慌てて着替え、暁は洗面台へと向かった。
トランクスの汚れを水道の水で適当に流し、洗濯槽に入った他の洗濯物に紛れ込ませる。
顔を洗い一息つくと、窓を開けて空を見上げた。
とても寝ていられないような、連日の殺人的な暑さに比べれば、気温は低い。
だが、不快指数は変わらない。
立っているだけで、皮膚に黴でも生えてきそうな湿気だった。
だるい気分を引きずりながら出かける支度をしていると、奥のふすまが開いた。
「おはよ、お兄ちゃん。すごい降ってるねー。」
Tシャツに短パン姿で、頭をぼりぼりかいて出てきたのは、妹の聡美だ。
「水不足とかニュースで騒いでたけど、この調子なら給水制限なさそうだな。」
「うん。それにしても、こんな雨の日でも学校行かなきゃいけないんだ、大変だね、受験生って。」
夏休み中も毎日律儀に登校する暁に、聡美は尊敬の眼差しを向ける。
学校へ行くのは、ただ単に坂下と会うため――そう思うと、暁は居心地の悪さを感じた。
先ほどの夢と生理現象が、一層やましさを掻き立てる。
「お前だって受験生だろ?いいのか、夏期講習とか受けなくて。」
「別に平気。塾行ってるからって、みんな成績上がってるわけじゃないし。それより、この間もらった参考書と問題集、すごくいいよ。書き込みも参考になるし。新品の買うよりずっと良かったかも。この前の模試でも成績がまた上がったって、先生にも褒められちゃった。」
「そう言えば高校、どこにするんだ?面談とかこの時期じゃないのか?」
「ん、この前終わった。お父さん来たって恥かくだけだし。だから、あたし一人で話したよ。」
「俺、行った方が良かったんじゃないか?」
「変わんないって。言ったでしょ、あたし優等生なんだから、心配ないって。まあ、先生たちは お兄ちゃんが真面目にやってるか知りたかったみたいだけどね。」
聡美の言葉に、暁は益々気まずさを覚える。
中学時代に一時荒れていた暁は、学校にも何かと迷惑をかけた。
聡美は、そんな自分の分まで埋め合わせをするように、『良い子』を演じている。
「来週バイト代入るから、なんかうまいものでも食いに行くか。」
「いいねえ。回転寿司行きたいな。」
聡美の笑顔に見送られながら、暁は家を出た。
自転車を諦め、小さなビニール傘を手に歩き出したが、横から吹き付ける大粒の雨に、それはほとんど役割を果たさない。
シャツの袖やズボンは見る見るうちに雨が染みこみ、不快に肌を濡らした。
車道を飛ばす車が、背後から追い抜きざまに泥水を跳ね上げる。
暁は思わす舌打ちをした。
面倒な約束をしてしまった。
この天気では、講習を受ける生徒たちだって今日はサボるに決まっている。
だが、それでも坂下は雨の中を、律儀に登校してくるだろう。
暁は確信していた。
一歩踏み出すごとに、スニーカーから雨水が染み出す。
裸足で歩いたほうがマシだと思いながら、いつもの倍の時間をかけ、暁は学校に着いた。
美術室は薄暗く、静まり返っていた。
待ち切れず、既に帰られていたとしても、文句は言えない。
そう思いながらも、暁は気配のない教室のドアを開けた。
「いるわけねーか。」
独り言を呟いて踵を返そうとした途端、視界の隅で何かがもぞもぞと動き、ぎょっとする。
「なんだ、お前いるなら電気くらい点けろよ。」
いつも寝そべっている床から少し離れた一角に、坂下はうずくまっていた。
返事はない。
身体を縮こまらせて膝を抱え、無言で暁を見上げる。
「どうした?寝ぼけてんのか?」
覗き込んだ坂下の目は虚ろで焦点が合っていない。
「おい、大丈夫か?」
胸騒ぎがして、暁は坂下の肩を揺すった。
びくっと坂下の身体が跳ね、後退さる。
「……あ、大野君。」
沈黙の後、ようやく我に返ったように、坂下が口を開いた。
「おはよう。」
「調子、悪いのか?昨日の疲れがまだ取れない?」
一瞬、坂下が固まる。
「どういう意味……?」
「いや、ああいう場所苦手みたいだったから。無理矢理つきあわせて疲れたのかなって。」
「そんなことないよ。楽しかったって言ってるじゃん。」
抑揚のない声で口早に答え、坂下は目を逸らせてしまう。
もともと坂下は血色の良いほうではないが、この日はことさら顔色が悪く見えた。
顔色ばかりではない。
坂下の動作の一つ一つが緩慢でぎこちなく、暁は妙な違和感を覚えた。
そっとしておいたほうが良いのだろうかと暁は迷った。
自分だって、誰にもかまわれたくない時はある。
だが、今の坂下からは、放っておいたらそのまま崩れ落ちそうな空気を感じた。
「やっぱお前、変だよ。」
どう切り開いていこうかと考えをめぐらせながら、自分はいつからこんなお節介な人間になったのかと暁は自嘲した。
「さっきから何言いたいのさ?」
視線を外したまま、坂下は小さく呟く。
何かに怯えたように、小さく肩が震えている。
暁は黙って坂下の足許を指差した。
「あ…」
グレーと水色。
右と左で靴下が違っている。
「気づかなかった。やだな。」
ほんのわずか、坂下の頬に赤味が注す。
それが気恥ずかしさのためなのか、安堵から来るものなのかは、暁にはわからなかった。
だが、暁が坂下の心を探ろうとするのを止めたことで、坂下の空気が和らいだ。
「よく見たらそっちのほうがひどい格好じゃん。」
「しょうがねえだろ、この雨じゃ。」
「雨?ああ、ほんとだ。」
坂下は窓の外に目をやり、初めて気がついたように呟いた。
「家出るとき、降ってなかったか?」
「さあ、どうだったかな。でも濡れてないし。」
一体何時に坂下は家を出たのだろうか、と暁は訝る。
どれだけの間、この薄暗い美術室でうずくまっていたのか。
「風邪でも引いたんじゃないか?本当に顔色悪い。」
暁は坂下の額に触れた。
坂下は一瞬身体を竦めたが、そのままじっとしていた。
「暁の手、ひんやりして気持ち良い。」
潤んだ瞳に見上げられ、朝の夢が鮮明に甦る。
暁のほうが急に発熱したような気分になった。
「そんなびしょ濡れじゃ、暁の方が風邪引くよ。」
「そんなヤワじゃねえよ。それより今日はもう帰れって。今にも倒れそうな顔だぞ。」
坂下は首を振った。
「家には帰らない。」
「あのな、そういうワガママ言うなよ。」
「俺のこと、心配?」
「当たり前だろ。」
「暁は友達に優しいからね。」
「そういう問題じゃなくて…」
はぐらかそうとする坂下に苛立ち、暁は荷物を抱えると強引に坂下の手を掴んだ。
「もういい、引きずってでも連れて帰るぞ。だいたい何だよ、お前の家、病院だろ?子供が具合悪くしてんのに気付きもしないのかよ?」
「離せよっ!」
坂下は身を捩って抵抗し、はずみで肘が暁の鳩尾に入る。
「ってぇ…人が心配してるってのに。もう知らねぇよ、勝手にしろ。」
腹立ち紛れに暁は言い捨てると、美術室を出て行きかけた。
「待って!」
坂下は置き去りにされた子供のような表情をしていた。
「ごめん、頼むからもう少しだけ一緒にいて。ちゃんと病院にいくから。帰らないけど、そのかわり病院には行く。暁の言う通りだよ、身体がしんどい、学校に来るのもやっとだったんだ。」
暁の袖口を縋るように掴んだ坂下の手は小さく震えていた。
降りしきる雨の中、暁と坂下はタクシーに乗っていた。
役に立たないビニール傘一本でどうしようかと立ち尽くしたところで、坂下がタクシーを拾うことを主張したのだった。
車代を持つから病院まで一緒についてきて欲しいと言い張る坂下に、暁は金銭感覚の違いを意識し、釈然としないものを感じながら仕方なく同乗した。
「保険証とか持ってんのか?」
坂下は無言で頷く。
「診察代は…あるよな。タクシーに乗るくらいだもんな。」
暁の口からつい出てしまった嫌味にも、坂下は特に反応することはなかった。
「あのさ…」
不意に坂下が口を開く。
「病院は初めから行くつもりだったんだ。ネットで調べて…。でも怖くて逃げ出したくなって、 気がついたら学校に来てた。」
「それってどういう……」
「俺、変な臭いしない?」
「え?ニオイ?なんの?」
暁はクンクンと犬のように鼻を鳴らしたが、嗅ぎ分けることができたのは、タクシーに染み付いた煙草の匂いと、自分の濡れた服から立ちこめる蒸れた臭いのみだった。
「その……俺、昨日風呂入らないで寝ちゃったから。汗とかいっぱいかいたし……。」
「この季節、どっちにしろみんな汗臭いんだから気にすることないと思うけどな。」
「うん…でも、やっぱり臭うと悪いから、すこし離れてて。」
坂下は暁から身を離すと、後部座席の窓に額をつけるようにして寄りかかった。
前日までとあまりにも違う坂下の様子に、何があったのかと訝りながらも、暁は聞き出すことが躊躇われた。
坂下の横顔は詮索されることを拒否しており、その心に踏み込むことはできなかった。
女の子を口説くのに使う、甘いラブソング。
気がつくと、ナンパした女の子たちはいなくなっていた。
安っぽい合皮のソファに横になっているのは、坂下だった。
坂下の唇が、ゆっくりと動く。
「何?」
周囲の部屋から漏れ聞こえる下手糞な歌声に、坂下の言葉はかき消されて聞こえない。
よく聞こうと顔を近づけると、唇が重なった。
そのまま何度もキスを繰り返す。
暁はゆっくりと坂下の身体に覆いかぶさった。
温かくて滑らかな感触。
坂下は裸だった。
いつの間にか暁自身も服を脱ぎ捨てていた。
「俺のこと、好き?」
坂下がいたずらっぽく尋ねてくる。
暁は、全身の血が下半身に集まるのを感じた。
坂下の問いに素直に頷けない。
暁は答える代わりに、坂下の唇を吸い上げ、舌を絡めた。
坂下の腕が暁を抱きしめる。
カラオケの伴奏が終わり、スピーカーからチューニングの合わないラジオのような、ザーッとノイズが聞こえてきた。
絶え間なく続くざあーっという雨音で、暁は眼を覚ました。
窓の外は薄暗く、まだ未明かと思ったが、時刻を確認すると普段起きるはずの時間をとっくに過ぎていた。
タオルケットを蹴り上げ、一瞬固まる。
「げ。」
下着がべったりと下肢に張り付いていた。
慌てて着替え、暁は洗面台へと向かった。
トランクスの汚れを水道の水で適当に流し、洗濯槽に入った他の洗濯物に紛れ込ませる。
顔を洗い一息つくと、窓を開けて空を見上げた。
とても寝ていられないような、連日の殺人的な暑さに比べれば、気温は低い。
だが、不快指数は変わらない。
立っているだけで、皮膚に黴でも生えてきそうな湿気だった。
だるい気分を引きずりながら出かける支度をしていると、奥のふすまが開いた。
「おはよ、お兄ちゃん。すごい降ってるねー。」
Tシャツに短パン姿で、頭をぼりぼりかいて出てきたのは、妹の聡美だ。
「水不足とかニュースで騒いでたけど、この調子なら給水制限なさそうだな。」
「うん。それにしても、こんな雨の日でも学校行かなきゃいけないんだ、大変だね、受験生って。」
夏休み中も毎日律儀に登校する暁に、聡美は尊敬の眼差しを向ける。
学校へ行くのは、ただ単に坂下と会うため――そう思うと、暁は居心地の悪さを感じた。
先ほどの夢と生理現象が、一層やましさを掻き立てる。
「お前だって受験生だろ?いいのか、夏期講習とか受けなくて。」
「別に平気。塾行ってるからって、みんな成績上がってるわけじゃないし。それより、この間もらった参考書と問題集、すごくいいよ。書き込みも参考になるし。新品の買うよりずっと良かったかも。この前の模試でも成績がまた上がったって、先生にも褒められちゃった。」
「そう言えば高校、どこにするんだ?面談とかこの時期じゃないのか?」
「ん、この前終わった。お父さん来たって恥かくだけだし。だから、あたし一人で話したよ。」
「俺、行った方が良かったんじゃないか?」
「変わんないって。言ったでしょ、あたし優等生なんだから、心配ないって。まあ、先生たちは お兄ちゃんが真面目にやってるか知りたかったみたいだけどね。」
聡美の言葉に、暁は益々気まずさを覚える。
中学時代に一時荒れていた暁は、学校にも何かと迷惑をかけた。
聡美は、そんな自分の分まで埋め合わせをするように、『良い子』を演じている。
「来週バイト代入るから、なんかうまいものでも食いに行くか。」
「いいねえ。回転寿司行きたいな。」
聡美の笑顔に見送られながら、暁は家を出た。
自転車を諦め、小さなビニール傘を手に歩き出したが、横から吹き付ける大粒の雨に、それはほとんど役割を果たさない。
シャツの袖やズボンは見る見るうちに雨が染みこみ、不快に肌を濡らした。
車道を飛ばす車が、背後から追い抜きざまに泥水を跳ね上げる。
暁は思わす舌打ちをした。
面倒な約束をしてしまった。
この天気では、講習を受ける生徒たちだって今日はサボるに決まっている。
だが、それでも坂下は雨の中を、律儀に登校してくるだろう。
暁は確信していた。
一歩踏み出すごとに、スニーカーから雨水が染み出す。
裸足で歩いたほうがマシだと思いながら、いつもの倍の時間をかけ、暁は学校に着いた。
美術室は薄暗く、静まり返っていた。
待ち切れず、既に帰られていたとしても、文句は言えない。
そう思いながらも、暁は気配のない教室のドアを開けた。
「いるわけねーか。」
独り言を呟いて踵を返そうとした途端、視界の隅で何かがもぞもぞと動き、ぎょっとする。
「なんだ、お前いるなら電気くらい点けろよ。」
いつも寝そべっている床から少し離れた一角に、坂下はうずくまっていた。
返事はない。
身体を縮こまらせて膝を抱え、無言で暁を見上げる。
「どうした?寝ぼけてんのか?」
覗き込んだ坂下の目は虚ろで焦点が合っていない。
「おい、大丈夫か?」
胸騒ぎがして、暁は坂下の肩を揺すった。
びくっと坂下の身体が跳ね、後退さる。
「……あ、大野君。」
沈黙の後、ようやく我に返ったように、坂下が口を開いた。
「おはよう。」
「調子、悪いのか?昨日の疲れがまだ取れない?」
一瞬、坂下が固まる。
「どういう意味……?」
「いや、ああいう場所苦手みたいだったから。無理矢理つきあわせて疲れたのかなって。」
「そんなことないよ。楽しかったって言ってるじゃん。」
抑揚のない声で口早に答え、坂下は目を逸らせてしまう。
もともと坂下は血色の良いほうではないが、この日はことさら顔色が悪く見えた。
顔色ばかりではない。
坂下の動作の一つ一つが緩慢でぎこちなく、暁は妙な違和感を覚えた。
そっとしておいたほうが良いのだろうかと暁は迷った。
自分だって、誰にもかまわれたくない時はある。
だが、今の坂下からは、放っておいたらそのまま崩れ落ちそうな空気を感じた。
「やっぱお前、変だよ。」
どう切り開いていこうかと考えをめぐらせながら、自分はいつからこんなお節介な人間になったのかと暁は自嘲した。
「さっきから何言いたいのさ?」
視線を外したまま、坂下は小さく呟く。
何かに怯えたように、小さく肩が震えている。
暁は黙って坂下の足許を指差した。
「あ…」
グレーと水色。
右と左で靴下が違っている。
「気づかなかった。やだな。」
ほんのわずか、坂下の頬に赤味が注す。
それが気恥ずかしさのためなのか、安堵から来るものなのかは、暁にはわからなかった。
だが、暁が坂下の心を探ろうとするのを止めたことで、坂下の空気が和らいだ。
「よく見たらそっちのほうがひどい格好じゃん。」
「しょうがねえだろ、この雨じゃ。」
「雨?ああ、ほんとだ。」
坂下は窓の外に目をやり、初めて気がついたように呟いた。
「家出るとき、降ってなかったか?」
「さあ、どうだったかな。でも濡れてないし。」
一体何時に坂下は家を出たのだろうか、と暁は訝る。
どれだけの間、この薄暗い美術室でうずくまっていたのか。
「風邪でも引いたんじゃないか?本当に顔色悪い。」
暁は坂下の額に触れた。
坂下は一瞬身体を竦めたが、そのままじっとしていた。
「暁の手、ひんやりして気持ち良い。」
潤んだ瞳に見上げられ、朝の夢が鮮明に甦る。
暁のほうが急に発熱したような気分になった。
「そんなびしょ濡れじゃ、暁の方が風邪引くよ。」
「そんなヤワじゃねえよ。それより今日はもう帰れって。今にも倒れそうな顔だぞ。」
坂下は首を振った。
「家には帰らない。」
「あのな、そういうワガママ言うなよ。」
「俺のこと、心配?」
「当たり前だろ。」
「暁は友達に優しいからね。」
「そういう問題じゃなくて…」
はぐらかそうとする坂下に苛立ち、暁は荷物を抱えると強引に坂下の手を掴んだ。
「もういい、引きずってでも連れて帰るぞ。だいたい何だよ、お前の家、病院だろ?子供が具合悪くしてんのに気付きもしないのかよ?」
「離せよっ!」
坂下は身を捩って抵抗し、はずみで肘が暁の鳩尾に入る。
「ってぇ…人が心配してるってのに。もう知らねぇよ、勝手にしろ。」
腹立ち紛れに暁は言い捨てると、美術室を出て行きかけた。
「待って!」
坂下は置き去りにされた子供のような表情をしていた。
「ごめん、頼むからもう少しだけ一緒にいて。ちゃんと病院にいくから。帰らないけど、そのかわり病院には行く。暁の言う通りだよ、身体がしんどい、学校に来るのもやっとだったんだ。」
暁の袖口を縋るように掴んだ坂下の手は小さく震えていた。
降りしきる雨の中、暁と坂下はタクシーに乗っていた。
役に立たないビニール傘一本でどうしようかと立ち尽くしたところで、坂下がタクシーを拾うことを主張したのだった。
車代を持つから病院まで一緒についてきて欲しいと言い張る坂下に、暁は金銭感覚の違いを意識し、釈然としないものを感じながら仕方なく同乗した。
「保険証とか持ってんのか?」
坂下は無言で頷く。
「診察代は…あるよな。タクシーに乗るくらいだもんな。」
暁の口からつい出てしまった嫌味にも、坂下は特に反応することはなかった。
「あのさ…」
不意に坂下が口を開く。
「病院は初めから行くつもりだったんだ。ネットで調べて…。でも怖くて逃げ出したくなって、 気がついたら学校に来てた。」
「それってどういう……」
「俺、変な臭いしない?」
「え?ニオイ?なんの?」
暁はクンクンと犬のように鼻を鳴らしたが、嗅ぎ分けることができたのは、タクシーに染み付いた煙草の匂いと、自分の濡れた服から立ちこめる蒸れた臭いのみだった。
「その……俺、昨日風呂入らないで寝ちゃったから。汗とかいっぱいかいたし……。」
「この季節、どっちにしろみんな汗臭いんだから気にすることないと思うけどな。」
「うん…でも、やっぱり臭うと悪いから、すこし離れてて。」
坂下は暁から身を離すと、後部座席の窓に額をつけるようにして寄りかかった。
前日までとあまりにも違う坂下の様子に、何があったのかと訝りながらも、暁は聞き出すことが躊躇われた。
坂下の横顔は詮索されることを拒否しており、その心に踏み込むことはできなかった。
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