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7.Je Te Veux①

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 年も明けると、春の人事異動の下馬評が出回り始める。
嫉妬と羨望、優越感と同情。
様々な感情がない交ぜになり、噂はオフィスからオフィスへと駆け巡る。
『営業一課の松木君、大阪支店らしいな。』
普段はまったく興味を示すことのない飯島だが、今回ばかりは大いに心が揺らいだ。

基本的に、社内の噂は飯島の耳には入らない。
飯島に好き好んでわざわざ情報提供する人間などいないし、飯島の存在などまったく無視した連中が叩く陰口など、雑音として処理されて素通りするだけだ。
無愛想、偏屈、飲み会にも参加しない自己中の変人。
ヒューマンスキル皆無、コミュニケーション障害。
どれも飯島のことだ。
飯島は、同じ部署の人間とでさえ、仕事以外では滅多に世間話などしない。
大抵の人間は、飯島と会話の糸口が見つからず、困り果てた顔をして退散する。
そんなんでよく営業が勤まるものだ、と面と向かって言われたこともある。

バカバカしい、と周囲の評価を飯島は一蹴する。
知識と論理的思考力で自分の営業成績は抜きんでている。
唯一勝てないのは、知性も人間性も持ち合わせ、さわやかな外見な上に忍耐力まで兼ね備えた松木だけなのだ。
ただし、飯島が社内での評判がすこぶる悪いのに反し、松木はきちんとその仕事ぶりに見合った高い評価を得ている。


 思えば、松木だけが、飯島の乏しい反応を気にするでもなく、屈託なく話しかけてきた。
松木が配属された当初、営業のアプローチの仕方を請われ、つっけんどんに最低限のことを教えただけなのに、驚くほど謙虚かつ素直に受け入れた。
『小手先のプレゼンなんてクソだ、開発データと臨床データを原文で読み込んでかみ砕くまで理解しろ。どいつもこいつも手間をかけるところが分かってない馬鹿の給料泥棒。』
そう呟けば、大概は皆黙ってそそくさとその場を後にする。
目を輝かせて頷き、飯島が目を通す文献を自分も読んで勉強したいと言い出した唯一の変人が松木だった。

もともと営業力に定評のある若手として注目株だった松木には、一を聞いて十を知る賢さがあった。
高学歴を頭の良さだと勘違いし、飯島の悪口を吹聴しては足を引っ張るだけの、多くの馬鹿社員とは一線を画していた。
松木が飯島の営業成績を抜いてトップに躍り出た時は、ショックも受けなかったし、嫉妬も感じなかった。
当然のこととして予測していたからだ。
(やるじゃん)と思った程度だった。

だが、松木が
『ずっと飯島さんの仕事のやり方に憧れていた、これからもあなたの背中を追いかけたい。』
と言い出したのは、予想外だった。
誰にも言われたことのないような言葉に動揺し、松木に誘われるまま二人で食事をしていた。
自分にまっすぐ向けられた眼差しに臆し、距離を取るつもりで、自分はゲイだと打ち明けた。
酔いが回るうちに相手を少し困らせたくなり、『お前、結構タイプかも。』と店を出たときに軽く触れるようなキスをした。
『じゃあな。』
踵を返し歩き出そうとした。
もう二度と松木が付きまとってくることはないだろう、予防線を張ったつもりだった。
それなのに不意に腕を掴まれる。
『飯島さん、人をたきつけておいて、勝手に一人で帰らないでください。』
そのまま振り向かされ、まっすぐな瞳が覗きこむ。
『お前、酔って…』
『酔ってません。少なくとも、酒には。』


恋に落ちるのに、時間はかからなかった。
馬鹿だ、と飯島は自嘲する。
いい年して、小娘のように惚れた腫れたで一喜一憂している。
恋なんて一瞬で冷めるものだ。
愛情なんて、失った時の痛手は計り知れない。
だから、一時の寂しさを紛らわせてくれるセフレで充分。
ずっとそう思ってやってきたのに。

今度ばかりは飯島も、皮肉に人事を眺めている場合ではなかった。
——大阪支社。
飯島は心の中で反芻する。
そういえばあいつもうちの部署に来て5年目だった。
その齢で大阪なら、まさに出世コースだ。
人事も意外と見る目がある。
ふと、数週間前の逢瀬で松木が漏らした言葉を飯島は思い出した。
『遠距離恋愛ってどう思いますか?』
あれは友達の友達の話だ、と松木は話していたが、よくよく考えれば『友達の友達』とは本人のことじゃないか。
思い返せば、あの時既に異動を打診されていたにちがいない。
松木は離れても自分との関係を継続することを考えていたということだろうか。
ならば、自分は――。
引越しのプランを修正しなくてはならないようだ。


それなのに、飯島が意を決して一週間、二週間。
待てども松木は何一つ言ってこない。
それどころか、松木は自分を避けているようにさえ見えた。
期待は不安に、そしてやがて絶望へと取って代わる。
「今日、空いてますか?大事な話があるんです。」
ようやく松木が切り出してきたのは、転勤の告知がされるまさに二日前だった。
思いつめたような、真剣な眼差し。
いつもの温かい微笑みはない。
ついに引導を渡されるのか、と飯島は観念する。
松木は大阪へ行き、出世する。
きっと上司にでも可愛い嫁さんを紹介されることだろう。
酔った勢いでの過ちは、これを期に清算するのが賢いやり方だ。
長くもったほうだ、いい夢を見させてもらった、それで十分じゃないか。
自分自身に言い聞かせる。
泣いてすがるようなみっともないマネだけは、決してすまい。

約束の時間より30分ほど送れて飯島は家に着いた。
寒空の下、松木は合鍵を使いもせず、ずっと玄関先で待っていたらしい。
「遅かったですね、忙しかったんですか?」
「んー、まあね。」
松木が顔をしかめる。
「酒臭い。」
「そお?ちょっとだけだよ。ちょっとだけよ~ん、なんちゃってね。ははっ」
渾身のギャグなのに、松木は表情を変えもしない。
なんで自分はユーモアの欠片もないのか、と飯島は自分の性格を恨めしく思う。
たまには場を和ませるような気の利いた一言でも言いたいのに、口を開けばいつもみんな白けて呆れかえるのだ。

「大事な話があるって言ったでしょ?」
「ああ、分かってるよ。」
「じゃなんで飲んでくるんですか?」
飯島は答えられない。
ただ黙って部屋の鍵を開ける。
素面で聞く勇気がないからだ、などとは言えなかった。
「上がれよ。」
松木は三和土に立ったまま、真っ直ぐ飯島を見つめる。
「俺、転勤することになりました。」
「大阪だろ、知ってるよ。おめでとさん。お祝いしなきゃな。まずはお祝いに一発どお?話はそれからでいいだろ?」
「そんなことしに来たんじゃない!ふざけないでくださいよ。」

真面目なつもりだった。
別れる前にもう一度だけ抱かれたいと本気で願っていた。
だが、自分の気持ちをどのように伝えればよいのか、飯島には分からなかった。
「……飯島さん、仕事やめるって本当ですか?」
飯島は一瞬目を見張った。
「情報通だな。誰だよ、余計なこと言いやがったのは。」
今では滑稽な笑い話にしかならない、自分の一大決心。
「俺のせい?」
「なわけないだろ。」

なぜ、もっと冷静に考えなかったのだろう。
仮に、結婚の約束をしたわけでもないほんの数回寝ただけの女が、女房面して転勤についてきたら普通は引くだろう。
ましてやそれがいい年した男であれば尚のこと。
「お前は関係ないよ。」
自分でもそうするのが良いと思って決めたことだ、松木の転勤はきっかけでしかない。
「俺のこと怒ってるんでしょ、だったらはっきり言ってください。何も言わずに辞めるなんてずるい、顔も見たくないから逃げ出すわけ?」
「怒ってない!うるさいな。」
ずるいのはどちらだ、と言いかけて口をつぐむ。
出世を期に男同士の不毛な関係を清算することは、至極真っ当な判断だ。
「どうすれば前みたいに戻れるんですか?」
無神経な松木の問いかけに、飯島は今度こそ頭に血が上った。
「馬鹿野郎、これだけ好きになっちまったのに、今更何もなかった頃に戻れるか!!」
泣きたいのをこらえるのが精一杯だった。
「え?!」
驚いたように目を見開く松木が腹立たしかった。
やはり松木にとって、自分との関係などその程度だったのだ。
おめでたい男だ、と笑いがこみ上げる。
飯島にとって、松木という存在は肌の奥にまで染みついてしまっているのに。

「出てけよ、帰れ!!」
飯島は松木を力任せに押し出し、部屋のドアを閉めた。
「ちょ、飯島さん、待って…」
「近所迷惑だ、警察呼ぶぞ。」
やがて、諦めたように去っていく足音。
三和土にぽたり、と水滴が落ち、小さな染みを作った。
ドアを背に、飯島は声を殺して泣き崩れた。

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