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1. 前向きな令嬢
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「妻というものは、常に夫の命に従うべきだ。出過ぎた真似をしたり、着る物や食べ物に金を掛けるような悪妻は要らん」
「はい、旦那様」
「俺の人生はこの国の為に尽くすと決めている。だから、家の事にかまけている時間は無い。家内の事は全てお前に任せる」
「畏まりました、旦那様」
「職場へ泊まり込むから、本邸へ帰れるのは週に一回も無いだろう。不自由があるかもしれないが、それについて文句を言う事は禁ずる」
「仰る通りに致します」
ソファにふんぞり返ってご高説を垂れている夫に対して、マリアンヌはにこやかに答える。
傍に控える執事や使用人たちは、平静を装いつつも困惑していた。主人に非難の目を向ける者、若い妻へ気の毒そうな目を向ける者……。彼らに共通しているのはマリアンヌへの同情だ。
これから初夜だというのに夫からあんなことを言われて、怒らない妻がいるものか。若奥様は笑っておられるが、内心さぞやお腹立ちに違いない。
彼らのそんな思いにマリアンヌが気付く事は無い。だって彼女は本当に、怒っていなかったのだから。
◇◇
マリアンヌはオベール子爵家の生まれである。
両親は政略結婚であり、その仲は冷え切っていた。マリアンヌは父に優しい言葉を掛けられた記憶はない。
だが寂しくはなかった。優しい母親や使用人たちに、溢れるほどの愛情を注がれていたからだ。
母はいつだって穏やかに微笑んでいた。冷たい夫に対する愚痴の一つも言ったことがない。マリアンヌはそんな母親が大好きだった。
「マリアンヌ。もしかしたら貴方は、これから辛い目に遭うこともあるかもしれないわ。そんな時はなるべく楽しいこと、幸せなことに目を向けるのよ。不幸にばかり気を取られていては、掴めるはずの幸福も逃がしてしまうわ」
そんな母が幸せだったかどうかは、分からない。彼女はマリアンヌが5歳の時に亡くなった。
父はすぐに後妻を迎えた。後妻は若く美しい貴婦人だ。父は後妻へ夢中になり、ほどなく男の子が産まれた。
ようやく誕生した跡継ぎである。オベール家の中心が後妻とその息子になってしまったのは、仕方のないことだ。継母がなさぬ仲のマリアンヌに対して冷たく接するのもまた、仕方のないことである。
「お母様……ぐすっ……」
「お嬢様、もう泣かないで下さいませ。亡き奥方様も仰っていたでしょう?悲しいことばかりに目を向けていては、幸せを逃がしますよ。笑ってみましょう?」
「うん……あはは?」
「もうちょっとですよ!ファイトですっ。お嬢様ならきっとお出来になります!」
乳母や使用人たちは変わらず、いや前よりもっとマリアンヌに愛情を注いだ。彼女を冷遇する家族から目を逸らさせ、楽しいことへ目を向けるように全力で励ました。
「お父様は、新しいお母様と随分仲良しなのね……」
「か、家庭円満で大変よろしいかと!」
「そっか。良いことなのね」
「ええ、そうですとも!」
「お義母様は、私があまりお好きではないのかしら」
「奥様は赤子をお育てになるのに、手一杯なのです。きっとマリアンヌ様はしっかりなさっているから、大丈夫と思っておられるのですわ」
「そうね。私も十歳だもん。立派なれでぃよ!」
むん!と両手を握りしめて力むマリアンヌは大変可愛らしい。乳母は「その意気でございます、お嬢様!」と褒めそやした。
結果として。
やたらと前向き、悪く言えば天然な令嬢が出来上がったのである。
それから数年が経ち、年頃になったマリアンヌへ縁談が持ち込まれた。相手はエルネスト・セルヴァン伯爵だ。
エルネストは若年ながらルヴェリエ宰相の補佐官を務める優秀な若者である。縁談は降るようにあったらしいが、なぜかマリアンヌとの婚約を望んでいるそうだ。
曰く、夜会で一度顔を合わせた彼女を気に入ったとのこと。
マリアンヌの方はそういえば一度だけお話したかしら?程度で、彼の顔もよく覚えていない。
貴族にはよくあることだ。それに相手は前途有望な青年。えらく年が離れているというわけでも、離婚歴があるわけでもない。そんな相手に望まれたのは、きっと幸運なことなのだろう、とマリアンヌはいつも通り前向きに捉えた。
父は喜び、珍しくマリアンヌを誉めた。伯爵家と縁故を繋げるのは、家にとっても益のある事だからだ。後妻は言わずもがなである。目障りな継娘が片付くのだから、否であろうはずがない。
「セルヴァン伯爵へしっかりと尽くすんだぞ。実家へ帰れるなどと思うな。何があっても我慢しろ」
嫁ぐ娘に対して酷い言い様である。
しかしマリアンヌは「お父様はわざと厳しいことを仰って、エールを送って下さっているのだわ。頑張らなくっちゃ!」とこれまた前向きに解釈した。いつものむん!ポーズで。
そんな彼女であるから、夫が「妻の心得」とばかりに勝手なことを述べるのも、別段怒りもせずに聞いていたのだ。
むしろ(旦那様のお言い付けなんだから、従わなきゃ!)とやる気を出していたくらいだ。むん!と。
初夜を済ませた翌日、夫は「しばらく帰れない。困ったことがあれば執事か侍女頭に聞くように」と言って王宮へ出掛けて行った。
「申し訳ございません、奥様。旦那様はいつもああなのです。若奥様のことは当主夫人として丁重に扱うよう、旦那様から申し付かっております。決して、若奥様をないがしろになさっておられるわけではございません。それだけはご理解頂きたく……」
「ええ、分かっています。宰相様のご側近ですもの。お忙しいのは当然ですわ。私も妻として、旦那様へ全力でお尽くしするつもりよ」
頭を下げながら謝罪を述べる執事に対して、マリアンヌは微笑みながらに答えた。なんて寛大な若奥様だと、使用人たちが内心感服していることは知る由も無い。
「私どもは、奥様が心地良くお過ごしになれますよう、尽力致します。何か不都合がありましたら遠慮せず仰って下さいませ」
「ええ、ありがとう」
その言葉通り、使用人たちはマリアンヌをとても大切に扱った。
髪や肌はとてもいい匂いのする香油を毎日丁寧に擦り込まれるし、お茶菓子はいつの間にかマリアンヌの好物の焼き菓子に変わっていた。彼女の反応が良いものを、侍女が選んでくれたらしい。
刺繍が趣味だと話せば、早速色とりどりの糸や、見たこともないような高級品の布が用意されていた。
「優しい人たちばかりで良かったわ。こんな良いお家へ嫁げるなんて、私は幸せものね!」
使用人たちにすれば、当主夫人として適切な扱いをしていただけであるが。そんな風に言われたら誰だって悪い気はしない。彼らがこの年若い夫人を慕うようになったのは、当然の流れであった。
「はい、旦那様」
「俺の人生はこの国の為に尽くすと決めている。だから、家の事にかまけている時間は無い。家内の事は全てお前に任せる」
「畏まりました、旦那様」
「職場へ泊まり込むから、本邸へ帰れるのは週に一回も無いだろう。不自由があるかもしれないが、それについて文句を言う事は禁ずる」
「仰る通りに致します」
ソファにふんぞり返ってご高説を垂れている夫に対して、マリアンヌはにこやかに答える。
傍に控える執事や使用人たちは、平静を装いつつも困惑していた。主人に非難の目を向ける者、若い妻へ気の毒そうな目を向ける者……。彼らに共通しているのはマリアンヌへの同情だ。
これから初夜だというのに夫からあんなことを言われて、怒らない妻がいるものか。若奥様は笑っておられるが、内心さぞやお腹立ちに違いない。
彼らのそんな思いにマリアンヌが気付く事は無い。だって彼女は本当に、怒っていなかったのだから。
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マリアンヌはオベール子爵家の生まれである。
両親は政略結婚であり、その仲は冷え切っていた。マリアンヌは父に優しい言葉を掛けられた記憶はない。
だが寂しくはなかった。優しい母親や使用人たちに、溢れるほどの愛情を注がれていたからだ。
母はいつだって穏やかに微笑んでいた。冷たい夫に対する愚痴の一つも言ったことがない。マリアンヌはそんな母親が大好きだった。
「マリアンヌ。もしかしたら貴方は、これから辛い目に遭うこともあるかもしれないわ。そんな時はなるべく楽しいこと、幸せなことに目を向けるのよ。不幸にばかり気を取られていては、掴めるはずの幸福も逃がしてしまうわ」
そんな母が幸せだったかどうかは、分からない。彼女はマリアンヌが5歳の時に亡くなった。
父はすぐに後妻を迎えた。後妻は若く美しい貴婦人だ。父は後妻へ夢中になり、ほどなく男の子が産まれた。
ようやく誕生した跡継ぎである。オベール家の中心が後妻とその息子になってしまったのは、仕方のないことだ。継母がなさぬ仲のマリアンヌに対して冷たく接するのもまた、仕方のないことである。
「お母様……ぐすっ……」
「お嬢様、もう泣かないで下さいませ。亡き奥方様も仰っていたでしょう?悲しいことばかりに目を向けていては、幸せを逃がしますよ。笑ってみましょう?」
「うん……あはは?」
「もうちょっとですよ!ファイトですっ。お嬢様ならきっとお出来になります!」
乳母や使用人たちは変わらず、いや前よりもっとマリアンヌに愛情を注いだ。彼女を冷遇する家族から目を逸らさせ、楽しいことへ目を向けるように全力で励ました。
「お父様は、新しいお母様と随分仲良しなのね……」
「か、家庭円満で大変よろしいかと!」
「そっか。良いことなのね」
「ええ、そうですとも!」
「お義母様は、私があまりお好きではないのかしら」
「奥様は赤子をお育てになるのに、手一杯なのです。きっとマリアンヌ様はしっかりなさっているから、大丈夫と思っておられるのですわ」
「そうね。私も十歳だもん。立派なれでぃよ!」
むん!と両手を握りしめて力むマリアンヌは大変可愛らしい。乳母は「その意気でございます、お嬢様!」と褒めそやした。
結果として。
やたらと前向き、悪く言えば天然な令嬢が出来上がったのである。
それから数年が経ち、年頃になったマリアンヌへ縁談が持ち込まれた。相手はエルネスト・セルヴァン伯爵だ。
エルネストは若年ながらルヴェリエ宰相の補佐官を務める優秀な若者である。縁談は降るようにあったらしいが、なぜかマリアンヌとの婚約を望んでいるそうだ。
曰く、夜会で一度顔を合わせた彼女を気に入ったとのこと。
マリアンヌの方はそういえば一度だけお話したかしら?程度で、彼の顔もよく覚えていない。
貴族にはよくあることだ。それに相手は前途有望な青年。えらく年が離れているというわけでも、離婚歴があるわけでもない。そんな相手に望まれたのは、きっと幸運なことなのだろう、とマリアンヌはいつも通り前向きに捉えた。
父は喜び、珍しくマリアンヌを誉めた。伯爵家と縁故を繋げるのは、家にとっても益のある事だからだ。後妻は言わずもがなである。目障りな継娘が片付くのだから、否であろうはずがない。
「セルヴァン伯爵へしっかりと尽くすんだぞ。実家へ帰れるなどと思うな。何があっても我慢しろ」
嫁ぐ娘に対して酷い言い様である。
しかしマリアンヌは「お父様はわざと厳しいことを仰って、エールを送って下さっているのだわ。頑張らなくっちゃ!」とこれまた前向きに解釈した。いつものむん!ポーズで。
そんな彼女であるから、夫が「妻の心得」とばかりに勝手なことを述べるのも、別段怒りもせずに聞いていたのだ。
むしろ(旦那様のお言い付けなんだから、従わなきゃ!)とやる気を出していたくらいだ。むん!と。
初夜を済ませた翌日、夫は「しばらく帰れない。困ったことがあれば執事か侍女頭に聞くように」と言って王宮へ出掛けて行った。
「申し訳ございません、奥様。旦那様はいつもああなのです。若奥様のことは当主夫人として丁重に扱うよう、旦那様から申し付かっております。決して、若奥様をないがしろになさっておられるわけではございません。それだけはご理解頂きたく……」
「ええ、分かっています。宰相様のご側近ですもの。お忙しいのは当然ですわ。私も妻として、旦那様へ全力でお尽くしするつもりよ」
頭を下げながら謝罪を述べる執事に対して、マリアンヌは微笑みながらに答えた。なんて寛大な若奥様だと、使用人たちが内心感服していることは知る由も無い。
「私どもは、奥様が心地良くお過ごしになれますよう、尽力致します。何か不都合がありましたら遠慮せず仰って下さいませ」
「ええ、ありがとう」
その言葉通り、使用人たちはマリアンヌをとても大切に扱った。
髪や肌はとてもいい匂いのする香油を毎日丁寧に擦り込まれるし、お茶菓子はいつの間にかマリアンヌの好物の焼き菓子に変わっていた。彼女の反応が良いものを、侍女が選んでくれたらしい。
刺繍が趣味だと話せば、早速色とりどりの糸や、見たこともないような高級品の布が用意されていた。
「優しい人たちばかりで良かったわ。こんな良いお家へ嫁げるなんて、私は幸せものね!」
使用人たちにすれば、当主夫人として適切な扱いをしていただけであるが。そんな風に言われたら誰だって悪い気はしない。彼らがこの年若い夫人を慕うようになったのは、当然の流れであった。
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