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十月、鍵、生きたい
第8話
しおりを挟む「俺には、忘れられない人がいる」
育美と俺の本当の関係を人に話すのは、初めてだった。父親にも、母親にも、誰にも話したことは無かった。上手く話せるか分からなかった。
「その人は、……俺と同じだったんだ。大きな世界に囚われて、人形の様に遣われていた」
思い出す。育美と初めて出逢った日の事。
蘇る。育美と歌った日の事。
初めて一緒に寝た日の事も、一緒に笑い合った日の事も、次々に脳裏を過る。
「始まりは酷い物だったけど……俺は、俺達は、一緒に居る理由がある、ただそれだけでしあわせだった。俺は、彼女と一緒に居られるのなら、他には何も要らなかった」
「…………」
「……その子の名前は……育美」
その言葉に、無言で静かにはらはらと涙をこぼすはぐみ。
俺は、彼女を見ている事が出来なかった。いつもの様に抱き寄せる事も、手を繋ぐことも出来なかった。触れる事すら憚られた。
だから俺は、俯きながら、育美の話を続ける。
「だけど……俺は、突然、育美を奪われた」
誰に? 誰だかなんて、分からない。
神様に。悪魔に。この、運命に。
そうして最後に育美は、俺に呪いをかけていった。
「”……すきよ、すぐり”」
「っ」
俺の言葉に目を見張ったはぐみは、ぎゅっとその柔らかな唇を噛み締める。そんなに噛み締めたら、切れてしまう、そう思える程に、強く、強く。
「それが、彼女の……最後の言葉。彼女は俺が後を追わない様に、そう言って生きる事に縛り付けて、居なくなった。俺の手から摺り抜けて、逝ってしまった」
震えるな、と願うも意味を為さない。俺の喉から落ちてくる音は、既に涙で濡れている。
「それ以来、俺の心は埋まらない」
「……だから、……色んな女の子を、」
「…………」
涙でぐちゃぐちゃになったはぐみの言葉に、黙ったまま、首を縦に振った。
しん、と沈黙が落ちて、俺とはぐみの隙間を、冬の匂いのする風が通り過ぎた。シャツ一枚だけしか着てないというのに、全く寒さを感じなかった、逆に、全身が心臓になってしまったかの如く、どくん、と大きく熱が脈打っていた。
「……だから、俺は、あの日――……この場所で、はぐと、契約した」
その契約が、まさか俺の事を、こんなにも変えてしまうなんて、一切知らずに。
「……すぐり、……話してくれて、ありがとう」
すん、とその鼻を鳴らしながら、はぐみは言う。
涙で濡れた目で、俺の目を射抜きながら、感謝の言葉を口にのせるのだ。
何処まで、綺麗なんだよ。何で怒らないんだよ。如何して、傷ついている癖に、そうやって俺の事を真っ直ぐに見ることが出来るんだよ。
そんな俺の憤りなど、彼女の瞳には欠片も映ってはいない。ただ真っ直ぐに俺を見つめてくる光に、思わず目を伏せた。けれど、彼女はそんな俺に、言う。
「すぐりは、……すぐりよ」
「だから、さっきも言ったけど、俺には紅井の名前しかないって、」
「……今度は、私の話を聞いてくれる?」
はぐみは、ゆるりとその濡れた瞳をゆるめて笑う。そうして、俺が腰かけている奈落への縁へ同じように腰を下ろした。彼女の動きを追う様に、ゆらり、とその黒髪が月明かりを反射して揺れた。俯きながら、彼女は小さく言葉を紡ぎ始める。
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