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十月、鍵、生きたい
第7話
しおりを挟む「すぐりは、紅井の名前だけじゃないわ」
「……紅井の名前だけだろ」
「……っ」
「だって、俺は、父さんに言われるがまま、小さな時から“紅井の御曹司”としての役目を演じてる。どれが紅井の俺で、どれがすぐりの俺なのか、もう見分けがつかないくらいに、ずっと」
嘘だった。俺は、すぐりの俺を、ちゃんと知っていた。そうでなければ、こんなところに来ている訳が無かった。
そう思ってふふっと乾いた笑いが零れた、刹那。
「……如何して……笑うの」
そっと、熱を持った頬をはぐみの冷たい手のひらが包む。ひんやりとした滑らかな感触が、俺の皮膚を撫でる。何度も、何度も――……慈しむ、様に。
その触れ方が、まるで、いつもと変わらなくて。俺は、昼間に、彼女にあんなに酷い事をしたと言うのに。そう思った途端、ぼろり、と感情が唇から飛び出した。
「何でだよ!」
びくん、と触れていた手が震える。ピタリ、と動きが止まる。けれど俺の頬の上から居無くなる事は、無い。それに安堵した情けない自分に、涙が滲んで、もう、如何したらいいか分からなくなった。
「何で、アンタはいつもそうな訳?」
目を眇める。はっ、と浅い呼吸をして、瞳を更に潤ませるはぐみを、睨む。
「どんなに酷い事されても、優しくて、……何でそんなに、綺麗なんだよ……っ」
はぐみと俺の僅かな隙間に落ちて行ったその言葉に助長されて、彼女の瞳から涙が一粒零れた。それは俺の台詞を追いかける様に地面に向かって落ちて行き、ぱた、と音を立てる。
散々、困らせた。たくさん、傷付けた。何度も、泣かせた。
それでも、彼女は、俺の傍に居る。そうして、俺に、信じられない程の優しさを兼ね備えて触れるのだ。
それが彼女の美しさであり、俺にとっての眩しさでもあった。
月にとっての地球は、酷く色鮮やかで、美しいのだ。地球には、月には無い水がある。緑がある。そうして、生き物がいる。
俺は、月なんて大層美しいものでは無いのだろうけれど、もしも月と喩える事が許されるのならば、はぐみは俺にとっての、地球だった。
「そんなの……簡単なことよ、」
「…………」
「私は、貴方が……すき、なんだもの」
はぐみは、目じりから涙を落としながら、そう言う。
地球から見れば、月は地球上の生き物を魅了する存在であるのかもしれない。
けれど、月は、地球の衛星。地球が居なければ、月と呼んでもらう事も出来ない。月はいつも、地球の美しさを切望しながら、その周りをぐるぐると廻り続けるのだ。そうして、太陽の力を借りながら、「月」という存在を、生きていくのだ。
「……はぐ」
名を、呼んだ。漸く出て来た音に、ジワリ、と感情が滲みそうになった。鼻の奥がツンと痛んで、目頭が熱くなった。堪える様に、ごくり、と喉を鳴らして言葉を押し出した。
「俺は……はぐが、思うよりも……更に酷い事を、はぐに、してるよ」
「……っ、」
涙で濡れてきらきらと煌めく双眸を見開いて、はぐみは息をのむ。
「俺は、はぐの事を……身代わりにして来た」
自分の獣を抑えるために――……育美の、身代わりに。
「身代わり……?」
「うん、そう」
頷きながら、ああ、また俺は、彼女の事を傷付けるのだろうな、と思った。
俺がはぐみを育美の代わりにしている事を飲み込んで、そうして、その上で彼女の告白を受け入れることが出来たなら、きっと彼女は傷つくことも無かったはずだ。つまり、俺はこれから、自分の気持ちを軽くする為に、はぐみを傷付けるのだ。
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