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十月、鍵、生きたい
第6話
しおりを挟む「はは」
心底情けない男だ、と思った。
こんな俺が、紅井の御曹司?
笑わせてくれる。
でもきっと、父さんは俺のこういう情けないところを知らない。そんな俺の一部を知らないのだから、父さんの中には、誰かに依存しないと生きていけない俺など存在しない。中身は、父さんが望む息子と正反対だと言うのに。
「……馬鹿らしい」
乾いた笑いと共に、そう吐き捨てて、口角を意識してあげてみた。強張った唇が、にやりと弧を描く。頬の筋肉が小刻みに震えて、元に戻ろうとする。今まで散々、何度も何度も、笑みを顔に貼り付けて来たというのに。如何して、こんなにも、心を隠すことが出来ないんだろう。
それもこれも、全てはぐみの所為だと思った。彼女が居なければ、彼女と出逢わなければ、俺はこのまま、紅井のマリオネットでいる事に何の苦も感じなかったはずだし、自分だけの条理を見つける事も無かったはずだ。
でも、もう、遅いのだ。俺は、誰かに与えられた不条理を自分の条理にする事を厭う気持ちを持ってしまった。真っ直ぐに俺の総てを見つめる彼女の所為で。
月を見上げた。真上に位置している大きなその惑星は、太陽の光を反射してまるで自分が光っているかの様に魅せる。まるで、「紅井」という名が無ければ何処に自信を持っていいのか分からない俺みたいに、ただその光を借りて輝くのだ。
吐息が、口から零れた。溜息なんてものは、人間の目には見えないはずなのに、確かに地面に落ちて行く重さが感じられた。
ゆるゆると自由落下して、俺の足元に溜まっていく。澱んだ感情を振り払いたくて、ぶらり、と右足を揺らした。
刹那。
ガチャリ、と屋上の扉が荒々しく開かれる。俺の視界に飛び込んできたのは。
「――……すぐり、っ」
真っ直ぐな黒髪を秋の夜風に揺らして、肩で呼吸をしながらも、俺の事をその漆黒で射抜く彼女。
俺が心底、逢いたいと思っていた、俺の事をちゃんと見つけてくれる、その人。
その漆黒が美しすぎて、眩しすぎて、見続けることが出来なかった。目を逸らして、名を呼ぼうとした。
けれどその名前は、喉の奥に貼り付いて、出て来てくれなかった。だから、言った。
「……月が、綺麗だね」
「……馬鹿に、しないで」
キッと俺を睨むはぐみの視線に、ふっと笑いが零れる。ああほら、彼女はこんなにも簡単に、俺の笑みを引き出してくれる。
彼女がどんな顔でそこにいようとも、傍に居てくれるというだけで、彼女の視界に俺を納めてくれていると感じるだけで、こんなにも、――……、
そこから先は、言葉に出来なかった。何て名前で呼ぶのかなんて、知らなかった。ただ競り上がってくる感情のうねりに負けない様に、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「……してないよ。本当に……綺麗だから言ってる」
「……すぐり」
「ほら、はぐ、見てよ。こんなに明るくて、綺麗だよ?」
「すぐり」
「でもさ、月って、太陽の光を借りてるだけなんだよね。まるで俺みたいじゃない? ほら、紅井の名前を借りて好き勝手な事してるし、」
名前を呼ぶはぐみを無視して、ベラベラと他愛無い会話を続けようとする俺の頬が、パン、と鳴った。
何が起きたのか分からなかった。ただ、俺の視界を支配するのは、涙の膜を張った瞳に月を閉じ込めて、俺を至近距離から睨みつけるはぐみだけだった。
俺の頬が熱をもって、じん、と痛む。そうして漸く、ああ、俺ははぐみに叩かれたのだな、と理解した。
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