紅井すぐりと桑野はぐみ

桜樹璃音

文字の大きさ
上 下
81 / 90
十月、鍵、生きたい

第6話

しおりを挟む






「はは」



 心底情けない男だ、と思った。

 こんな俺が、紅井の御曹司?
 笑わせてくれる。

 でもきっと、父さんは俺のこういう情けないところを知らない。そんな俺の一部を知らないのだから、父さんの中には、誰かに依存しないと生きていけない俺など存在しない。中身は、父さんが望む息子と正反対だと言うのに。



「……馬鹿らしい」



 乾いた笑いと共に、そう吐き捨てて、口角を意識してあげてみた。強張った唇が、にやりと弧を描く。頬の筋肉が小刻みに震えて、元に戻ろうとする。今まで散々、何度も何度も、笑みを顔に貼り付けて来たというのに。如何して、こんなにも、心を隠すことが出来ないんだろう。

 それもこれも、全てはぐみの所為だと思った。彼女が居なければ、彼女と出逢わなければ、俺はこのまま、紅井のマリオネットでいる事に何の苦も感じなかったはずだし、自分だけの条理を見つける事も無かったはずだ。

 でも、もう、遅いのだ。俺は、誰かに与えられた不条理を自分の条理にする事を厭う気持ちを持ってしまった。真っ直ぐに俺の総てを見つめる彼女の所為で。

 月を見上げた。真上に位置している大きなその惑星は、太陽の光を反射してまるで自分が光っているかの様に魅せる。まるで、「紅井」という名が無ければ何処に自信を持っていいのか分からない俺みたいに、ただその光を借りて輝くのだ。

 吐息が、口から零れた。溜息なんてものは、人間の目には見えないはずなのに、確かに地面に落ちて行く重さが感じられた。

 ゆるゆると自由落下して、俺の足元に溜まっていく。澱んだ感情を振り払いたくて、ぶらり、と右足を揺らした。

 刹那。

 ガチャリ、と屋上の扉が荒々しく開かれる。俺の視界に飛び込んできたのは。



「――……すぐり、っ」



 真っ直ぐな黒髪を秋の夜風に揺らして、肩で呼吸をしながらも、俺の事をその漆黒で射抜く彼女。

 俺が心底、逢いたいと思っていた、俺の事をちゃんと見つけてくれる、その人。

 その漆黒が美しすぎて、眩しすぎて、見続けることが出来なかった。目を逸らして、名を呼ぼうとした。

 けれどその名前は、喉の奥に貼り付いて、出て来てくれなかった。だから、言った。



「……月が、綺麗だね」

「……馬鹿に、しないで」



 キッと俺を睨むはぐみの視線に、ふっと笑いが零れる。ああほら、彼女はこんなにも簡単に、俺の笑みを引き出してくれる。

 彼女がどんな顔でそこにいようとも、傍に居てくれるというだけで、彼女の視界に俺を納めてくれていると感じるだけで、こんなにも、――……、

 そこから先は、言葉に出来なかった。何て名前で呼ぶのかなんて、知らなかった。ただ競り上がってくる感情のうねりに負けない様に、ぐっと奥歯を噛み締めた。



「……してないよ。本当に……綺麗だから言ってる」

「……すぐり」

「ほら、はぐ、見てよ。こんなに明るくて、綺麗だよ?」

「すぐり」

「でもさ、月って、太陽の光を借りてるだけなんだよね。まるで俺みたいじゃない?  ほら、紅井の名前を借りて好き勝手な事してるし、」



 名前を呼ぶはぐみを無視して、ベラベラと他愛無い会話を続けようとする俺の頬が、パン、と鳴った。

 何が起きたのか分からなかった。ただ、俺の視界を支配するのは、涙の膜を張った瞳に月を閉じ込めて、俺を至近距離から睨みつけるはぐみだけだった。

 俺の頬が熱をもって、じん、と痛む。そうして漸く、ああ、俺ははぐみに叩かれたのだな、と理解した。



しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

隣の上梨さん

長谷川よすが
青春
晴れて高校生になった僕、阿瀬空心の隣に座るのは、誰もが目で追うような人間離れした容姿の美少女、上梨愛夢だった。開始早々冷たくあしらわれる阿瀬だったが、彼女のことをもっと知りたいという謎の執着心を原動力に、次第に距離を縮めていく。そして校外学習の日、阿瀬は上梨から、ある秘密を打ち明けられる。

【完結】カワイイ子猫のつくり方

龍野ゆうき
青春
子猫を助けようとして樹から落下。それだけでも災難なのに、あれ?気が付いたら私…猫になってる!?そんな自分(猫)に手を差し伸べてくれたのは天敵のアイツだった。 無愛想毒舌眼鏡男と獣化主人公の間に生まれる恋?ちょっぴりファンタジーなラブコメ。

児島君のこと

wawabubu
青春
私が担任しているクラスの児島君が最近来ない。家庭の事情があることは知っているが、一度、訪問してみよう。副担任の先生といっしょに行く決まりだったが…

弁当 in the『マ゛ンバ』

とは
青春
「第6回ほっこり・じんわり大賞」奨励賞をいただきました! 『マ゛ンバ』 それは一人の女子中学生に訪れた試練。 言葉の意味が分からない? そうでしょうそうでしょう! 読んで下さい。 必ず納得させてみせます。 これはうっかりな母親としっかりな娘のおかしくて、いとおしい時間を過ごした日々のお話。 優しくあったかな表紙は楠木結衣様作です!

ヤマネ姫の幸福論

ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。 一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。 彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。 しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。 主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます! どうぞ、よろしくお願いいたします!

切り札の男

古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。 ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。 理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。 そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。 その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。 彼はその挑発に乗ってしまうが…… 小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。

学園制圧

月白由紀人
青春
 高校生の高月優也《たかつきゆうや》は、幼馴染で想い人の山名明莉《やまなあかり》とのごくありふれた学園生活を送っていた。だがある日、明莉を含む一党が学園を武力で占拠してしまう。そして生徒を人質にして、政府に仲間の『ナイトメア』たちを解放しろと要求したのだ。政府に対して反抗の狼煙を上げた明莉なのだが、ひょんな成り行きで優也はその明莉と行動を共にすることになる。これは、そんな明莉と優也の交流と恋を描いた、クライムサスペンスの皮をまとったジュブナイルファンタジー。1話で作風はつかめると思います。毎日更新予定!よろしければ、読んでみてください!!

その時、私有明はー

睦月遥
現代文学
主人公有明(うみょう)が様々な姿になり物語を紡いでいきます。 基本一話完結なのでどの話から読んで頂いても楽しめます。 AI小説です

処理中です...