紅井すぐりと桑野はぐみ

桜樹璃音

文字の大きさ
上 下
71 / 90
十月、不条理、反抗

第6話

しおりを挟む



 制服も脱がずに、ベッドに身体を埋めていたら、コンコン、と部屋がノックされた。



「すぐり様、旦那様がお見えです」



 お見えです、って、お前の家はここじゃないのかよ、と思いながらゆるゆると起き上がる。

 着替えようと思って、しゅるり、とネクタイを解いた。その音で先ほどやらかしてしまったはぐみとの事が脳裏に浮かんだ。鬱々としながら皺ひとつないシルクの様なシャツに袖を通し、濃紺のスラックスに足を通した。

 そうして出来上がったのは「紅井すぐり」だった。鏡に映った自分を見て、その色素の薄い髪も、瞳も、全部無かった事にしてしまえたらいいのに、と思った。

 部屋を出て広間に向かった。煌々とシャンデリアが輝くそのだだっ広い場所で、父親は相変わらずピシッとしたスーツ姿で俺を待っていた。



「……おかえり」



 しぶしぶそう言えば、笑み一つ零さずに彼は眼鏡を押し上げる。



「遅かったな」

「着替えてた」

「制服のまま長い時間居ると皺になるぞ」



 そんな事言ってお前だってずっとスーツでいるじゃんか。脳裏に浮かんだ言葉が喉から飛び出してくる前に、ごくん、と唾液と一緒に飲み込んだ。

 綺麗に彩られて運ばれてきたのは、簡単に名前が付けられる様なメニューでは無かった。



「白えびのタルタルクレープ添えキャビアソース、でございます」



 キャビアねぇ。サメの卵巣。サメには悪いけれども、超高級食材として有名なコイツよりも、俺はあの日はぐみと飲んだサイダーの味が好きだ。

 マナー通りにカトラリーを使って口に運んだ。いろんな味がする。どれがどう主張しているのか分からない。咀嚼しながら、まるで「紅井」という名前をとった俺みたいだ、と思った。

 きっとこの名前が無い俺は、どこに胸を張って生きていけばいいのか分からないのだ。

 勉強も運動も、それなりに全部できる。教養に繋がる習い事も続けているし、高校範囲の内容なんて、家庭教師にみっちり教え込まれてとっくに終了していた。今は大学の経営学の勉強をしている。

 けれど、それもこの名前があってこそ。だからきっと、俺が胸を張っていい部分じゃないのだ。



「このキャビアは美味しい」



 そう言った父親に、曖昧に頷いて見せた。



「最近、どうだ」



 どうせ興味何か無い癖にそう言って俺に興味があるふりをする。それが何処か嬉しい自分に溜息が零れた。



「……別に、いつも通り」

「授業に出る様になったらしいじゃないか」

「……っ」



 授業に出ていない事も、筒抜け、って訳。脳裏に担任の女教師の顔が浮かんで、一瞬で消えた。手を止めた俺の事など意にも介さず、目の前の男はエビを口に中に放り込む。




「学校の授業など、別段意味も無いのだから、出る出ないは任せるが、卒業はしなさい」

「……はい」

「それにしても、すぐり、お前副会長になったのか。生徒会の顧問が報告してきたぞ」



 それ何か月前の事だよ、と思って、またエビと一緒に飲み込む。ごくん。



「……副会長になったよ」



 “紅井”の名前だけで、役割を得たよ。そう言おうとして、ああ、俺も大概父親と同じだなと思って吐き気がした。

 まるで今飲み込んだエビが胃の中で暴れているみたいだった。



「会長はどうだ」

「……っ、会長?」



 どくん、と心臓が跳ねた。動揺したことに気が付かれただろうか。



「女だってな」



 そう言って、馬鹿にしたように笑う。ぎゅっと奥歯を噛み締めた。



「どうせソイツも、内申点が欲しいだけだろう。世間の構造をよく理解している奴じゃないか」

「…………」


 
頭がいいな、と言ってはぐみの事を褒める父親に何を言えば良いか分からなかった。言い返せそうな言葉は机の上の何処を見渡しても落ちていなかった。





しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

その時、私有明はー

睦月遥
現代文学
主人公有明(うみょう)が様々な姿になり物語を紡いでいきます。 基本一話完結なのでどの話から読んで頂いても楽しめます。 AI小説です

自称未来の妻なヤンデレ転校生に振り回された挙句、最終的に責任を取らされる話

水島紗鳥
青春
成績優秀でスポーツ万能な男子高校生の黒月拓馬は、学校では常に1人だった。 そんなハイスペックぼっちな拓馬の前に未来の妻を自称する日英ハーフの美少女転校生、十六夜アリスが現れた事で平穏だった日常生活が激変する。 凄まじくヤンデレなアリスは拓馬を自分だけの物にするためにありとあらゆる手段を取り、どんどん外堀を埋めていく。 「なあ、サインと判子欲しいって渡された紙が記入済婚姻届なのは気のせいか?」 「気にしない気にしない」 「いや、気にするに決まってるだろ」 ヤンデレなアリスから完全にロックオンされてしまった拓馬の運命はいかに……?(なお、もう一生逃げられない模様) 表紙はイラストレーターの谷川犬兎様に描いていただきました。 小説投稿サイトでの利用許可を頂いております。

ヤマネ姫の幸福論

ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。 一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。 彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。 しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。 主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます! どうぞ、よろしくお願いいたします!

GIVEN〜与えられた者〜

菅田刈乃
青春
囲碁棋士になった女の子が『どこでもドア』を作るまでの話。

乙男女じぇねれーしょん

ムラハチ
青春
 見知らぬ街でセーラー服を着るはめになったほぼニートのおじさんが、『乙男女《おつとめ》じぇねれーしょん』というアイドルグループに加入し、神戸を舞台に事件に巻き込まれながらトップアイドルを目指す青春群像劇! 怪しいおじさん達の周りで巻き起こる少女誘拐事件、そして消えた3億円の行方は……。 小説家になろうは現在休止中。

Missing you

廣瀬純一
青春
突然消えた彼女を探しに山口県に訪れた伊東達也が自転車で県内の各市を巡り様々な体験や不思議な体験をする話

ザ・青春バンド!

モカ☆まった〜り
青春
北海道・札幌に住む「悪ガキ4人組」は、高校一年生になっても悪さばかり・・・ある日たまたまタンスの隙間に挟まっていた父親のレコード「レッド・ツエッペリン」を見つけた。ハードロックに魅せられた4人はバンドを組もうとするのだが・・・。

切り札の男

古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。 ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。 理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。 そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。 その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。 彼はその挑発に乗ってしまうが…… 小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。

処理中です...