紅井すぐりと桑野はぐみ

九月、消えたい、過去

第8話

　それは、２年前の９月の事だった。

　カナカナカナカナ、と蜩がどこか遠くで鳴いている声がした。まだ生温かいけれど、秋の匂いを孕んだ風が、俺が渡したどのハンカチの色とも違う、真っ白な布を顔にかぶせられた彼女と俺の間を通り過ぎた。



「……育美はぐみ」



　名を、呼んだ。いつも通りに。



　”どうしたのよ、すぐり”



　必ず笑い返してくれた。俺の名を呼んでくれた。

　けれど、目の前の有機物の塊は、もう二度と、俺の名前を呼ぶ事は無い。

　頬が冷たくてハッとした。そっと指を滑らせたらそこには感情が灯った。思わずぼろりと言葉が喉を滑り落ちて、唇から飛び出した。



「しあわせなんて、もういらないから、だから神様、彼女を助けて……っ」



　信じてなかった俺の神様は、やっぱり酷く意地悪だった。白いベッドに縋りついて大声で泣く俺の事を嘲笑って、そうして、育美はぐみの命を、攫って行った。