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九月、消えたい、過去
第4話
しおりを挟む「育美」
「……すぐり」
そっと名前を呼べば、泣きそうに顔を歪めて、けれど、それを誤魔化す様に彼女は笑う。
「……逢いたかった」
ぼろり、と唇から言葉が零れた。一度タガが外れた感情は、止め処なく落ちて行く。
「もう、逢えないかと思った」
「そんな、訳……っ」
彼女は、ぎゅっと唇を噛んだ。そうして、笑おうと口角をあげた。けれど、ふにゃりと下がった眉がそれを許してはくれなかった様で次第に瞳に膜が張っていく。
「育美?」
名前を呼べば、目じりから大きな雫が彼女の頬に転がり落ちた。思わず、腕を伸ばす。指先に触れた熱は、緊張の糸が切れた様に一直線に俺の胸に飛び込んできた。
「すぐ、り……っ、」
「育美……、どうしたの」
「……どうも、してないわ、」
強がりと涙を零す彼女の腕は、相反するように俺の身体にしっかりと回されていた。まるで何かに怯えているかの様に小刻みに震えているその身体をぎゅっと抱き締めた。
彼女は折れてしまいそうに細かった。壊れてしまいそうで、けれど、想いが募って、どうしようもなかった。どうやって力を入れればよいのか、全く分からなかった。
「……大丈夫、だよ」
「っ」
「大丈夫、……俺が、居る」
何て陳腐な言葉。けれど、その時の俺たちにはそれしかなかった。そんな簡単な薄っぺらい言葉に縋ることしか、出来なかった。
そんな俺の言葉に、小さく笑った彼女は腕の中で俺を見上げて言う。
「……すぐり、私が何で呼ばれたのか、……知ってる?」
「……知ってるよ」
この部屋が、俺の部屋とベランダ続きな事も、彼女が今夜この家に泊まっている事も、全部その為だと知っている。
「……じゃあ、……っ、」
次に脳裏に浮かんでいる言葉を、如何にかして喉から押し出そうと必死な彼女を見ていられなかった。だから俺は、震えながらそっとその唇を塞ぐ。
初めて触れた彼女の唇は、柔らかくて、そうして、涙の味がした。
離れた唇をぎゅっと噛み締める彼女をもう一度抱き締めた。肩に沁み込む涙が冷たかった。
「……言わなくて、いいよ」
「でも、」
「育美が嫌だと思う事なんて、俺、しないから」
「……駄目……私、帰ったら、」
涙で濡れた瞳で、育美は俺の事を下から睨む。月光を宿すその美しさに、ハッと息をのむ。零れてきた途切れ途切れの声がまるで悲鳴のようだった。
「……ちゃんと出来たか調べられるの……だから、……っ、お願い、」
抱いて……、と育美が言った言葉は、俺のシャツに溶けて、消えていく。
唖然とした。まだ俺と育美は中学生だ。こんな事は、映画の中でしか起こらないと思っていた。そんな幼くて未熟な自分に酷く嫌気がさした。
社会の歯車として駒の様に使われる俺と、その俺の歯車にされる育美。
きっと俺が居なければ、育美はこんなに悲しむ事は無かっただろうに。
そう思う反面、育美が自分の手の中にいる事に、喜びを感じている自分が居た。
最低だと思った。自分の事が心底嫌いになった。だから、必死で育美を抱きしめた。このまま一緒になればいいと思った。離れてしまわないように強く抱きしめた。離れなければそれをしなくていいと思った。それくらいしか、思いつかなかった。
「無理だよ、……そんな事、」
「無理じゃないわ……私が、教える、から」
必死で抱き締める俺の腕から育美は簡単に抜け出して、そうして、彼女はその身に纏う布を一つずつ落としていく。
彼女だって初めての癖に――その恐怖も哀しみも全部、白く美しく光る小さな体に隠して、俺を抱き寄せた。
柔らかな感触に、嫌な熱が滾った。初めての感覚だった。
「ごめんね、……すぐり」
そうして気づく。
やっぱり育美は、俺よりもちゃんと、年上だった。
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