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九月、消えたい、過去
第1話
しおりを挟む小さなころから、御曹司として英才教育という名の躾をされてきた。
物ごころついた時から、たくさんの習い事をさせられた。ピアノ、バイオリン、バレエ、英会話、習字、華道、茶道、美術教室、スイミング、……習い事と名の付くものは全て通り抜けて来たといっても過言ではないと思っている。
それなりに器用だった俺は、何事も中の上。
よく出来ていても、褒められる事など一切なかった。けれどそれが俺の日常だった。
ルイ16世もびっくり、時代錯誤も甚だしい、どこぞの貴族と同じような毎日。そんな毎日を過ごす事が当たり前だった。
けれど、ある日その人は俺の目の前に現れた。
あれは、まだ小学校に上がって直ぐだった頃。初めて、父親と母親に連れられて、大勢の人が出席するパーティに参加したときの事だった。
「初めまして、紅井すぐりです」
ただそう言うだけで、「凄いわ」だの「可愛いわ」だの、たくさんの誉め言葉をもらう事が出来た。
何だ、これ。普通の人は、こんなに褒めてもらえるのか。そうと知った俺は、生意気にも自分から声をかけに行くことを憶えた。
そうして、様々なパーティに参加できる様になってから4年後。小学校5年生。
水を零してしまった女性にすっと近づいて、綺麗に折りたたんだハンカチをそっと差し出すことが出来るまでに成長した。
「きゃっ」
その日も俺は、飲み物を零してしまった彼女に近づいて、水色の正方形のハンカチを差し出したところだった。
「どうぞ」
「ありがとう、ごめんなさいね」
そう言って顔を上げた彼女。はっきりとした目鼻立ち、ぱつん、と切り揃えられた前髪が、小さくお辞儀をした彼女の頭を追いかけて揺れる。
その表情は、その口調から想像される年齢よりも幼く見えた。でもそんな事はこの世界ではよくある事。俺がいい例だ。
「……貴方、お名前は?」
「……紅井、すぐりです」
そう言えば、たいていの人は目を輝かせて俺に猫なで声を使ってくる。誉め言葉さえもらえれば構わなかった俺はそれが「紅井」の名前によるものだと本当は知っていた。
けれど、目を逸らしていた。目さえ逸らしていれば「紅井」の名前は承認欲求を満たすのに酷く役に立った。
「ふぅん。まぁ、兎に角ありがと」
彼女は、そう言って、ハンカチでスカートの部分を懸命に拭き始めた。
その姿に、拍子抜けした俺は、唖然として言葉が出なかった。けれどその場をそのまま去るのも何処か癪に思えて、じっと彼女が自身のドレスを拭き終わるまで傍らに突っ立っていた。
「あら、まだいたの」
「っ」
何と辛辣な言葉。哀しいよりも先にムカついた小学5年生の反抗期突入の俺は、取り繕う事も忘れて言い返す。
「……貸してやったのにその言い草はないですよね」
「あら、意外と口が達者です事」
何歳? と聞かれたので、11歳だと返したら、良くそんな難しい言葉遣えるわね、と何故だかそこで褒めてもらった。
褒めてもらって嬉しくないのは初めてだった。飄々としたその態度に逆に興味が湧いた。後から考えれば、彼女は他の人と違って上っ面の俺じゃないところを褒めてくれた唯一の人だった。
だからあの日、興味が湧いたのかもしれない。
「お姉さんこそ、何歳なんですか」
「12歳。桐生育美よ」
「桐生、さん」
「嫌よ、名字は嫌いなの」
そう言ってけらけらと笑う彼女の笑顔が、その日家に帰ってからも全く脳裏から離れてくれなかった。また、逢えるといいなと思った。
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