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八月、禁断の台詞、未練
第2話
しおりを挟む黙ったまま薄ら笑いを浮かべる事しか出来なかった俺の名を、はぐみがそっと呼ぶ。
「ねぇ、すぐり」
「ん?」
酷く、怖い。彼女が何を言うのかが、彼女の唇を超えてくる言葉がどんな音をしているのかが、怖くて怖くて堪らなかった。
けれど、そんな怯えた俺の事など何も知らずに、はぐみはそっと優しく笑って。
「……ありがと」
感謝の言葉を、落とした。
「何が」
「んー……すぐりの言葉で、いろいろ気が付けたと思うの」
あまつさえ、そんなにも美しい言葉を吐く。まるでそれは蜘蛛の糸の様に俺の事を優しく包んで、そうして、そっと絡みつく。
「私、今まで、何の為に生きてたか分かんなくて、でも、……何か、すぐりの言葉で少しだけ分かった気がするの」
優しくて綺麗で、けれど、相反するように酷く鋭い棘を持った彼女の言葉の糸は、俺の胸を抉る。痛い。
「私は――……私の為に、生きているのだわ」
その真理は、酷く眩しくてそっと顔を顰めた。窓から見える月を見上げている彼女には気づかれなかった。
それは、俺には欠片も存在していない心理だった。
自分の為に生きる? そんな事、出来る訳が無かった。
小さな時から、将来が見えた。敷かれていたレールの上をただ一歩ずつ進んだ。それはまるで双六の様で、俺はサイコロを振ってはその升目を進んでいくだけだった。
俺の人生のゴールは、会社を継ぐことだった。そんな決まり切った目標に、生きる意味など見出せるものか。
例えば、今の君は何のために生きているのかと訊かれたら、きっと自分の為だと答えるのだろう。
けれど、俺には、それは無い。
俺は、その問いに、念の為だと答えるだろう。
人が生きている理由なんて、その程度のものだと思うし大抵の人はその程度だろうと思っていた。
けれど、如何だろう。
世間を見回せば、そこら中に、夢、とか、希望、とか、将来、とかの言葉が溢れかえっていた。
街頭の大きな液晶の中にも、テレビから流れてくるCMの中にも、駅前で聴こえてくる歌謡曲の中にも、ありとあらゆる場所に、それらは居た。
馬鹿だな、と思った。
夢も希望も将来も、ある一定数の決まった人間に用意されたものでしかなくて、そこに自身をねじ込むことを堂々と語る人間は酷く滑稽だと思った。
いつ死んだって構わなかった。けれど、ずるずると生にしがみ付いていた。
死を選ぶ事すら出来ない呪いに縛られた臆病者の自分が、自分の為に生きているなどという美しい真理を語ってはいけないと思った。
ただ誰かの操り人形の様に、ひたすらに、誰かの駒として人生を歩んでいる自分は、多分誰にも見つけてもらえていないのだろうな、と思った。
だから、俺は、自分の事だけを考えてくれる人が欲しかった。誰でも良かった。どんな想いでも構わなかった。兎に角、俺の事で脳裏を一杯にしてくれる、そんな人間を求め続けている。
「だからね、すぐり」
「……」
ぼーっとそんな事を脳裏で考えている間も、はぐみは目の前で話を続けていたらしい。
ゆるりと吹き込んできた風に舞い上がった黒髪に、そっと指先を伸ばした。触れたと思った瞬間、俺ははぐみを自分の方へ引っ張っていた。
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