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六月、世界との境界、選挙
第9話
しおりを挟む体育館にぞくぞくと集まってくる、学校の生徒たち。体育館の放送室から見下ろしていれば、まるで蟻の如く綺麗に隊列を組んでいるのが見て取れる。
点呼確認、教員からの指示で整列、果たして、自然界にここまで意思の無い動物がいただろうか、そう思って乾いた笑いが零れてしまった。
慌ててマイクの出力音量を下げる。聞こえてしまっただろうか。
そう思って群れをつくる同じ服を着た人間を伺えば、何も変化が無かった。良かった、と胸を撫でおろす。
ただでさえ今はめんどくさい噂が流れているのに、こんなところで噂の種を増やしたくは無かった。
「桑野、司会進行頼んだぞ」
その言葉に振り向けば、顧問が放送室のドアから顔を出していた。こくり、と一つ頷いて、マイクの音量を上げる。
ひとつ息を吸って、「静かにしてください」と恒例の文句を唇にのせた。
「これより、第37回、生徒会選挙演説を
始めます。始めに、書記候補、――……」
順番に、名前を呼ぶ。演説をしては舞台から退席していく。書記、会計、広報、庶務。
時間が来れば「終了時間です」と知らせ、そして次の人の名前を呼ぶ。
ただそれだけの仕事に、ひま、という二つの平仮名が私の脳裏に浮かび始めた時。
ふと、次に呼ぶはずの副会長という役職を見た。その下に当たり前に書かれている名前に、ひゅっと息を呑んだ。
「……すぐり……?」
そこには、見慣れた游明朝体で、「紅井すぐり」と印字されていた。
目を瞬いた。けれどその字面が消える訳が無かった。
目を擦ってみた。けれどそこにはその5文字が毅然として在った。
チーン、とタイマーが鳴る。ハッとしてマイクの音量を上げる。
「終了時間です」
ああ、お願い、
……頼むから震えないで――……私の声。
「副会長候補――……紅井、すぐり」
その名を口にのせるだけで、ぞくりと身体が熱を灯す。パブロフの犬。ああ、この震えは、伝わらなかっただろうか。
カツン、という靴の音に、放送室の窓から舞台を見下ろした。そこには、二人の時と何も変わらない蜂蜜色の髪と彫刻の様な横顔のすぐりがいた。
「初めまして。1年A組1番、紅井すぐりです」
妖艶に笑んで、自己紹介をする。スピーカーから流れてくる艶っぽい低い声に、ずるい、と思った。
「僕がここに立つことになったきっかけは、5日前にあります」
息が止まった。5日前。それはあの雨の中の出逢いの日。にこにこと笑いながら、すぐりは堂々とマイクに向かって話しを続ける。
「僕はその日、屋上で、生徒会長と出逢いました」
ざわめきが体育館に広がってく。それは波紋の様に、干渉しあって、そして大きな波になる。
「僕は、彼女の手伝いをしたいと思いました。僕のこの手で彼女を支えたいと思いました」
そう言いながら、放送室を見上げたすぐりと、目が合った。金縛りの様に動けなくなった私に、彼は壇上でにやりと笑う。
「他でもない、この、僕――……紅井、すぐりが」
そうして――ざわめきの波を一瞬で鎮める言葉をその整った唇から放った。
その名を出されてしまえば、抗える者などこの場所に居るのだろうか。
その解は無なのだ。
虚数解でもなく、ただ純粋な、無。
「投票、お待ちしております。ご清聴ありがとうございました」
彼がマイクを通して喋っていた時間は、58秒。たった1分にも満たないその時間で、ただ彼は、自分の肩書だけで、
自分の思い通りの役職を手に入れた。
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