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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに
26 セーニョまで戻れ
しおりを挟む潮騒を聞いているうち、繰り返される海鳥の鳴き声と波の音は混じり合って鼓膜に貼り付き、脳はそれを外から聞こえてくる音とは認識しなくなった。
いくつかの手紙を手に持ってそれを読んでいる。正午過ぎでも既に太陽は内陸まで通り過ぎて、遠海まで見張るかす崖の上には灰のような濁った光の残滓が漂っているだけだ。それでも白い紙に書かれた黒いインクの筋を追うには十分である。
煙草の灰が手紙の上に落ちた。すぐに潮風に吹かれて灰は滑り落ちたが、紙はかすかに煤けていた。
子供の頃からよく座っているコンクリート片が崖の天辺にあった(まだ此処が私有地になる前に転落防止の為の灯台を建てようとした名残らしい)。そしてケヴィンはこの日もそれに腰を下ろして海と手紙を眺めていた。
一月の潮風は羽織った上着も、その下に着たシャツの繊維の間すらすり抜けて肌を撫でていく。
年が明けて、内陸の都市部はあとひと月はゆうにお祭り騒ぎだろう。巨大な人工海には今日も新年を祝う飾りが漂い、夜には新年の記念すべき十日目を祝う大砲が打ち上がる。
草の根を踏み締める音がした。振り返るまでもなく、ケヴィンは広げていた手紙を畳んだ。
「いかがでしたか?」
と、バッカスは前振りもなくそう呼びかけた。「アカデミーの老害が、まだ痴呆に成り下がっていなければ良いのですが」
「里帰りの記念に講師として雇ってやってもいい、と言っている。どう思う?」
「愚問ですな」
ケヴィンが振り向くと、すぐそばに燕尾服を身に纏った老執事が立っていた。右手に黒い杖をついて、ケヴィンから手紙を受け取る——ケヴィンが咥えている煙草に微かに眉を浮かべながら。
「アカデミーは教師不足なのか? 国家公務員はいつでも人気だろ」
「国家ぐるみの大企業と化しておりますから、常に客寄せの餌が欲しいのでしょう」
「目に傷のある男が教壇に立って、映画化でもしてくれるなら考えてみるか」
「今は動画配信の時代ですよ、坊ちゃん。そもそもアカデミーの広報担当に、私の孫ほども機材を扱える者がいるとは思えませんが」
「ああ、そうそう」
ケヴィンは煙草を指に挟んで老執事を睨んだ。「ヒースから聞いたが、執事希望らしいな。住み込みでしごくにはまだ早いだろ」
「ええ、今のまま鍛えてやってもただ小枝のように折れるだけでしょう」
「そういう意味じゃない……ブートキャンプじゃなく、普通の大学へ行かせろと言ってる。アカデミーが嫌なら外国へ行くのもいい。子供の頃からお前がしごくから、あんな堅物に育ったんだ。子供の頃は可愛い奴だったのに」
「ええ、ええ」バッカスは白けた目で手紙を読み終えると、片手でそれを八つ折りにして、手のひらで包んだ。「そうでしょうとも。お忙しい坊ちゃんの足元に纏わりついて、将来仕える方の膝でピアノをせがむ不始末の数々。それで執事になるなどと、恥の上書きとしか思えませんな」
「家庭の教育方針を批評できる立場じゃないが、たまには褒めてやれ」
「褒めるべきは誉めておりますよ。それ以上に叱るべきが多いだけのこと」
押しても引いてもびくともしない岩壁がそそり立っている。ケヴィンはバッカスが潮風を遮るように立っていることに気がついていた。
ゆく年の終わりが世界終末であるかのように世界が賑わい、狂乱するななか、ヒースと共に六年ぶりに帰省したケヴィンを出迎えたのはバッカスだった。父と母は仕事の都合でおらず、だというのにまるで当主の父が帰ってきたように、屋敷の玄関には執事とメイドが整列していた。
それが歓迎であり、六年間の憂さ晴らしを兼ねていることをケヴィンは察していた。家族と同じだけの付き合いのあるこの老執事は聡明で、そして常に的確な仕事をする。相手によって出す手を変え、常に最大の打撃を相手に与える。
家督継承前とはいえ、長男が同じテーブルにいる夕食の席で、甲斐甲斐しいまでにケヴィンの真横に張り付いていたのもひどい圧力だった。それでも外見上は厳かに控えているだけではあり、ヒースは食事中ずっと愉快そうにしていた。
ケヴィンは一体いつ、バッカスがその手に携えたワインボトルを振りかぶって自分の頭に振り下ろすのではないかと考えていたほどだった。
「怒っておりませんよ」
帰省した日からもう何度目かの問いかけに、この日もバッカスは澄まして答えた。
「我々の職務は屋敷を守ること。ご当主とその家族皆様が帰る家を守り、いつ何時も完璧な状態を保つこと。皆様は好きな時に屋敷を離れ、そしていつ戻って来られるも自由です」
「その言葉を額面通りに受け取れば、お前が俺をストーカーするのはお前の仕事ではないということになるんじゃないか? ストーキングはお前の趣味か?」
「ヒース様より、くれぐれもとご下命を受けておりますので」
ヒースは年末年始を大いに楽しみ、そして数日前に仕事へ出ていった。一週間ほどで戻ってくるが、ようやく両親と兄の圧迫面接から解放されたと思いきや、入れ替わりの面接官が離れない。
ここ数日、ようやく溜飲が下がり始めたのか、一人でぶらついても遠巻きに執事やメイドたちが動向を注視するまでに収まった。後は、久しぶりに戻ってきた不良息子に感じる物珍しさも薄れてゆくだろうと思っていたが、ケヴィンの予測は甘かったらしい。
「ヒースには一人で楽しめる趣味が必要だと思わないか? バイオリンを一時期やっていただろ、鷹狩りも」
「あの方にとってそれらは習得すべき教養で、趣味とは行かなかったようで」
「あの可愛がってる部下とはどうなんだ?」
「ズィズィ・カシク様ですか。特に経歴に怪しい点などございませんので放置しておりますが、必要であれば手をお回ししましょうか」
「……いや、やめておこう。俺までヒースの真似事を始めたら、家は終わりだ」
バッカスが首を傾げた。目を細くして、視線が微かに泳ぐ。
ケヴィンは黙っていた。バッカスの右耳の裏についている無線機から微かに人の声がする。
「追い返せ」
と、バッカスは短く言った。潮風にも揺るがない岩石のような声で。「公国の人間に用はない。我々に無いのだから、向こうの用など関係ない」
承知いたしました、と軽やかな回答が無線機からあった。メイドのものだろう。
「今度はどこの誰が来たんだ? セントラル駅で撮った動画の肖像権と収益の配分についての話なら、聞いておくべきだと思うが」
「つまらぬ話で、庭の花に唾をかけられてはご当主に叱られてしまいます」
ケヴィンが首を振ると、バッカスは顰蹙そうな顔をしたが、口を割った。
「妙なことを言う男が門前に。坊ちゃんに詩集を届けに来たと申しております」
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