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03:カンタービレ:歌うように、感情豊かに
20 カタギリ・ファミリー
しおりを挟むそれは赤と黒のオーブンレンジだった。前面の開閉ドアは黒く、側面はシックな赤で塗り分けられている。
家電量販店のオンラインショップで注文し、最寄店舗に在庫があったとはいえ注文の翌日に届いたのだから昨今の物流技術は大したものだ。それとも家電量販店のサービス精神を労わるべきか。
セントラルにある666が借りている地下スタジオにそのオーブンレンジは届けられた。エイレー区での二日間に渡るドラマ撮影を終え、セントラルへ戻る車中でドミトリからミランへ納品の連絡が入り、そのままスタジオ内でミラン・アーキテクトによる検品作業があった。
「担当者も驚いただろうな。ドミトリ・カデシュが電子レンジを爆破するなんて」
「流石に内部が焼け焦げたレンジは下取りしてもらえなかったけどね」
「それは諦めて、次の廃棄物の日に出すしかない」
結果、オーブンレンジは厳しい検品を無事に終えた。ケヴィンは新たに車へドミトリとオーブンレンジを積んでスタジオを出立した。
ドミトリがケヴィンに向けて口を開いたのは、ミランが自宅マンションのオートロックドアの向こうへ消えた後のことだった。
「——それで、今度は一体何をしたんです?」
ミランへ向けていた笑顔とは少し異なる笑顔がルームミラーに映っていた。
ケヴィンは「何も」と言った。携帯に、無事に部屋にたどり着いた旨の簡潔なメッセージが入る。発信元はミランだ。それを確認して路上に停止していた車を動かす。
セントラルの道路はちょうど多くの企業から家路に着く車が絶え間なく流れていた。公共機関が発達していても、この時間だけは流石に混雑もする。ヘッドライトの点灯割合はまだ五分五分といったところだ。ケヴィンは一番明度の低いライトをつけた。
「何もなくて、どうしてミランがあんなに不機嫌なんです?」
「それはあいつに聞け。あいつのことだ」
ドミトリのマンションはここからそう遠くないが、一本通りを外れた場所にある。閑静な住宅街の団地のある丘をさらに登らなければならない。
ドミトリがさっきまでミランが座っていた傍らの座席を指で叩いた。もう一方の手は閉じた組んだ足の上に転がっている。
「撮影が上手くいかなかった、というわけではないでしょうし。もしかしてエイレーで誰かに絡まれましたか」
本人としてそのつもりはなかっただろうが、ドミトリの呟きは正しく的を射抜いた。だが、問題は的が一つだけではないということだ。それだけが理由ではない。
「喧嘩でもしたんですか?」
「パパ、こういう時にばかり口を出すのは止せ。夫婦生活で大事なことは奇抜なイベントじゃない。一日一日の積み重ねだ」
「もしかして、手、出しました?」
車は時速四十キロで進んでいる。六車線道路。次の信号で右折しなければならないが、既に右車線にいる。
「言っておくが、あいつが俺を抱きたいと抜かしたんだ」
ケヴィンがそう言うと、ドミトリは驚いた顔をした。
それはケヴィンにとって拍子抜けするような反応だった。溜息が返されるとばかり思っていたが、まるでドミトリが本当に冗談を吐いたように見える。
だが、この時ばかりは本当に冗談だったらしい。ドミトリがいつまでも驚いた顔を取り繕おうとしないので、ケヴィンはついに舌打ちをした。
「お前が言ったんじゃねえか」
「え」ドミトリは虚を突かれたようだった。「えっと、本当に?」
「どれがだ? 俺が抱かせたことか、あいつが男でも勃ったことか?」
ドミトリはおもむろに運転席のリクライニングを掴み、前へ顔を出した。
「まさかミランを縛り付けて行為に及んだとか言いませんよね」
「何が悲しくて俺は男を縛らなけりゃならないんだ?」
「——ミランが言ったんですか? あなたが脅したとかでもなく?」
「俺を抱くか俺に抱かれたいかだとすればどっちだ、と聞いた」ケヴィンは向かう先の西日に目を細めた。「そうしたらあいつが俺を抱きたいと言った」
西日は強烈だった。サングラスをかけた時、ドミトリは既に後部座席に戻っていた。ケヴィンは首筋に感じていた紐を巻かれたような感覚が薄れたことを感じた。
車が右折した。「そうですか」とドミトリが言った。「ならよかった」
「お前の愛情は屈折してるな、パパ」
「それは、少なからず俺に愛されていた経験がある人としての言葉ですか?」
「ああ」
ケヴィンは言った。「お前、俺よりあいつのことのほうが好きだろ?」
右折先の道路に入ると、交通量は減った。閑静な住宅街が緩やかな上り坂の左右に広がっている。どの家にも庭と生垣があり、ドミトリはおそらくこの坂を毎朝走っているのだろうと思われた。
ドミトリからの返事はなかった。「言い方が悪かったな」ケヴィンは悪びれもせずに言った。
「つまり俺が言いたかったのは、俺がお前と付き合っていたとして、もし俺とあいつが同時に崖から落ちそうになっていて、どちらか一人しか助けられないとなったら、お前は迷わずにあいつを助けるって話だ」
「そりゃそうでしょう」
今度の沈黙は短かった。ドミトリはほぼ即答した。
「いつかまた、俺の前にあなたほど気の合う人は現れるかもしれません。ですが俺の前にミラン・アーキテクトはもう二度と現れない」
そこまで言ってから、ドミトリはにっこりと微笑んだ。「勿論、ミランが崖から落ちそうになっていなければ、その時は全力であなたを助けますよ」
ドミトリの笑顔に、ケヴィンも笑顔を返した。鏡越しに。
「だから俺はお前とわざわざ付き合ったんだろうな」
「どういう意味です?」
「お前が何の為に俺を恋人なんてものにしようとしたか、分かっていたからだ」
ドミトリは笑顔を深めた。それが本来の笑い方なのだろう。まるで老人のように優しげに、老人のように得体の知れな差がある。自分より長く生きている生物を前にした時のような、追い込まれた緊張感を相手に与える。
「666がクイーンズに入ってまだ間も無い頃、面白い噂を聞いたんですよ」
ドミトリはゆっくりと話し始めた。「クイーンズのお偉いさんが、遊び相手を探しているって噂です。よくパーティを開いていて、招待状が届くそうで。まあ俺は貰ったことがないんですが」
まるで幼い頃の思い出をなぞるような口調だった。それこそ老人が、孫に自分の歴史をそっと教えるように。
「当時は駆け出しということもあって、俺とミランはクイーンズが手配した部屋でルームシェアをしてました。ある日俺が毎朝のランニングから帰ると、ミランがベランダで紙を燃やしていたんです。彼が使っていた小さな鉢に紙を入れて」
道路が存外混んでいたため、ドミトリは当時走っていたコースを全て走り切る前に帰った。ミランもまだドミトリが戻ってくるとは思わなかったのだろう。
「枯れた草でも燃やしているのかと聞きました。ミランはそうだと言いました。虫が卵をつけていたから、そのまま捨てたら大変なことになるんだと。だから俺は」
ドミトリはその後、燃え滓を一部回収した。
時刻が書いてあった。場所が書いてあった。遅い時刻だった。知らない場所だった。
予定のない日に近くを走った。そこには立派な家があった。付近に近づけないほど広い、プール付きの邸宅があった。
「その時はそれで終わりです。ミランの危機管理能力に感心しました。憶測に過ぎないし、勘違いかも知れない。でもどうでもよかったんです。そんな都市伝説は、悪い冗談みたいな話は、俺たちには関係ありませんから」
ドミトリの部屋は彼の収入や世間の人気を考えれば、あまりに殺風景だった。1LDKの部屋にあるもので、ケヴィンが運び入れたオーブンレンジ以上に派手なものはなかった。オーブンレンジ以上に大きなインテリアは、リビングの壁に寄せて置かれたセミダブルのベッドぐらいなものだ。
ドミトリの部屋には、デスクはあったがテーブルはなかった。PCチェアはあったが、来客が座れるような椅子は一つもなかった。
「あの日、目に傷をつけて現れたあなたの顔を見たとき、久しぶりにあの悪い冗談を思い出したんです。悪い冗談と都市伝説が一気に現実になったような気がした。あなたがその当事者になろうとしているんだと思いました」
ドミトリはケヴィンに模様のないマグカップを差し出した。中には透明で冷たい水が入っていた。浄水器を通した水道水だった。
オーブンレンジの設置を終えたケヴィンは受け取った水を飲んだ。
「あなたがどこでどんな風に育って、何を考えているのかは知りません。でもあなたの性格はそれなりに知っているつもりです」
ケヴィンはもう一度水を飲んだ。それでカップの中は空になった。窓の外は薄暗くなっている。ドミトリが窓際へいき、カーテンを引いた。
「あれがあなたを引き留めるのに一番いい方法だと判断しました。少なくとも、あなたが“親友”のためにあれだけ必死になれるなら、“恋人”がいれば最悪の事態は免られる。あなたは“恋人”を不幸に出来る人じゃない、そうでしょ?」
部屋の電気がついた。壁のスイッチに触れたまま、ドミトリは子供が今日学校で習ったことを親に教えるような顔でそこにいた。
「たかだか気が合って付き合っただけの恋人に、あなたは本当に優しくしてくれましたよ」
そこまで言うと、ドミトリは不意に肩を落とした。「まあ、結局はその度合いを俺が見誤って振られたわけなんですけどね。どうにか俺が主導権を握ってあなたを引き戻す前に、あなたは俺を突き放した。ご友人のために。映画みたいですね」
「俺はそういう映画は見ない。空を飛ぶサメも、街を歩くゾンビも出ないような映画はつまらん」
「一夜限りのセックスフレンドは山のようにいるのに、それが恋人になった途端正論を言い出す不可解な男が出る映画は」ドミトリが小さく噴き出した。「俺は嫌いじゃないですけどね」
ケヴィンはもう玄関に向かっていた。長居をしようとすればいくらでも居座れそうだった。ドミトリは何杯でも清潔な水道水を出してくれるだろうし、二人が談笑するのにテーブルセットは必要ない。だから自分で決めて、脱いだ靴をもう一度履かなければならない。
「お前はゾンビが街中に溢れても最後まで生き残るタイプだな、ボス」
「俺の名前はボスじゃありませんよ」
両足に履きなれた仕事用の革靴を履き、玄関の床を叩く。二重になった靴底は微かに金属音を鳴らす。
「ドミトリ」
と、ケヴィンは明瞭な発音で呼んだ。「もう聞き飽きたと思うが、お前はいい男だ」
「知ってます」ドミトリは得意そうにだった。今までにない、邪気のある顔だった。
「バックコーラスもいいが、偶には前に出ろ。次に良い曲が出来上がったら」
ドミトリは首を傾げたが「考えておきます」と言った。「カタギリさんも、ミランとのこと、是非前向きに考えてください。俺と違ってあいつは本気ですから」
「お節介は十分だ」
「お節介ぐらい焼かせてください。元恋人なんですから」
既にドアは半開きだった。冷たい風が吹き込んでくる。それでもドミトリは気にする様子を見せなかった。軽く腕を組んで、非常にリラックスしていた。
「あなたと恋人になったのは手段の一つですが、それでも俺たちは恋人だったんですよ」
「感激だな。一生の思い出にするよ」
「色々と落ち着いたら、また一緒に映画を見ましょう。今度はサメもゾンビも出てこない名作映画を」
「そんな映画あるか?」
「タイタニッ……」
「サメ出るだろ、それ」
ドミトリがパッと顔を顰めた。ケヴィンは手を振って、そして部屋を後にした。別れの挨拶は特になかった。どうせ明日にも会うのだ。その時にまとめて交わせばいい。
エレベーターを使わず階段で下りた。来客用のスペースに停めていたランドクルーザーはエンジンを掛けたままだった。当初の予定からは明らかに長居していた。空はもう藍色だ。取り急ぎ、夕食を買って帰らなければならない。
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