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02:アッチェレランド:だんだん速く
10−03 メトロノーム
しおりを挟む「いやあ、助かりました」
フロアに一箇所はあるリラクゼーションスペースを通り過ぎて、また静かな通路に戻ったところでドミトリが言った。「いつもミヌエットさんに捕まってしまうんですが、今日は最短記録です」
「お前は捕まらないだろ。捕まるとしたら、お前が捕まってやってるだけだ」
「それでよくミランに叱られるんですよね、変な噂が立つって」
「ああ」ケヴィンは首を回した。「あいつが避けそうな相手だな」
「カタギリさんとは正反対の方ですからね、あの方達は。デリカシーがありすぎるというか、ムードがありすぎるというか」
ケヴィンは通ろの壁にかかるポスターを眺めていた。そのうちの一つに、666がこの冬参加する一話完結型のドラマもある。
暗い紫色に落ち窪んだ空を背景に一軒家が黒く聳える丘、その前に不安そうな顔をして座り込む若い男女、地面に膝をついている老紳士、仰向けに倒れる子供、そういったキャストがバラバラに、まるで死体のような不気味さで佇んでいる。
タイトルはわざと歪められた字体で“MONSTER“とあった。Sが左右反転させられている。
「聞いてます?」
「聞いてる。聞いて、六秒待った」
「アンガーマネジメントですか?」
「ああ」
平均的に、怒りの感情は六秒以上持続しない。感情の波は大概この六秒ルールで適応できる。憂鬱や葛藤といった波以外の、沸騰も融解もしない一部の感情を除いて。
ケヴィンはほのぼのとした顔をしている傍の男を見た。
「お前のマネジメント能力をあいつにも分けてやったらどうだ」
「その場合、私はミランから何を貰えるんです?」
「すぐに見返りの話をしないような、あいつの素直さ」
「あはは」
「それと目の焦点かな」
「あは」
通路の角を曲がった。
「それ本気で言ってます?」
角の向こうには誰もいなかった。このフロアにあるスタジオでは既に別グループの撮影中で、しかも何がしかのトラブル中だ。人手はそちらに傾いている。通路を出歩いているスタッフの姿はない。
通路には監視カメラがわかりやすく設置されている。場合によってはこのカメラがバラエティの優秀な撮影スタッフとして、サプライズにかけられる出演者の姿を映すのだろうから、画質は悪くない。
だからこの時のカメラには、ドミトリの目に突然発生した焦点が映っていたことだろう。
「本気」
ケヴィンは歩きながら言った。そもそもどちらも足を止めていない。
間も無く割り当ての楽屋の前だ。
「私が馬鹿な子供みたいによく考えもせず喋るのは、あなたとミランぐらいですよ」
「そこは嘘でもあなただけと言うところじゃないか?」
「だから言ったでしょう、今のわたしは馬鹿な子供です」ドミトリは楽屋のドアノブに手をかけた。まだ回さない。「子供は嘘をつきません」
「そもそも子供は『はい、僕は馬鹿正直でちんちくりんのガキです』なんて言わないだろ」
「ませたガキですねえ」
ドミトリが笑った。綿毛が春風に吹かれて転がるように。「そうだな」ケヴィンはそろそろ口寂しさが耐えきれなくなっていた。今すぐにそれが満たせないなら、いつ満たせるかの約束が欲しかった。
二人はドアの前にいたが、話し声はそう大きくなかった。
そしてドアにあるガラスにはブラインドが下げられたままだ。
ドアノブは微かにぬるくなっていた。ドミトリの指の間から直接その金属に触れたケヴィンの指先にもその温度が伝わる。ドアノブに触れていない部分は、ほとんど同じ体温だ。
体温にしてはやや低い。
「ませたガキなら、こういう時に恋人の週末の予定ぐらい聞いておくものじゃないか?」
ドミトリの目がケヴィンの目を見据えた。視線が重なったのを確かに感じる目の動きがあった。暗すぎる黒目は、ごく近くで目を凝らせば瞳孔を見分けることができる。
「今度は店内でゆっくり食べないか」
ケヴィンは口端の片方を上げた。目の隈と傷が、その笑い方を卑屈そうに見せたが、ドミトリはただきょとんと——そういうふうに見える顔つきをしている。
「アップルパイと、コーヒーを一緒に飲もう。今度は砂糖は要らない、あの日ほど疲れちゃいない——あの日よりもっと楽しい話ができる」
今、ドミトリの視線は釘のようだった。ケヴィンは同じ目をする人間を知っていた。キルヒャーだ。彼女の目とドミトリのこの目は似ている。
物事の優先順位が既に確定しきった人間にしかできない目だ。自分の判断と感性に絶対の自信がある人間にしか出来ない目だ。直視すると目の奥が鈍痛を訴えてくる。それなのに逸らそうとすればいよいよ痛む。
「信じられないか? 俺の言ってることが」
ケヴィンは上げていなかった方の口端も引き上げた。
「信じられない」ドミトリは仄明るい声で言った。「あなたからデートに誘われるなんて」
「日程は合わせる。現地集合で構わない、先に店内で待つ。俺が待ち合わせ場所を間違えたらそれまでだ」
そこまで言うと、ケヴィンはドミトリの手ごとドアノブを握り込んで回した。楽屋の中から光がさす。通路の天井と全く同じ蛍光灯の光がやけに眩しい。
「おかえり」と、室内の椅子に座って資料を読んでいたミランが顔を上げる。「早かったな」
「ああ」
ドミトリがそれに答えた。一瞬の隙も変化もない、いつも通りの声で。
「お嬢様方をカタギリさんが上手くもてなしてくださったからね」
その言葉で、ミランの視線がドミトリからケヴィンが移る。白い目が睨む。
ケヴィンは横目でドミトリを睨む。
ドミトリは笑っていた。いつも通りに。
完璧だ、とケヴィンは思った。自分にもこれが出来たら良いのだが、とも。
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