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01 グリッサンド:流れるように弾く
08−03 三人目の恋人
しおりを挟むイゼットは既に自宅の玄関へ鍵を差し込むところだった。施錠が解かれると、振り向きざま、シャッターを上げていた車庫へ車のキーと連結した小型のリモコンを向ける。
シャッターが自動的に降りていき、この家への入り口となる門が閉ざされる。
静かな夜の庭には無造作に停められた青い車体と薔薇がしぶとく咲く花壇、そしてよくわからない彫刻があるばかりだ。
「まるでシンデレラ城だな」
「それ、僕が結婚したばかりの時も言ってたよ、ケヴィン」
「そうだったか」
「出来の悪いシンデレラ城のミニチュアみたいだって、すごく嫌そうな顔して言っていたじゃないか。二年前のことだから、これも記憶喪失かな、それともただ物覚えが悪くなっただけ?」
「俺の背中に鈍器があるってことを思い出してから、もう一度言ってみろ」
イゼットが声を出して笑いながら玄関を押し開ける。
どこもかしこも白い。壁も床も天井も。あの結婚式で見た純白の花婿と花嫁が、あのタキシードとドレスのまま暮らすための家だ。
二階建ての邸宅はフロスト区の環境柄か、玄関すぐに雪落としができるような広い吹き抜けのエントランスがあった。そして進む先に三段ばかりの降る階段があり、大理石の広いフロアがリビングと客間だ。当然のようにグランドピアノが置かれている。
リビングのさらに奥の壁にまとわりつくように螺旋階段があり、吹き抜けからも見上げることのできる繊細なシャンデリアは、誰より二階に部屋を持つ夫婦たちの目を癒すはずだった。
エントランスの壁には大きな絵画が一枚かけてあった。透き通った朝焼けの海、その岩辺に美しい女性が裸で腰掛けている。体にまとわりついた長い髪や水滴がそれぞれ薄いヴェールのように彼女にドレスを着せているために、裸体だということを感じさせない。或いは淑やかに投げ出した両足の輪郭がわざと曖昧にされているせいで、人魚のように見えるからか。しかしどうでも良いことだった。
「君がこの家に来るのは久しぶりだね」
「だろうな」
「好きなところに座って。おすすめはピアノの前の椅子」」
ケヴィンは背負っていたケースをグランドピアノの奥へ、壁に立てかけるようにした。この家のステージの方があのバーよりよほど高級だろう。それでもイゼットがこの輝かしい大理石のステージで楽器を弾いたことはきっと無い。
ケヴィンはリビングにあるソファに腰掛け、そのままもう一度仰向けになった。
それから、定時報告のことを思い出した。バーに入る時、出た時点でそれぞれ一度連絡を入れているが、まだ解散報告をしていない。じっさい解散をしていないのだから連絡しなくともいいと言えばそれまでだが。
イゼットの家にいると連絡することと、何も連絡しないのとでは、どちらがミラン・アーキテクトを刺激しないだろう。
「ケヴィン」
ポケットから取り出した携帯を、ソファの背もたれを乗り越えて顔を見せたイゼットが攫った。「気分が悪い時に携帯は見ないほうがいい」
いつの間にかイゼットはコートを脱いでいた。その首筋から滑り落ちた髪の毛先がケヴィンの鼻先まで垂れてくる。ダウンライトを浴びて何本かは発光しているようだ。
「お前も俺のママになりたいのか? それともパパ?」
「君はママの言いつけもパパの門限も守らないだろ」
「お前に言われたくない」
イゼットはケヴィンの携帯をテーブルの端へ滑らせた。もう一方の手には水の入ったグラスを握っている。その手は濡れていた。蛇口から今しがた汲んできたのだろう。
ソファはケヴィンが足を投げ出すのに十分だった。だがそこにイゼットが座るとなれば工夫が必要だった。
グラスが仕切りにイゼットの指に吊り下げられ、ゆっくりと輪を描いて底を回している。透明な水が渦を巻いている。
グラスから水を飲むイゼットをケヴィンはただ眺めていた。
やがてイゼットがグラスを片手に顔を近づけてきても、身じろぎもしなかった。
そのまま二人の口が重なった。酒を飲んで若干上がった体温の唇から、驚くほど冷たい水が流れ込む。その瞬間一度だけ喉が鳴る。
「もう一口いる?」
「いい」ケヴィンは濡れた唇を舐めた。「よく、吐いたばかりの野郎とキスできるな」
「フフ」
イゼットはグラスに残った水を干した。今度は自分の喉に流す。「何を今更。拒まなかったくせに」
「疲れてるだけだ……」
目が覚めてまだ三日しか経っていない。そのうちに自称恋人が三人も——しかも全員男だ——現れた。まだ結婚詐欺のキャンペーンなら納得もできたが、詐欺を起こすには全員真っ当な身分を持っている。前科もない。
奇跡的に身体的な後遺症は無いとはいえ、その奇跡は連日の告白に及ぶ告白で台無しだ。
いっそ事故と記憶喪失を契約を切られ、休職でもしたい気分だった。だが顧客がそれを望まない。
ケヴィンからそれを言い出すことは無い。だから第三者からの常識的な判断を期待していたが、どうやら事故で寝ている間に常識人は世界から消えたらしい。
「ケヴィン」
と、イゼットが呼んだ。「顔色が悪い。今は何も考えずに眠って」
ケヴィンは首をソファの背もたれの方へ倒した。この家のソファは驚くほど柔らかく、そしてスプリングがまだしっかりとしている。程よい弾力だ。何もしなくとも、よく眠れるだろう。
「僕たちの関係は、これからゆっくり思い出していけばいい」
イゼットの穏やかな声をケヴィンは左耳のそばに感じた。瞼はもう閉じている。「だから、それを忘れたんだよ」とどうにか怠くなった舌を動かして訴えれば、額に指が当たる。前髪を退けたのだろう、すぐに濡れた感触が左瞼の上にあった…
「忘れてないよ、君は」
断言に近い口ぶりだった。「今は思い出せないだけで、君は覚えている。僕と君が何をしたのか、何をしようとしたのか」
それに返答する気力はもうケヴィンには無かった。頭痛と変わらないほどの眠気が泥のように手足の先から染み込んでくる。
「忘れられるはずもないさ、君が僕のためにしてくれたこと」
既にケヴィンは眠っていた。だがイゼットはケヴィンの顔に自分の顔を寄せて、離れなかった。両目の下にこびりついた煤のような隈。そして左目に走る傷跡。
ケヴィンの事故をあの老執事に伝えれば、おそらく今頃病院にいたのは自分だろう、とイゼットは苦笑した。精悍さだけで説明できた顔立ちは、この数年ですっかりやつれて刺々しい狼のようになってしまった。
「恋人、か」
今度は笑いが音として漏れた。嘲笑するような、自虐するような曖昧で微かな笑い声だった。イゼットは、仮にケヴィンの恋人を名乗る人間が何人現れても驚きはしない。それはケヴィンの、コントール下における奔放な生活を知っているからではない。そもそもそういうケヴィンの礼儀正しい友人らは、決してそんな狂言を宣ったりはしない。
「同情するよ、君の恋人さんには」
それが誰であろうと。
ゆっくりと体を離し、イゼットは二階への階段へ向かった。二階の自室から毛布を持ってこなければならない。それと、友人の着替えも。明日はおそらく仕事だろう。
クローゼットにスーツがあるはずだ。他の誰でもない、ケヴィン・カタギリの仕事着が。
クリーニングを済ませていてよかった、とイゼットは心底そう思った。
まさか血痕の残るシャツでは出勤できないだろう。
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