セーニョまで戻れ

四季山河

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01 グリッサンド:流れるように弾く

07−02 フロスト区

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 前口上も何もなかった。拍手もおじぎもない。本当にただ無名のチェロ弾きのように、イゼットは演奏を始めた。だが誰もが既に静まり返っていた。
 雨だれが地面を打つような短い音の連続からはじまった。
 音は段々と連続する個々のそれから、水滴同士が接触して一つになるように伸びて、なだらかにさらに伸びる。
 透き通るような高音から低音へ水が流れ、やがて地面に吸い込まれて雨が乾く。
 砂を擦るような風が吹き、青々と濡れていた木々の葉が萎れて枯れ、赤茶色にすすけて枝を離れる。それらが地面に落ちる。乾き切って風に砕ける。
 いつしかイゼットの歌声が混じり合っていたことに、それが一体いつからだったのか、正確に答えられるものはいない。いつの間にか歌っていたその声はあまりに自然で、呼吸と共に肺へ流れ込む空気のように耳に入っていた。
 ここは店内だった。夜だ。暖房は効いている。誰もがダウンやジャケットを着ている。
 それでも寒々とした秋空の下で風を浴びているような気分だ。朝焼けの陽がのぼるのを、庭先でじっと待っている。目が乾くような風の中で東を向いている。
 何曲弾いたのかわからない。曲と曲の合間の僅かな沈黙に拍手をしなければならないことを誰もが忘れてぼーっとしていた。
 ケヴィンもまた、こみ上げるような拍手の音にようやく演奏が終わったことを知った。
「ひとつくれよ」
 残り一つになっていたチョコレートを視界の左端から伸びた指が拾い上げる。
 そしてそのままイゼットはナッツ入りのチョコレートを口に放り込んだ。背後から求められ
 た握手に笑顔で応じて、それからケヴィンの横へ座る。
「怒っているのかい、ケヴィン」
「チョコレート一つで怒りはしない。だがそれが最後のチョコレートだったなら話は別だ」
「マスター、さっきのチョコはまだあるかな」
「徳用ですからいくらでも」とバーテンダーは言い、空になった小皿に山へなるほど盛り付けた。
 ケヴィンは皿から漏れたひとつを拾い、キャンディにするような個包装を片手で器用に剥がして口に入れた。
「同じものを僕にも——しかし元気そうじゃないか。轢き逃げに遭ってまだひと月とないのに、どこにも包帯を巻いていない」
 すぐに届けられたグラスをイゼットが受け取る。一口飲んで、甘いな、と呆れたように言った。
「轢き逃げ犯とはいえ法定速度を守るだけの良心はあったってことだ」
「法定速度は守るのに、救助義務を守る良心は無かったようだけどね」
「いずれにせよ思いの外早く出たからな、お前の口座に前払いの何割か戻るだろう」
 氷がグラスの内側とぶつかる音がした。誰のグラスで鳴ったのかは定かでない。
「なんだ」イゼットの声には揺らぎがなかった。「君が僕に会いに来たのは旧交をあたためるためだと思っていたのに、そんな事務的な事情だったなんて」
「通報者はフロスト区の市民だ、お前じゃない。それなのにお前が誰より先に入院費を払った、つまりセントラルの病院の受付で手続きをした。病院に辿り着いた」
「そりゃ、あの事故の直前まで僕と君で食事をしていたからね」
 イゼットはケヴィンがしていたようにチョコを齧り、そしてブランデーを飲んだ。そして横目で笑う。
「君と別れてから間も無く、救急車の音が聞こえた。随分音が近いから出て行ってみると、君らしき人が担ぎ込まれていたから驚いたよ。それで救急隊員に話をしたら、君の家族に連絡をしてほしいと言われた。でも」
 そこまで言うと、イゼットは肩をすくめた。「そんなことをしたら目覚めた君に殺されると思ってね。少なくとも君の状態を確認するまでは僕のところで止めておいた」
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