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01 グリッサンド:流れるように弾く
01−3 天使か悪魔
しおりを挟むそれから医師は引き続きいくつかの質問をケヴィンに投げかけたが、ケヴィンはほとんどの質問に正解した。自分の名前も住所も仕事も、今いる場所、地名、ISCに就職するまで、就職してからの来歴も覚えている。
二十八年にも及ぶ人生の中で、ケヴィンは二十六年間の記憶を保っていた。
ケヴィンが答えられないのは、自分が救急車でこの病院に運ばれる原因となった三日前の事故とそこからおよそ一年半ほど前までの記憶だった。
記憶の境目が分かったのは、すぐそばにいる天使男とは約一年半前から仕事上で密接な面識があるはずであるのに、ケヴィンはそれに思い当たる節が全くなかった。
「記憶喪失ですね」
医師はケヴィンが淡々と答えるのに同調し、あくまで事実を率直に告げた。「事故のショックでしょう。そうでなくとも心身が強烈なストレスを受けて記憶を一時的に塞いでしまうのはよくあることです。カタギリさんの場合は、全身を強く打った物理的な要因によるものと思われます、一時的なものか、今後ずっと記憶が戻らないかはさておき」
「致命的な記憶は失ってない」ケヴィンが端的に付け加えた。
「その通り。今この時点で悲観的になる理由はありません、あくまで医師としては貴方の意識が戻ったことを純粋に喜ぶことができる」
「どうも」
もう一度握手を求めてきた医師に、ケヴィンは呆れつつもまた手を差し出した。
「貴方を轢いた車ですが、まだ捕まっていないようです。警察からは貴方が目を覚ましたら話を聞きたいと言われていますが、どうしますか? 病院としては拒むこともできます、しかしできても数日引き延ばす程度ですが」
「明日にでも話を聞こう」ケヴィンははっきりと言った。「誰よりも俺が話を聞きたい」
「では早々にお出でいただくようにします。その前に精密検査の必要もありますから、今夜はゆっくりとお休みください」
そこでようやくケヴィンは今が夜であることを知った。病室の窓はカーテンが引かれていて、外の様子は見えない。
医師と看護師が病室を出ていくと、病室は静まり返った。
「で、そちらは誰なんだ?」
ケヴィンが首を捻り、終始黙っていた天使男に尋ねた。「俺の家族じゃないし、ここ半年でISCに入社した俺の後輩にしては細すぎる」
「ISCに入るには体重の規定でもあるのか?」
「興奮したシベリアンハスキーと片足で相撲が取れるぐらいの体格は必要だな」
天使男は初めてそこで微笑みのようなものを浮かべた。ごくわずかな口元だけの動きだったが。
「ミラン」
と天使男は名乗った。「ミラン・アーキテクト。あなたの契約相手だ」
契約、とぼんやりした頭でケヴィンが復唱する。ミランははじめ座っていた椅子にもう一度腰掛けた。細いスチールの骨組みでできた椅子が甲高く軋む。
「俺の護衛相手か」
「そういうことになる」
「顧客がなんで病室にいる? 俺は寝言で秘密情報でも漏らしたか?」
こういう場合に病室にいるべきは家族か恋人だろう。しかしケヴィンの両親と兄弟は遠方に暮らしているし、車に轢かれたからと言って命に別状がないと分かっていればわざわざ足を運ばないだろう。ケヴィンとて逆の立場ならそうした。それほどまでに離れているし、カタギリに医者は一人もいない。
「あなたが車に轢かれたんだ、俺が病室にいるのは当然だろう」
ミランが膝に頬杖をついた。白鳥の羽のような髪の毛先が顔の輪郭にかかる。モデルか俳優だな、とケヴィンは当たりをつけた。スリーシックスという名前が何を指すのかは分からないが、医師の話だとそれなりに有名どころであることは明白だった。
「お前が俺を轢いたとかいうオチか?」
「違う」ミランが切って捨てた。「もう一つの可能性の方だ」
「冗談はよせ」
「冗談? 今何時だと思ってる、もう零時を回った。こんな時間に病室にいるのが、それが許されるのが患者のどういう相手かは分かるはずだ」
「若い頃は誰でも夜更かしぐらいする」
「カタギリ」
聞き分けのない子供を叱るような口調だった。しかも理知的に、絶対的な正しさをもって解答を教える者の声。
天使のような男はそのまま悪魔のようなことを言った。
「あなたと俺は恋人同士なんだ」
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