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01 zuruckhalten(ツリュックハルテン):抑制して弾く
03-01 首輪
しおりを挟む海狼通商の本拠地は北海に浮かぶ鈍色の円環だ。
大まかに三層の円環上に湾曲する各階層が海中から海上にいたるまで折り重なり、連結し、周囲を取り巻く複雑な海流と頭上を行き来する太陽に合わせて自律航行している。
狼をその名に冠してはいるが、その本部の様相は海にとぐろを巻く銀の大蛇に見える。
そしてその大蛇の腹の中で、ある二人の男は一枚の絵画の前に立ち尽くしていた。
時刻はまさに正午だった。コアタイムなしのフレックス制を導入している海狼通商には決まった休憩時間や出退勤時刻はないが、おおよそ本社内勤の半数以上の社員は昼休憩に出かけている。
だが、休憩時間であろうとなかろうと、セレモニーホールは常に閑散としている。
創立記念日など特別な催事を除き、その広い一間に二人もいれば盛況といえる。
「海狼通商の成り立ちについては、入社後の共通研修で一通り聞かされただろう」
頭上三十メートルの海面から差し込む陽ざしは水と共にゆらめき、セレモニーホール全体に複雑怪奇な光の線を描いている。
壁の外が海中であることに、ズィズィ・カシクはまだ慣れていなかった。だが隣に立っているサミュエル・ハーバーはもはやそのことを日常として久しい。
ゆえに彼はのんびりとスラックスのポケットに両手を突っ込んだまま、眼前の壁にかけられた古い絵画を見上げている。
「前身となった”海洋商業連合”の解散命令を受けて組織された後継組織だと……」
「そう」サミュエルの表情はズィズィから見える右半分だけで他社に安心感を与えた。「当時このあたりの海域は、自然の海流と非国籍の海賊による密漁や強奪で荒廃していた。それに危機感を覚えた有志が連合を結成し、海賊を一掃した。だが武力を武力で制圧するその手法と、高まりすぎたその影響力を危惧した世界政府によって連合は解散を余儀なくされた。
連合のメンバーの多くは政府傘下へ与するか、あるいは表舞台から姿を消した。だがそのうちの四人が残り、海狼通商を立ち上げた」
サミュエルがポケットから両手を抜き取り、右手のひらで絵画を示した。ズィズィもその絵画を改めて見つめた。
時間の経過を感じさせるその絵画は、全体が砂を浴びたように黄色く煤けていた。だがそれは水光を浴びればこそ、黄金の光を反射した。
絵画には四人の男が描かれている。画家をわざわざ呼んで描かせたのだろうに、誰も彼もが無造作な立ち姿で、一人は完全に両目を閉じていた。
そしてその目を伏せた一番右端の男こそ、サミュエルが特に示したかった人物のようだ。
彼は他三人と明らかに骨格が違った。黒く長い髪を雑に結わえ、前を大きく開いた白と黒の着物の着こなしと言えば明らかに傾奇者のそれだ。目を閉じているのも微笑ましい偶然というより、頑なな意志を込めて瞼を閉ざしているのだと分かるのは、真一文字に結ばれた口元もまた頑なだからだ。
「海狼通商を創設した四人、そのうちの一人が彼だ。名前はギジョー・カタギリ」
サミュエルがそう呼んだその名は絵画のそばに文字として記されていた。
”海狼通商発足の日に描かれた創設者の集合画。左から____……片桐義浄”。
ズィズィはすぐにサミュエルが言わんとするところを察した。何故”片桐義浄”ではなくわざわざ”ギジョー・カタギリ”と呼んだか、その理由も。
カタギリという名を聞いたとき、今日の海狼通商社員が真っ先に思い浮かべるのはこの偉大な創設者ではない。
「その通り」
サミュエルは無言のうちにズィズィの考えを聞き取ったようだ。
「品質管理課のヒース・カタギリ主任は、片桐義浄の曾孫にあたる人物だ」
そしてサミュエルはゆったりとした口調で続けた。「まあ、だからなんだという話なんだがね。彼自身、海狼通商が設立したとき遺伝子レベルで存在していない自分と曾祖父を紐づけられるのは心外だそうだし__彼と同期入社の僕が断言するが、彼が海狼通商へ入社するにあたって、入社試験のスコアにおまけなんてする余地は無かった」
彼は一貫していつもどおりリラックスした様子だったが、ズィズィが数えている限り、サミュエルは乱れようのないその短い金髪をこの一時間でもう五回も撫でつけている。今このときを含めれば、この無意味なジェスチャーは六回目だ。
サミュエルのこの態度は、同期入社した同僚に会う前の振る舞いにしては異常だ。
ズィズィはそれを言葉にしなかったが、サミュエルはそれさえも聞き取ってみせたのか、あるいは端から隠す気も無かったのか、苦笑した。
「僕が緊張しているのが不思議だろうね」
「え、えっと、いえ……いえ、はい……」
「君は素直で、そして真面目だ」サミュエルは深呼吸をした。「入社して何ヶ月になる? まだ一年も経っていないのが信じられないよ、総務課の主任になってからなにかと新入社員と接する機会が増えたが、君ほど信頼に値する社員はいない」
「そんな……僕はただ、ええと……」
「いいんだ、こういう状況も偶には必要だよ」
サミュエルは創設者たちの絵画から視線を外し、ゆっくりと壁の方へ歩いてゆく。全面強化ガラス張りの壁から上を仰げば、青々と輝く水面が天窓のように覆い、その高みを小魚の群れが逆光を帯びて通り過ぎてゆく。
「創設者の孫だからという理由だったらまだよかったんだがね、この緊張が」
「えっと」ズィズィは腕に抱えた端末や資料に視線を落とした。「その……ハーバー主任は__あっ、すみません、サミュエル主任は、その……」
「うん」
「あの、なんというか……カタギリ主任が、その、こう……苦手、なんでしょうか?」
「そうだね」
「うわあ」
「うわあ!」サミュエルがコミカルに噴き出した。「うわあ、って言う人いるんだな。本当に」
「すっ……すみません、つい……あっ、あのついというのは本当につい、本当につい言ってしまっただけで、あの、人のお付き合いには苦手とか、そ、そういうのは当然あると思うので、はい」
「君といると本当に心が安らぐよ。何を食べさせてどう育てたら君のような子になるんだろう? 君の養育過程の影響因子を再現して、研修プログラムに組み込んでみたいね。手ごろな問題児がいればいいんだが」
「ええ、え……?」
「すまない、脱線させたよ」
サミュエルはいつもの笑顔に戻った。「まあ、カタギリ主任のことが苦手って言うのは、イコール嫌いというわけじゃないんだ。寧ろ僕は彼のことを気の置けない同僚だと思っているんだが……」
ふいに言葉が途切れる。
サミュエルは笑顔のままだ。まるでシャッターを押されて切り取られた一瞬のように、優し気な新婚の男のイメージとして完璧だった。
だがその完璧の中で、パステルブルーの目の動きは余りに機械的だった。
そこに男がいた。
サミュエルの視線の先に、黒い上着を肩に羽織ったスーツの男が佇んでいた。セレモニーホールの両壁ぎわに並べられたテーブルのセットのうち、入り口にほど近いテーブルの天板に浅く腰かけている。
男は一部の乱れも隙も無くスリーピースのスーツを着込み、そしてその上に上質なレザーの上着を羽織っていた。八頭身の長身はテーブルすら椅子としては低いらしく、床に向かって投げだした足を軽く交差し、その先端には継ぎ目のないショートブーツを履いている。
ブーツは革製で硬質な靴底を備えており、間違ってもゴム製ではない。
だというのに、この男が一体いつセレモニーホールに足を踏み入れたのか、サミュエルもズィズィも分からなかった。式典にも用いられるホールの床材は靴音を際立たせるというのに__まさかこの男は裸足で入ってきたのだろうか?
しかしだとすると、この男がわざわざ靴を脱いでこそこそ入ってきて、話をしている二人の視界を避けつつまた靴を履き直したということになる。
そして周囲に溶け込まない黒の背広を着た長身の男がそんなことをしているのに、二人はまったく気づかなかったということになる。
「どうした? 続けてくれ」
優雅な声だった。あらゆる場所において場違いなほど。
エメラルドブルーのサングラスによって目元は見えないが、声はいたって優雅で、突然の事態に対して緊張感を抱くことを早々許さなかった。
「何処まで話したか忘れてしまったか? サミュエル、君の話が途中だった。”まあ、カタギリ主任のことが苦手って言うのは、イコール嫌いというわけじゃないんだ。寧ろ僕は彼のことを気の置けない同僚だと思っているんだが”____の後からだ」
さあ、と男が促す。だがサミュエルは笑顔で、そして目玉だけ限界まで片方へ寄ったまま微動だにしない。
セレモニーホールの入り口から奥へ向かって、謎の男とサミュエルがいて、ズィズィはその間に立っていた。
仔細の詳細を受けるまでも無く、もうズィズィは理解していた。前触れも無く、まるで超自然現象の如く現れた男がヒース・カタギリであること、そして、サミュエル・ハーバーが、総務課の主任として多くの社員に慕われ、そして誰に対してもフラットな好意を抱くあのサミュエル・ハーバーが何故彼を苦手としているのか。
「久しぶりだな、サミュエル」
ヒース・カタギリはもはや話の続きを促さなかった。「それから結婚おめでとう。式に招待してもらったというのに、列席できずすまなかった。略式で祝いの品と手紙だけ送らせてもらったが、次また君を祝う栄誉を私にくれるなら、その時はきっと直接言葉で伝えさせてくれ」
「ああ、本当に久しぶりだ、カタギリ主任」サミュエルは型取ったような逆三角形の口を開閉した。「そして祝いの品をどうもありがとう。おかげで僕の新婚生活は初日にして崩壊しかけたが、幸いにして今朝も妻と同じベッドで目覚めたよ」
「それはよかった。夫婦というのは試練を共に乗り越える同胞だ。試練を乗り越えるたびに君たちの結束は益々深まってゆくだろう」
「そしていずれは君のいる魔王城へ辿り着くというわけか。腕が鳴るね」
「どういうわけか私は、悪の組織の幹部だとか、魔王とかいう役を回されがちだな」
「君は僕が分厚く綴ったぼうけんのしょで火を起こし、バーベキューをやるんだろ?」
「どうかな」ヒースは首を傾げた。顔の角度が変わり、サングラスの縁から彼本来の瞳が一瞬見えた。「私が君に対してどう振舞うかは、君が私に対してどう振舞うかで決まる」
サミュエルがついに笑うことを止めた。そして半目で白い視線を同期へ送る。
ヒースはその視線を右手で掴み、テーブルに乗せていた腰を浮かせて近づいてきた。
「____ヒース?」
サミュエルが訝し気に呼んだ。
だがサミュエルが差し出しかけた右手はまだヒースの右手を握っていない。ヒースはもうサミュエルと一メートルもない距離まで近づき、彼もまた右手を懐から抜き取りかけていた。
あとはただ握手を交わして再会を喜ぶだけだった。
だがヒースは右手を中途に浮かせたまま、足を止めていた。
それはズィズィの目の前で起きたことだった。
そしてズィズィは、寸分のずれもなく目の前に横向きになったヒースを見ていた。やや見上げるようにしてその横顔を、サミュエルへ向かって進むヒースを垂直に横から見ていた。
だからズィズィには、ヒースの氷色の目が何に遮られることなく見えた。
その氷色の目を自分が見るより先に、向こうが自分を見ていたことに、ズィズィはようやく気付いた。
「失礼」
ひょいとヒースは差し出しかけた右手を掲げ、そしてきっかり45度体を回転させた。無論その先にいるのはズィズィだ。
「えっ?」
ズィズィは思わず素っ頓狂な声をあげた。まさか、と思った時には黒い手袋に覆われた大きな掌が差し出されていた。
「初めまして」ヒースはにこやかに告げた。「品質管理課で主任をしているヒース・カタギリだ。サミュエルから噂は聞いている、君に会えて嬉しいよ」
「え……ええっと……」
ズィズィはサミュエルを横目で伺った。サミュエルは奇妙なものを見るような目を同期に向けていたが、ズィズィの困り顔に気づくとウインクをした。
「あの、その、こちらこそお会い出来て光栄で……あっ、僕はズィズィ・カシクです」
「出身はザハドかな?」
「はい」ズィズィは握られた自分の手に汗が浮いていないかそればかり心配だった。「カタギリ主任は、その、シルヴェストスがご出身だと、そうお伺いしています」
「ああ。しかし潮騒から即興で作曲するような才能は私に無いんだ」
シルヴェストスと言えば世界でも有数の芸術大国だ。特に音楽はその最たるもので、国家事業として聖歌隊と呼ばれる複合楽団が組織されている。さらにシルヴェストスにはいわゆる学校が一つしか存在せず、アカデミーと名のついたその教育機関で全国民が必ず音楽に触れることになる。
その誇るべき国民性をヒースはあっさりと片づけた。そしてズィズィにもう一度微笑みかけ、手を離した。
「さあ、待たせたなサミュエル。握手でいいか? それともハグをしようか?」
「待て待て、君が僕に冗談でもハグしようものなら僕はミンチになってしまう」
「どうしてそんなに私を怖がる」
ヒースは穏やかにサミュエルと握手を交わした。「大袈裟なほどのジェスチャー、警告。私が恐ろしい人間であると、カシク君に印象付けようとするのに躍起だ__いいや、むしろ私への警告か」
ヒースとサミュエルの握手はあっという間だった。二人が気心の知れた同僚で、同期であるなら数か月ぶりの再会を祝う握手はもっと長く続くべきだった。
サミュエルは溜息をついた。聞こえるようなわざとらしいそれはヒースに対するというよりもズィズィに対するジェスチャーだろう。問題ない、安心しろというジェスチャー。実際、ただ二人のやりとりを見守っているズィズィの顎からまだ一滴も冷や汗が垂れていないのは、サミュエルが冷静さを保っているからだ。
「カタギリ主任、悪いが仕事の話がある」
「勿論聞こう、ハーバー主任」
サミュエルは片方の眉をひくつかせたが、話をつづけた。
「僕がこれから君に話す内容について心当たりがあるようだ」
「心当たりはあるが、言い当てたくはないな」
ヒースは踵を返し、先ほどまで腰かけていたテーブルへ戻った。そしてテーブルを囲む四脚の椅子の内、ひとつを音も無く引いた。
引いた椅子の座面には有名なコーヒーチェーン店の紙袋が乗っていた。そして驚愕すべきことに、その中からヒースは三人分のテイクアウトコーヒーを取り出した。
二人分でも四人分でもない、三人分のコーヒー。
元よりこの場所でヒース・カタギリと会うつもりなど、サミュエルにもズィズィにもなかった。彼らはこのセレモニーホールを通って本社最上階のヘリポートでヒース・カタギリと対面する予定だった。
しかもそれは二十分後であるはずだった。
「座って話そう。私の予想通りなら長い話になる」
ヒースの振る舞いは一貫して穏やかで、優雅で、そして優しかった。
だがズィズィは横目でサミュエルの様子を伺うのにここ一番の慎重さを己に課した。サミュエルのこめかみに浮かんだ青い筋から、ズィズィは目を反らした。
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