椿落ちる頃

四季山河

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第三章 策は交錯し、思惑は錯綜する

20-2 余塵は絶えず降り積もり

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 塵何はうっとりと瞳を閉じた。まるで今日この日を形作る空気、温度、その全てを味わうように深く息を吸い、そっと吐く。

「あなたは名代の心を奪い、名代の心にひとつの楔を打ち込んでくれた。そうしてこの日、あなたたちは名実ともに結ばれ、婚儀という契りを交わした」
「あなたの喜びは名代の喜び。あなたの悲しみは名代の悲しみ」
「そしてあなたの傷は、名代の傷」

 塵何の瞼が開く。
 白綺は息を呑んだ。伏し目がちになった黒く透き通った塵何の目。
 刃物で裂いたような細めから噴き出したあまりの恍惚さ、色気、歓喜。
 それは容易く、ひとりの武者を威圧し、黙らせた。

「あなたを痛めつけ、殺す。そうすれば、あの強く、寛大なお方はどれだけ傷つくことでしょう?」
「じん、か……」
「夢境を悟り、冒しがたい深淵に座すあの方を、こんなに簡単に傷つけることが出来る。流れる血の熱と匂いは、きっとあの方の最奥に秘められたかつての魂を呼び起こす」
「ッ__塵何殿!!」

 その声を聞いているだけで酩酊しそうになる。酒の匂いのように頭へ染みこもうとするそれを、白綺の叫びが遮った。
 白綺は改めて弓の狙いを定めた。塵何の脳天へ。

「春絶殿を慕っていると言っただろう! 彼を敬愛していると! 
 だというのに、何故嬉々として彼を傷つけようとする!! 私が憎いと、それ故ならば__それだけならよかったのに、事もあろうに、春絶殿を傷つける為だと? 
 貴様の言っていることは支離滅裂だ!!」

 白綺の怒号にも近い糾弾に対し、塵何は眉を片方浮かべた。心地よく語っていた演説を遮られた不快感を隠しもせず、そして白綺に対する呆れを、侮蔑を隠そうともしない。 

 侮蔑。軽蔑。

 塵何の目はもはやそれを隠そうともしなかった。

「私の話、聞いてました? 名代を傷つけるのは手段であって目的ではありません。私の目的は、名代がかつて最盛の頃のように猛々しく、そして未来永劫、我が頂に君臨されること」
「春絶殿は今も正しく神の座にある、その何が不満だというのだ!」
「不満だらけですよ」

 不意に。
 塵何の声が低くなる。
 思いがけず藪の中から蛇が首をもたげ、舌を伸ばし牙を剥く。
 白く陶器のような塵何の肌にもまた、細い蛇がうねりながら皮膚を内側から盛り上げた。

「名代は確かに神の座におられる。ですが今のあの方は、あまりに__あんまりに鈍ってしまった。年月が、情が、あの方に縋る弱者どもが、あの方をあんなに弱くしてしまった……」

 名代、とか細い声が呼ぶ。
 まるで初恋を覚えたばかりの少女が、夜に思い人の名を囁くように。

「夢境の力は、あの方の真髄は、さもない罪人どもを囲うためになど費やされるべきではない。あの方の力は、正しく使われるべきだ。真神として、地罰神として、あの方の全ては、轟雷が如く下される沙汰にこそ注がれなくてはなりません」

 罪を憎み、悪を恨み。
 恩讐滾るまま、火を吐くように爪を振るう。
 善を尊び、正を望み。
 愛欲湧くまま、波を立てるように牙を剥く。

「この百余年、あの方がいじらしくもその身の内に押し込め、押し殺した本来の御姿こそが、あの方の真髄」

 祈りではない。赦しではない。
 罰こそが本質。そして罰とは力。
 尊きもの、大いなるもの、その全てに罪あれば貫き、引き裂く爪と牙。

 しかし神は、その爪と牙を夢の狭間に仕舞いこみ、瞑想によって深くへ沈めた。自ら爪と牙を折り、砕いて、ついには心すら、長く過酷な贖いの旅を歩く罪人へ分け与えてしまう。
 
 冒しがたく崇高な存在だ、神というのは。
 捕えがたく自由な存在だ、獣というのは。
 
「永久に君臨していてほしいのです。あの方こそ獣の大君なれば。脆弱な人間のように、下らぬ情や年月になど冒されて欲しくはない」

 故に、一度、神を壊さねばなならぬ。疲弊しきったその身を癒さねばならぬ。
 強欲にも神に縋り、彼の血肉を啜る強欲な善人ども、情や月日、友誼などという善意の皮を被った肉袋どもを彼の体から削ぎ落さなければならぬ。

 と、そう願っていても、そうとは分かっていても。
 弱ったとて神は神。目的こそあれ、彼を傷つける手段を誰も持たなかった。

 昨日までは。

「あなたが名代の心を奪ってくれて本当にうれしい」
「あなたが名代の心を縛ってくれて本当にうれしい」
「空に絵を描くように夢境を築き、夢現を自在に操る彼の神を、あなたという存在が形作る。愛情などという矮小な楔が、神を縛る」

 これで勝率は上がる。神という途方もない存在に対し、勝機が生まれる。
 今の神には、此処を狙えとばかりに弱点がある。
 あまりにたやすく射貫き、貫き、潰すことのできる急所が晒されている。

「き____さま、」

 白綺はもはや頭で何かを考えることなど出来なかった。石のように硬くなった両手は今も弓を構え、矢を番えている。

「貴様」

 滔々と語られた言葉は詩のように耳へ滑り込み、しかし理解など出来るはずも無く。

「貴様、貴様……」

 ただ空になった頭には、滾々と湧き上がるものがある。床を踏む両足から湧き上がり、沸騰して喉を逆流し、脳天まで込みあがる。

 不快。

 不快だ。
 言われた言葉の全てが。聞かされた考えの全てが。
 思考や心が自由と知っていてなお、白綺の思考と心はそれらすべてに唾を吐き捨てるほどの不快感を覚えていた。

 塵何の来歴など知らない。彼の背景や事情に精通しているわけでもない。やんごとなき何かが彼を突き動かしているのやも知れない。

 だが、白綺もまた突き動かされた。
 この百余年。白綺が知らない、知らないからこそけして軽んじることのできないあまりに長い時間。
 春絶がきっと葛藤と思索を重ねたそれを軽んじ。
 昔の方がよかった、などという、その身勝手さに。

 そして、春絶の弱みと見なされた自分自身に。
 
「貴、____ッ様ァ!!!」

 もはや怒号がそれを形作ったのか、矢がその形を取ったのか定かでない。
 ただ白綺が引き絞った弦から指を離した途端、彼らのいた社は内側から粉々に砕け散った。

 暴風が吹き荒れ、それは繭のように塵何と白綺を包んで球体を取った。白綺に向かって伸びていた赤い糸がブチブチと音を立てて引き千切れる。

「あはは!」塵何が天狗風のなか、髪を乱しながら手を叩いて笑う。「お上手! お上手!」

 白綺は何も言わず風を蹴って飛び上がった。暴風の繭は常に収縮し、中にあるものを摺りつぶさんとしているが、同時に塵何が展開した糸が一回り小さく編み上げた繭がそれを妨げる。
 四方八方から針のような鋭さで飛び掛かる糸を拳や弓の骨で打ち払い、宙に浮いている塵何へ肉薄。
 すかさず塵何が手を振ると、そのほっそりとした指を覆うように赤い糸が集い、巨大な鉤爪が口を開ける。

「小細工を!」

 だが白綺はその爪を躱すばかりか、うち一本を掴んでぐんと自分の身を投げた。赤々とした手の甲の上を飛び越え、上下がさかさまになった態勢で矢を放つ。

 至近距離の発射。しかしその矢を塵何は首の捻りだけで躱す。

「チッ」
「よく狙いなさいな__止まっておいてあげましょうか? いつかのように」
「黙れ!」

 立て続けに矢を放つが、どれも塵何はひらひらと躱す。
 そうして矢は塵何の体を擦り抜け__不意にぐるりと反転する。

 塵何の横で、突如糸で編まれた鉤爪が弾けた。

「? はて____」

 反射的に振り返った塵何の目に移ったのは、躱したはずの矢の群れだ。再び塵何はそれを躱すが、矢もまた塵何を擦り抜けると、暴風の壁まで飛び、そうして風によって再び番得られ、ぐるぐると繭の間を飛び上がり、あらぬ方向から射出される。

 もはや風の繭は風だけのものではなかった。神通力を纏った矢が風に乗って高速で行き交い、外から内から糸を食いちぎる。
 それは弓手が何人もいて、それぞれがそれぞれに放った矢を受け取っては放ち、また受け取っては放つということをしているようなものだ。

「まあ、まあ」

 塵何はいつしか繭の中央へ追いやられる。矢を捕らえ、へし折ろうと糸を伸ばしても、伸ばした先から別の矢が糸を断ち切る。
 矢影に紛れ、白綺も姿を消している。天狗の血と大宰府での鍛錬がもたらした技だ。飛び交う矢の一本一本に宿った力は、もはや人の気配と同じほど濃い。ましてやこういった、殺気で展開を読みあう場で両者の違いをとっさに悟るは至難の業となる。

「天狗とは、カラスとは。いつの時代も小賢しいこと……」

 そんなことをぼやきつつ、塵何は髪を抑え__ふと。
 塵何は気づいた。

 暴風に靡く、己の肩に帯びた黒い羽織。
 その羽織の裾が、ほんの少しだけ。
 風によってか、矢によってかついたのだろう、ほんの少しだけ。

 ほんの小さく、千切れてほつれているのを。
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