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第三章 策は交錯し、思惑は錯綜する
19-2 春夏秋冬の友
しおりを挟むそういえばあの二人はどちらが勝っただろうか。どちらと手合わせできるだろうか、とひそかに待ち侘びて気がそぞろになっていたせいか。
白綺は、隣に座った冬染がこちらをじっと見つめていることに気づくのが遅れた。
「冬染殿、なにか」
「ん? いやなに、好い男だと思ってな。見惚れていた」
「……揶揄わないでください。それに、定めた相手のある者にそのような言動はいただけません」
「ちょっと褒めただけじゃあないか。それだけ可愛げのある顔で山暮らしなんて勿体無い。太宰府はしばらく涙の雨が続くだろうな」
「あやつらのはただの演技です、そもそも私は修練の為太宰府へ出向いたのであって、」
「なあ今夜にでも僕と三条へ出かけてみないか。なにほんの少し羽目を外すだけだ、春絶だって大目に見てくれる」
「い、き、ま、せ、ん」
「お堅いねえ」
冬染は手杯で酒を飲んだ。「これでも親切心から言っているんだぜ。あの春絶が番を持つとは__って、もう聞き飽きたか? しかしこれが言い足りないぐらいのことなのさ。百年以上碌に誰とも連れ合わずに、山に引き籠って、それだけじゃ飽き足らず、朝と夕も知らず夢境に耽って……」
今のあいつは百年の夢から覚めたようなものだ、と呟くそうなその声からはかぐわしい酒の香りがした。
「___夢や夢、現や夢とわかぬかな。いかなる世にか、さめむとすらむ……」
空気に染みこむような冬染の声が読み上げる。
うららかな陽ざしが差し込み、冬染の伏し目がちになった目元や鼻筋に影がさす。
まるで葉が翻るように軽妙な雰囲気から一転したその様子に、白綺はただ黙っていた。だが葉はすぐにまた鮮やかな色に翻った。冬染はけろっとして笑いかける。
「この句、聞いたことあるかい? 詠み人はたしか、平安の歌人だったとか聞くがね」
「いいえ、生憎生前から今まで詩歌には疎く。寡聞にして存じ上げません」
「まあ、僕もこの句のら来歴だの小難しいことは知らん。でもこの句を覚えちまったのは、僕がまだ小さい頃から、折に触れては春絶が詠んでいたからさ」
「……春絶殿が」
”夢や夢、現や夢とわかぬかな。いかなる世にか、さめむとすらむ。”
____夢は夢だ、ではこの現は本当に現か? この目に映る現すら夢ではないのか。この眼前に広がる現実が夢でないなど何故言える。
____だとすればこの夢は、いったいいつ終わるのだろう。
____この夢が醒めたとき、私は何処にある?
詩歌に造詣がないとて、聞けば言葉として意味は分かる。
意味は分かる、が。
白綺の内心をまるで読み取ったように、冬染はゆっくりと頷いた。新たに杯に酒を注ぎながら、白綺に膝を崩すよう勧めながら。
「肉体があり、血が流れ、息をする。ただそれだけで現実だろうと言ってしまえばその通りだ。だが神として長く生きてきたことで、長い間ずうっと考えすぎて、ただ生きることに精一杯でいりゃ良かったころのようにはいられなくなったんだろう。
ましてや真神は地罰神だ。裁いた罪の数だけ、その罪人の愛憎を見聞し、背負うことになる。浅はかな奴らからすれば、神すら裁くことのできる権能に涎を垂らすだろうが、力には責任が伴うものだ。そしてその責任を放棄すれば、己が裁いてきたように、己もまた裁かれる」
「春絶殿は、よく仰っております。心は自由に、と」
白綺が囁くように言った。「初めてその言葉を聞き、同じ心地を味わった時、私は自由とはかくも物悲しく寂しいものなのかと、そう思いました。自由とは己の心ひとつに身をゆだね、己一人で全ての責を負う。故に自由とは、何からも許されるということではなく、何者からも許されぬということだと」
「あいつが言いそうなことだなあ」冬染はのんびりとそう言い、自分が持った杯を干す。そうして別の杯に酒を注ぐと、それを白綺へ差し出した。
白綺は差し出された杯を受け取り、それを舐めるように少しだけ飲んだ。きりりとした驚くほど辛口の酒だった。
口を閉ざし、躊躇って。けれども白綺は口を開いた。
「真神として在るために、公平であるために、自由でいなければならない。何にも、己の心にすら囚われず__けれどもそんな考えは、例えこの世が夢であったとて、私には持てぬ考えです」
白綺はついに、杯に残っていた酒をぐっと飲み干した。舌にまとわりつくこともなく、酒は氷水のように喉へ鋭く流れ込み、腹の底で爆ぜるようにかっと熱を帯びた。
「春絶殿の矜持を否定する気はありません。けれども、私にはどうしても、あの方の在り様がひどく寂し気に見えて仕方ないのです。この世が夢現のいずれだろうと私は構いません、そんなことよりも、私にとってはあの人が夢のように、いつかふっと消えてしまうような気がしてしまう。きっと春絶殿は、ご自分にすら執着しないから……」
「______は」
「あの人は、情け深い方です。私があの人にとって何処にでもいる神使でしかなかった頃からずっと、春絶殿は親切でした。きっと私でない他の神使だったとしても、春絶殿は振る舞いを変えなかったでしょう。執着を知らぬから、あの人は惜しみなく情けを与えるのです。それは春絶殿にとって、なんでもないことなのですから」
「_____は、はは、は……」
「冬染殿?」
ふいに笑い始めた冬染に、白綺が訝しむ。ましてやこのときの冬染の笑い方といえば、面白可笑しくて、というものでもなく、失笑や苦笑といったものでもない。
ただただ、笑うほかどうしろというのだ、と言わんばかりの、過ぎた驚きや衝撃を誤魔化すためだけの、感情の伴わない笑いだった。
呆然とした顔でからがらしくはりぼての笑いを零す冬染に、白綺はぎょっとして思わず杯を縁側に置いて距離を取った。
構える白綺の前で、冬染は空の手を不意に上へと振り上げた。
すわ、といよいよ構えを深くした白綺の前で、しかし冬染の手が叩いたのは他ならぬ冬染自身の頭だった。
「は、は____はっはっは! いやはや、いやはやこれはとんだ猛者だ!」
「……へ?」
「先輩風を吹かせようとしたらとんでもない嵐に見舞われたものだ! いやいや、僕としたことが、こうまで見事にしっぺ返しを食らうとは。なるほどこいつは天神のお目がねに叶うだけある!」
「あ、ありがとう、ございます……?」
「ここまで来ると悔しいって気持ちすら湧いてこねえな! なるほど、道理で僕の角になにも響いてこないわけだ」
「は、はあ」
何かひどく気に障ったようで、しかし気に障られすぎて、全身を無茶苦茶にくすぐられたように笑い続ける冬染に白綺はただただ瞠目するほかない。
冬染はそれからもしばらく笑い、そうして笑って乾いた喉を酒で(こんどは杯に注ぐことも無く酒瓶へ直に口をつけ)潤した。そうしてようやくひと心地着いたようだ。
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