椿落ちる頃

四季山河

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第二章 神はいずこ

17-3 神はゆめゆめ

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 ふっと白綺の頭に冷たい理性の水が差す。あれ、無いのでは、と。

 少し落ち着いて考えてみればわかることだ。春絶は獣にして悟りの境地に至っている。先代を討ったとて、今なお春絶が真神の席についているのはその実績を天が認めているからだろう。
 力や欲に溺れず、眩まない精神性ゆえに地罰神の権能は彼の手にある。
 だとすればそんな彼に、煩悩、もとい____肉欲など無いのでは。

 真神という高い位について百余年。少なくとも白綺の聞いた限り春絶に浮ついた話は皆無だ。彼を慕う山中の獣たちですら、春絶に寄せるのは恋慕ではなく信仰と信頼だ。

 獣たちですら純粋な信頼を寄せるというのに、自分ときたら。白綺は自分が春絶に寄せる混沌とした感情に居たたまれなくなる。
 なんだなんだ、要らぬ心配、捕らぬ狸の皮算用ではないか。などとわざとらしく心中でぶつくさ言いながら腰を上げ、目の前でこれでもかと仲睦まじくくっつけられている布団を離そうと腕を伸ばす。

 そうして布団の端を掴んだ時、また白綺の頭にふっと水が差す。
 今度は甘ったるくぬるい水が。

 ____しかし、春絶は獣ではないか、と。
 
 悟りを開いたとて、春絶はその生まれからして獣だ。
 先代の真神に神力を与えられ、人の姿をとるようになって長い。だが今なお耳は狼のそれだし、尾も生えている。
 真神という存在そのものが、その始祖たる真神原の老大狼に明らかなことには、獣だ。
 ならば真神も、春絶という存在も、いずれにしてもその根幹は獣だ。

 地を駆け、肉を食らい、月に吠え、そして番い、群れを成す。
 繁殖し、次世代に種を残す。そうして存続する。
 その刻まれた本能が春絶に無いと言うのか?

 春絶はこうして今、白綺という番を求めたというのに。

「白綺」
「____ぁ、っ」

 いつのまにか遠くから聞こえていた足音は無く。
 背後から呼ぶその声に、白綺はその場に膝から崩れた。布団を離そうとしてその端を握ったまま、ちょうど二つ寄せられたそれらの中央に膝からぺたんと座り込んだ。 

「白綺、どうした」

 ぎっ、と板張りの床が軋む。春絶が部屋の中へ踏み入れたのだと分かる。部屋に入った途端、目の前で膝から崩れ落ちる白綺を見たせいか、その声には怪訝そうな、そしてどこか急いたような色があった。
 だが当の白綺は布団の上に座り込み、力なく項垂れたまま動けなかった。どっ、どっ、と自分の胸が重苦しく振動しているのを肌で感じる。むしろ全身が心臓になったかのように、頭のてっぺんからつま先までが今にもはちきれんばかりに鼓動している。

「白綺?」
「な__ん、でも、ありませ……」
「どこか打ったか」

 するりと肩に広い手のひらが滑る。その些細な感触にびくっ! と白綺の全身が震えた。
 春絶の手は一度浮いたが、その後ゆっくりと、まるで生まれたばかりの赤子に触れるような身長差でゆっくりと、再び触れる。

「白綺、怪我をしたなら」
「していません、」白綺は小さな声で言った。「だ、大丈夫です、ちょっと躓いただけで、ほんとうに……」
「白綺」

 春絶が言った。「こちらを向きなさい」

 それは懐かしい物言いだった。まだ白綺が別の神に仕える神使だった頃。この山で野垂れていたところを春絶に保護され、そうして目が醒めるなり早々に山を去るように言われたとき。神と神使という立場の違いというよりも、大人が幼い子供を宥めるような、兄が弟によく言って聞かせるような。

 早々に去れと言っていることは素っ気ないのに、思えばあの時から春絶は優しかったのだと思い出す。思い出してしまう、こんな時に限って。

 俯いたままもそもそと膝の向きを直し、振り返る。
 ちらと様子をうかがって、白綺はすぐに後悔した。

「……顔を打ったのか? 赤くなっている」
「いえ……あの……」

 湯を浴びたばかりでまだ湿り気を残している髪がこめかみや首にはりつき、三角の耳も心なしかすこししぼんで見える。
 白綺と同じ灰白の着流しの襟元は緩く開いていて、そのうえ白綺の様子を診ようと跪いているせいで、引き締まった胸元やそこに一閃刻まれた黒々とした傷痕__本来なら息を呑み、この傷がついた事件を思い出して心を痛ませるべきそれすら__隆々とした肉体に絡みついて、どこか艶めかしく見える。

 普段の黒い和装を堅牢なほど纏っているせいか、肌に残った水滴を弾く肌の質感に気圧されてしまう。
 
 悟りだの神だの言葉を並べたところで、目の前にあるものは血の通った肉体であり、いきものであると、否が応にも理解してしまった。

「白綺」
「そんなに名前を呼ばないで……」
「何故?」
「な、なぜもなにもありません、とにかく、呼びすぎです」
「この名前は、私にとって初めて他人に与えた名だ」春絶は視線をすこし逸らして言った。「心は込めたが、逆に言えば私の心だけだ。意義の深い良い名とは言えまい。お前が気に入らないというなら、変えるといい。当時はただ、私の心に浮かんだことをそのまま名にしてしまった__」

 予想外の方向へ話が転じている。
 名前が嫌になったわけではない、と白綺は慌ててそう言おうとして。
 それより先に春絶が言った。

「あの時は__そう、ただ白くて綺麗なものを見て、名付けたのだった。白綺と」
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