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第二章 神はいずこ
16-1 神はひとり
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春絶が白綺の少し前を歩く。純白の雪山には二人の足跡がか細い轍を残している。
「白綺、冷えるだろう」
「平気です」白綺が答えると、声は辛うじて白く濁った。白綺はもう一度息を吐いた。それは空中で結露し、煙のように一瞬色づく。「此処へ初めてきたときは、こんな風にもなりませんでした。今こうして息が白くなるのは、あなたが寒さを和らげてくださっているのでしょう」
「気休めに過ぎん。この雪を止ますことは出来ぬゆえ」
春絶の息は結露せず、ただ透明だった。
白綺は尋ねた。
「春絶殿、一体どこへ向かっているのですか」
見渡す限り、白だ。
雪が積もり、かろうじて遠くにちらほらと黒く錆びた釘のようにひしゃげて、歪に生えているのは、とうに枯れた木々だろうか?
春絶は「奥へ」と言った。そう言ってから、続けて
「この空間、私の神域、その中枢であり__最奥へ」
「そこには何があるのです?」
「全て」
春絶はいつもに増して口数が少なかった。話す言葉も短く、どこかぶっきらぼうでもあった。
それを白綺は珍しく思った。春絶がそうも何か隠そうと、取り繕おうという、それすらひとつの感情として、分かりやすく他人に読み取らせるような振る舞いをするのが。
それから一体どれほど歩いただろうか。
行軍に経験のある白綺をしても、まるで代り映えのない白の世界をただただ歩くのは堪えた。道もなにもないのである。どちらへ向かっているのか、真っすぐに歩けているのかもわからないので、春絶がそばにいても、たびたび後ろを振り返っては自分が歩いてきた足跡がまっすぐに続いていることをその目で確かめなければ気が済まなかった。
そうして頼る足跡さえ、振り向いたときにはもう半分以上雪に覆われているのである。
____春絶はいつも、日がな一日こんな場所で過ごしているのか。
白綺が太宰府に出向いているとき、天神の神域に招かれたことがある。天神の神域は宮廷を模したような屋敷がいくつも連なって、そこは全て神使たちの学び舎であった。庭には梅の木が咲き、鍛錬の号令や議論、あるいは歓談の声が響いていた。
神とてその権能や司る領域は千差万別。ならば神域の様相とて、一長一短に比べるものではない。
そうと分かっていても、この凍りついた山嶺に対し、異様な雰囲気を感じずにはいられなかった。
手足の先まで力を込め、気を付けていなければ、躓いた拍子にもう二度と起き上がれなくなりそうな、この妙な威圧感は、何によるものか。
「此処だ」
知らぬうちに、随分と高いところへ登っていたらしい。
春絶がおもむろに足を止めたそこか断崖の先端であることに、白綺は気づくのが遅れた。
つま先を揃えて隣に並べば、白綺の目にはそれが見えた。
連綿と平らかに、頑なに凍り付いた雪原。その中央に突如、巨大な亀裂が走っている。
淡雪が積もり、風がそれを磨き抜いて鏡のようにおごそかになめされた雪原にばっくりと開いた亀裂は、まるで巨大な瞳のようだった。
そして事実____その亀裂の奥で、濁った黄色いものがぐるりと過った。
「!!」
白綺が咄嗟に身構えたのは、その濁った輝きに見覚えがあった。
月のようなそれ。
それは。
それが、眼であると、白綺は知っていた。
「あれは____」
白綺が殺気すら纏って亀裂へ目を凝らすと、まるでそれを喜ぶようにまたぐるぐると奈落の奥から金色の目が何度も過り、まるで揶揄うようにぐにゃぐにゃとたわんでみせたりした。
その動きだけで白綺は理解した。その目が何か、ということではなく、ただそれが何か、途方もなく邪悪なものであると。
「長らく私にしか相手をされていなかったせいか、お前を歓迎しているようだ」
ふいに春絶が口を開いた。そして羽織の懐から右手を前へ伸ばす。
軽く握った右手を翻せば、そこには一輪の椿があった。血のように赤く、まるで今しがた手中から花開いたようなみずみずしさをもって。
春絶は亀裂へその椿を放り落した。椿は抗うこともなく真っすぐに落ちて、そうして亀裂の闇に呑まれた。
すると、亀裂から嬉々とこちらを伺っていた金色の目がいよいよ細まり、そのままふつっと消え失せた。
「……これでまた、暫くは退屈もするまい」
「春絶殿、あれは__」
白綺の問いに、春絶はこれまでの沈黙をふいにするように呆気なく答えた。
「あれは、先代の真神……より正しく言えば、その亡骸だ」
先代。真神。亡骸。
白綺は先代の真神がどのような姿で、何を為したのかを知らない。白綺が出会った真神は春絶のみであり、周囲の噂や伝聞によれば、もう百年以上前から当代の真神は春絶であるという。
だが、具体的には誰も代替わりの時期を知らないともいう。ただある年に、突然春絶が現れ、次々に神を裁き始めたということだ。神議りの時期でもなければ早々に本拠地を離れない神が、各地を巡り、神を招集し、裁いて回った。
大宰府において、白綺はこの年すでに天神に仕えていた神使から話を聞いた。連日次々に神が裁かれ、それを恐れた飛鳥周辺の神の何柱かが天神に陳情を申し出たという。
曰く、飛鳥に狂犬あり。大宰府の天神の号令をもって、これを討伐されたし、と。
だが、結果から言えば、天神はこの陳情を退けた。
____この地に生けるものを裁くは真神の権能。そして古来その力を与えたは天意である。
____彼の神の行いに狂いあらば、天意はこれを断じて許さぬ。しかし、天意はいまだ黙し、彼を許している。
____天意に疑いあれば、天に問え。己の心に正義があり、彼にそれが無いというのであれば、必ずや天意は応ずるだろう。正しきものに。
____軽々に同胞を罵り、我が神使に血を被れと迫るものの言葉と、天の黙するところ。いずれがより信に足るかなど、答えるまでも無い。
他にも陳情を受けた強大な神もいたようだが、大宰府が早々に不干渉の態度を取ったことで、多くはそれに倣った。
そして、陳情を受け、義憤に駆られて飛鳥の山を攻めた数柱の神がその後どうなったかは、ようとして知れない。彼らに陳情を出した神々でさえ、彼らの行方が知れない、ということ以上のことを調べようともしなかった。
「先代は私が殺した」
春絶が呟いた。隣に立つ白綺へ顔を向けて、一切の波風がない顔と目で。
「白綺、冷えるだろう」
「平気です」白綺が答えると、声は辛うじて白く濁った。白綺はもう一度息を吐いた。それは空中で結露し、煙のように一瞬色づく。「此処へ初めてきたときは、こんな風にもなりませんでした。今こうして息が白くなるのは、あなたが寒さを和らげてくださっているのでしょう」
「気休めに過ぎん。この雪を止ますことは出来ぬゆえ」
春絶の息は結露せず、ただ透明だった。
白綺は尋ねた。
「春絶殿、一体どこへ向かっているのですか」
見渡す限り、白だ。
雪が積もり、かろうじて遠くにちらほらと黒く錆びた釘のようにひしゃげて、歪に生えているのは、とうに枯れた木々だろうか?
春絶は「奥へ」と言った。そう言ってから、続けて
「この空間、私の神域、その中枢であり__最奥へ」
「そこには何があるのです?」
「全て」
春絶はいつもに増して口数が少なかった。話す言葉も短く、どこかぶっきらぼうでもあった。
それを白綺は珍しく思った。春絶がそうも何か隠そうと、取り繕おうという、それすらひとつの感情として、分かりやすく他人に読み取らせるような振る舞いをするのが。
それから一体どれほど歩いただろうか。
行軍に経験のある白綺をしても、まるで代り映えのない白の世界をただただ歩くのは堪えた。道もなにもないのである。どちらへ向かっているのか、真っすぐに歩けているのかもわからないので、春絶がそばにいても、たびたび後ろを振り返っては自分が歩いてきた足跡がまっすぐに続いていることをその目で確かめなければ気が済まなかった。
そうして頼る足跡さえ、振り向いたときにはもう半分以上雪に覆われているのである。
____春絶はいつも、日がな一日こんな場所で過ごしているのか。
白綺が太宰府に出向いているとき、天神の神域に招かれたことがある。天神の神域は宮廷を模したような屋敷がいくつも連なって、そこは全て神使たちの学び舎であった。庭には梅の木が咲き、鍛錬の号令や議論、あるいは歓談の声が響いていた。
神とてその権能や司る領域は千差万別。ならば神域の様相とて、一長一短に比べるものではない。
そうと分かっていても、この凍りついた山嶺に対し、異様な雰囲気を感じずにはいられなかった。
手足の先まで力を込め、気を付けていなければ、躓いた拍子にもう二度と起き上がれなくなりそうな、この妙な威圧感は、何によるものか。
「此処だ」
知らぬうちに、随分と高いところへ登っていたらしい。
春絶がおもむろに足を止めたそこか断崖の先端であることに、白綺は気づくのが遅れた。
つま先を揃えて隣に並べば、白綺の目にはそれが見えた。
連綿と平らかに、頑なに凍り付いた雪原。その中央に突如、巨大な亀裂が走っている。
淡雪が積もり、風がそれを磨き抜いて鏡のようにおごそかになめされた雪原にばっくりと開いた亀裂は、まるで巨大な瞳のようだった。
そして事実____その亀裂の奥で、濁った黄色いものがぐるりと過った。
「!!」
白綺が咄嗟に身構えたのは、その濁った輝きに見覚えがあった。
月のようなそれ。
それは。
それが、眼であると、白綺は知っていた。
「あれは____」
白綺が殺気すら纏って亀裂へ目を凝らすと、まるでそれを喜ぶようにまたぐるぐると奈落の奥から金色の目が何度も過り、まるで揶揄うようにぐにゃぐにゃとたわんでみせたりした。
その動きだけで白綺は理解した。その目が何か、ということではなく、ただそれが何か、途方もなく邪悪なものであると。
「長らく私にしか相手をされていなかったせいか、お前を歓迎しているようだ」
ふいに春絶が口を開いた。そして羽織の懐から右手を前へ伸ばす。
軽く握った右手を翻せば、そこには一輪の椿があった。血のように赤く、まるで今しがた手中から花開いたようなみずみずしさをもって。
春絶は亀裂へその椿を放り落した。椿は抗うこともなく真っすぐに落ちて、そうして亀裂の闇に呑まれた。
すると、亀裂から嬉々とこちらを伺っていた金色の目がいよいよ細まり、そのままふつっと消え失せた。
「……これでまた、暫くは退屈もするまい」
「春絶殿、あれは__」
白綺の問いに、春絶はこれまでの沈黙をふいにするように呆気なく答えた。
「あれは、先代の真神……より正しく言えば、その亡骸だ」
先代。真神。亡骸。
白綺は先代の真神がどのような姿で、何を為したのかを知らない。白綺が出会った真神は春絶のみであり、周囲の噂や伝聞によれば、もう百年以上前から当代の真神は春絶であるという。
だが、具体的には誰も代替わりの時期を知らないともいう。ただある年に、突然春絶が現れ、次々に神を裁き始めたということだ。神議りの時期でもなければ早々に本拠地を離れない神が、各地を巡り、神を招集し、裁いて回った。
大宰府において、白綺はこの年すでに天神に仕えていた神使から話を聞いた。連日次々に神が裁かれ、それを恐れた飛鳥周辺の神の何柱かが天神に陳情を申し出たという。
曰く、飛鳥に狂犬あり。大宰府の天神の号令をもって、これを討伐されたし、と。
だが、結果から言えば、天神はこの陳情を退けた。
____この地に生けるものを裁くは真神の権能。そして古来その力を与えたは天意である。
____彼の神の行いに狂いあらば、天意はこれを断じて許さぬ。しかし、天意はいまだ黙し、彼を許している。
____天意に疑いあれば、天に問え。己の心に正義があり、彼にそれが無いというのであれば、必ずや天意は応ずるだろう。正しきものに。
____軽々に同胞を罵り、我が神使に血を被れと迫るものの言葉と、天の黙するところ。いずれがより信に足るかなど、答えるまでも無い。
他にも陳情を受けた強大な神もいたようだが、大宰府が早々に不干渉の態度を取ったことで、多くはそれに倣った。
そして、陳情を受け、義憤に駆られて飛鳥の山を攻めた数柱の神がその後どうなったかは、ようとして知れない。彼らに陳情を出した神々でさえ、彼らの行方が知れない、ということ以上のことを調べようともしなかった。
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